子育て・教育

【寄稿】Withコロナで考えさせられる「諦め」の怖さ|子どもの未来のコンパス(19)

2021.09.2

先行き不透明な現代社会において、私たちはこれからの社会をどう形づくっていけばいいのでしょうか。東京大学大学院・牧野篤教授とともに、いま私たちが直面している大きな「うねり」を分析し、未来の指針を考えます。連載「未来のコンパス」第十九編。

     

                


     

    

この記事を書いた人

牧野 篤

東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。

牧野先生の連載はこちら

 


 

 

若年者の自殺の急増


    

二重に突き放される「お客様」としての学生たちが、社会から退却してしまう、それが「諦め」という心性として現れているのではないか、とお話しして前回を閉じました。

   

しかし私たちが考えなければならないのは、二重に突き放されているのは何も学生たちだけではなく、いまの若い人たち全体なのではないかということです。そしてそのうちでも気になるのが、若い人々とくに若い女性たちの自殺者の急増です。

     

コロナ禍が深刻化していた昨年の秋に、次のような報道がなされはじめていました。2020年8月の女性の自殺者が前年同月比で急増しており、とくに10代の女性の自殺者は3.6倍にもなる、と。

      

『朝日新聞デジタル』の医療サイト「朝日新聞アピタル」によりますと、厚生労働省の速報を用いて、次のように述べられています。

     

「今年8月の自殺者は1854人と、昨年8月に比べて251人増えた。男性は5%増だったのに対し、女性は40%増だった。とくに若い女性が増えており、20歳未満が40人(前年11人)、20代が79人(同56人)、30代が74人(同44人)だった。

『朝日新聞アピタル』(2020年10月3日)

   

そして、国立精神・神経医療研究センター薬物依存研究部の松本俊彦さんの話を紹介しつつ、すでに2020年の5月の連休当たりから自殺未遂やリストカットなどの自傷行為が増えてきており、通常パンデミックなどがメンタルに影響するのはタイムラグがあるが、今回はその影響の出るペースが速いと指摘しています。

     

その原因について、松本さんは、多くの人は人間関係の問題を抱えているが、男性と女性とでは対象が異なる。男性は職場など家の外での人間関係に傷つくことが多いが、女性は家族やパートナーなど身近な人との関係に追いつめられることが多く、緊急事態宣言や新しい生活、ニューノーマルなどの提唱によって、家族と過ごす時間が増え、その一方で友人たちと外食したり、雑談したりする時間がなくなり、精神的に追いつめられているのではないかと語っています。

    

     

このことはまた、学校の一斉休校やステイホームなどによって、却って子どもへの虐待やDVの報告が増えていることと表裏の関係にあるようにも思います。そしてその背後には、さらに緊急事態宣言その他によって雇用が不安定となった人々の存在があります。

      


その後、自殺者の増加については様々に報道があります。今年(2021年)の3月には、『日本経済新聞』(電子版2021年3月16日)が「自殺11年ぶり増 コロナ影響か、女性や若者が増加」との見出しで、次のように報じています。

   

警察庁と厚生労働省が16日に発表した2020年の自殺者数(確定値)はリーマン・ショック後の09年以来、11年ぶりに増加した。女性や若年層の自殺が増えている。新型コロナウイルスの感染拡大を背景に、経済的な苦境に追い込まれたり、孤立に陥ったりする人が増えているとみられる。

『日本経済新聞』(電子版2021年3月16日)

     

そして、昨年の月別自殺者数の推移に次のような考察を加えています。

     

月別では、上半期は緊急事態宣言下の4月が同307人減(16.9%減)、5月が同262人減(14.1%減)となるなど、前年より少ない水準で推移した。下半期に一転して各月で前年を上回ったことが、通年で11年ぶりの増加につながった。

『日本経済新聞』(電子版2021年3月16日)

夏から秋にかけて俳優ら著名人の自殺が相次いだことが影響した可能性がある。

『日本経済新聞』(電子版2021年3月16日)

これについては、

一般社団法人「いのち支える自殺対策推進センター」の清水康之代表理事は「コロナ禍が長期化するなか、潜在的に自殺リスクを抱えながらも踏みとどまってきた人たちに自殺報道が影響した」

『日本経済新聞』(電子版2021年3月16日)

と指摘しています。

     

『日本経済新聞』(電子版2021年3月16日)

            
  
  

潜在的なリスクとは


      

私が気になるのは、清水さんのおっしゃる「潜在的な自殺リスクを抱えながら踏みとどまってきた人たち」という存在のあり方です。清水さんは、『日本財団ジャーナル』で、次のように語っています。

     

「自殺のリスクが高まるのは、『生きることの阻害要因』が『生きることの促進要因』を上回ったとき。つまり、生きることを後押しするさまざまな要因の全体よりも、生きることを困難にさせるさまざまな要因の全体の方が大きくなった状態のときです。裏を返すと、いくら阻害要因が大きくても、促進要因の方がそれを上回っていれば自殺のリスクは高まりません。促進要因の中には、将来の夢や信頼できる人間関係、ライフスキルや信仰などがあります」

『日本財団ジャーナル』(2021年3月19日)

     

「日本財団ジャーナル」(2021年3月19日)

   

そして、次のように続けます。

    

「生きる阻害要因が大きくなっていることよりも、促進要因が少なくなっていることが背景にあると思います。自分自身であることに意味を感じられず、自己肯定感が低くなっている方が多くなっているのでは」と清水さんは推測する。

「若い人たちからは、『死にたい』というより、『消えたい』『もう生きていたくない』といった声を多く聞きます。まさに、死にたいのではなく、生きていることをなくしたい、その手段として自殺を考えるということなのだろうと思います。自分がやりたいことよりも『どうすれば周りに評価されるか』を気にしなければならない中で『過剰適応』を起こし、それを続けている内に、何のための自分なのか、自分が一体何者なのかが分からなくなっていくという悪循環に陥ってしまっているのではないかと感じます」

『日本財団ジャーナル』(2021年3月19日)

つまり、自殺の潜在的なリスクとは、生きることの阻害要因が大きくなることではなくて、むしろ問題はないように見えていても、生きることの促進要因が小さくしぼんでしまっている若者たちが増えているということなのだといえます。

     

清水さんがいうように、積極的に生きようとするのではなくて、むしろ生きている意味がわからなくなる、そして語弊のあるいい方ですが、積極的に死を選ぶのではなくて、いまの自分という存在を消してしまいたい、生きているということをなくしたいと感じている、つまり積極的に死を肯定して、死を選択するというよりは、生を積極的に肯定できず、消えてしまうかのようにして自ら命を絶つ若者が多くいるということなのではないでしょうか。無気力な死といってもよいかもしれません。

     

    

それはまた、第18回連載で述べた「諦め」と同じような心性なのではないでしょうか。自分がこの社会にいることを積極的に肯定できず、その意味もつかめないまま、「もういいや」と諦めてしまう、つまり自分がこの社会で他者とともにあることを積極的な意味をともなって感じることができず、自分が存在することを投げてしまうこと、そういうことと自ら死を選ぶということが結びついているように思えるのです。

    

それは自ら積極的に死を選び、膨大なエネルギーを使って命を絶つというよりは、消えてしまうかのようにして、この世界から身をひいてしまう、そういうものとして自殺がある、つまりすぐ隣にあるような、とても敷居の低いもの、ちょっと道草でも食うかのようにして、いなくなってしまう、そのようにもとらえられます。

   
   
   

自己肯定感の低い日本の子どもたち


     

この若者の自殺と「諦め」の関係、連載第13回でも指摘した「ことば」のあり方とかかわります。

    

また、連載第9回では、子どもたちの貧困の問題と自己肯定感の関係を述べた上で、お金を回すことは最低限必要だけれども、それだけでは不十分で、子どもたち自身が自分でその境遇から抜け出そうと思い、そのための努力を重ねることができるような意志の力を身につけさせることが必要で、そのためには彼らの自己肯定感を高めることが求められると指摘しました。

     

実は、国際比較では、日本の子どもたちの自己肯定感はかなり低いことが様々な調査で指摘されています。単に一部の貧困家庭にいる子どもたちだけではなくて、日本社会の一つの傾向として、子どもたちの自己肯定感の低さが様々な調査から明らかになっているのです。

    

たとえば、2018年の調査では「自分自身に満足している」という項目では、「そう思う」と答えた日本の子どもは1割強、比較対象となった韓国・アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・スウェーデンではどこも3割を超えています。これに「どちらかといえばそう思う」を加えても日本は45パーセントほど、他の国はどこも7割を超えています。その5年前の調査と比べると、「そう思う」の割合は3パーセントほど上昇していますが、「どちらかといえばそう思う」を加えた割合は、ほとんど変化はありません。(令和元年版 子供・若者白書(概要版)特集1 日本の若者意識の現状~国際比較からみえてくるもの~

     

令和元年版 子供・若者白書(概要版)特集1 日本の若者意識の現状~国際比較からみえてくるもの~

    

このほか、たとえば「自分には長所がある」についても同様の傾向です。ただ、「自分は役に立たないと強く感じる」という項目では、他の国々と比べても、これほど顕著な違いはありません。むしろ、アメリカやイギリスの子どもたちよりも割合は低く、逆に韓国やドイツ・フランス・スウェーデンの子どもたちよりも若干割合が高くなっています。しかし、これと「自分自身に満足している」をクロスさせると、「日本の若者は、「自分は役に立たないと強く感じる」に「そう思う」又は「どちらかといえばそう思う」と回答した者ほど、「自分自身に満足している」に「そう思う」又は「どちらかといえばそう思う」と回答した者の割合が低かったが、諸外国の若者に同様の関係は認められなかった」とされます。(令和元年版 子供・若者白書(概要版)特集1 日本の若者意識の現状~国際比較からみえてくるもの~)     

      

また、「将来外国留学をしたいか」と聞きますと、日本の子どもたちだけが「したいと思わない」が5割を超え、群を抜いて多くなっています。これをさらに「自分自身に満足している」とクロスさせると、「外国留学への意識と自分自身のイメージとの関係をみると、同様に、「自分自身に満足している」に「そう思う」又は「どちらかといえばそう思う」と回答した者ほど、「そう思わない」又は「どちらかといえばそう思わない」と回答した者と比べて、外国留学を希望する者の割合が高く、特に、「外国の学校に進学して卒業したい」と「半年から1年程度留学したい」という中長期の外国留学を希望する者の割合が高かった」とされます。(令和元年版 子供・若者白書(概要版)特集1 日本の若者意識の現状~国際比較からみえてくるもの~

     

一つの傾向性ではあるのですが、自分に対する満足感の低さ、つまり自己肯定感の低さが、自分には長所があるというある意味での自己効力感や留学という未知の物事に挑戦しようとする意欲の低さとが相関関係にあることがわかります。

     

それだからか、自分は異文化理解の力や対応する力を身につけていると考えている子どもの割合も、日本は他の国々と比べてとても低くなっています。日本の子どもたちが全般的に、自分に対して肯定的になれず、様々な物事に対しても消極的であることがうかがえます。

     

この傾向は、次のような設問への回答により明確に示されることになります。

      

「社会をよりよくするため、私は社会における問題の解決に関与したい」という項目に対する回答は、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」を合わせると、日本の子どもたちは4割強ですが、他の国々は5割以上、アメリカやドイツは7割を超えています。しかも、「どちらかといえばそう思う」の割合はどの国もほぼ同じで、この割合のちがいは、「そう思う」という子どもたちの割合の差なのです。(令和元年版 子供・若者白書(概要版)特集1 日本の若者意識の現状~国際比較からみえてくるもの~

      

自己肯定感の低さが、自分はどうせ役に立たないし、何か行動を起こしてもどうにもならない、意味ない、と社会に対する諦めにつながっているような感じを受けます。

       
   
   

褒められても肯定感は上がらない


   

この自己肯定感は、連載第9回でもとりあげた非認知能力を形づくる重要な要素です。非認知能力とは、いわゆる客観テストで測って点数化できるような能力ではなく、対人関係などで発揮される能力だとされます。この非認知能力が身についていないと、子どもたちは客観テストで測られる認知能力、つまり国語や算数などの能力がつかず、学力が低いままとなってしまい、その結果、貧困からも抜け出せなくなってしまうといわれます。

     

日本社会は学歴社会で、学歴と職業とが相対的に結びついている社会ですから、学力が伸びず、学歴が低いということは、そのまま収入の低い職業に就かざるを得ないことを意味しています。だからこそ、一時期、子どもたちの非認知能力を高めることの重要性が喧伝されたのです。

     

これに対して、連載第9回では、単に褒めるだけではなくて、むしろ豊かな人間関係の中で子どもたちが認められて育つこと、そこでは認知能力の根幹でもある言葉の力を身につけることが重要ではないか、子どもの貧困問題とは、表面的には家庭の経済的貧困だが、それをもたらし、またそれがもたらす、人間関係の貧困がその背後にある大きな要因なのではないか、と指摘しました。

     

    

ですから、この観点からは、子どもの自己肯定感などの非認知能力を高めるために、子どもを褒めましょうという議論が一時花盛りでしたが、褒めればよいのか、という疑問が生まれるということになります。

    

そして、実は私の学生たちと話をして、ハッとさせられるようなことを、彼らがいうのです。褒められても自己肯定感は上がらない、と。

    

この議論は、たまたま、学校とはどういう場所なのかと、数名の学生たちと議論していて、私の気持ちとしては、学校こそ、社会から区切られて、子どもたちが守られている空間と時間なのだから、そこでは大いに失敗してもいいのではないか、でも、いまの子どもたちは学校では失敗してはいけないと思い込んでやしないか、学校で失敗しないでいると、将来社会に出てから、大きな失敗をして、ショックを受けることになりはしないか心配だ、と伝えたことで始まったのです。

     

すると、学生たちからは、異口同音に、失敗したらいけないと思っている。たとえば恋人同士でプレゼントをあげる場合でも、失敗したくないから、事前に何が欲しいのか、本当に欲しいものは何かを聞いて、間違いのないようにしている。それは、恋人だけではなくて、家族の間でもそうだし、学校での勉強や部活、さらに大学に入ってからのゼミや友だち関係、そして教師との関係など、様々な場面でいえることだ、というのです。

    

どういうことなのかと議論を進めると、こういうことなのではないかということがおぼろげに見えてきたのです。つまり、彼らは「褒められなければならない」と思い込んでいる、ということです。

    

これまで、家庭でも学校でも褒められ続けてきた彼らは、褒めて自己肯定感を伸ばそうということではなくて、褒められることが強迫観念となってしまっていて、褒められなければならないし、相手が自分に何かしてくれたら、褒めなければならないと思い込んでいる。だから、相手がプレゼントをくれたら、それが欲しくないモノであっても喜ばなければならないし、自分がプレゼントをあげたら、それは失敗したくない。そう思っているということなのです。

     

ですから、彼らは褒められるということはデフォルトの状態であって、何か自分が高まることに結びつくわけではなく、むしろ褒められないことが自己評価としてはマイナスになってしまう、だから褒められることを第一に考えないといけないという心理状態になってしまっているのだということです。

     

また、こうもいうのです。「褒められると、そこで対話が切れてしまって、自分は評価されたというデフォルト状態にとどまってしまって、次に行くことができないままになってしまう。それはデフォルトだから、それが0の状態なので、それはそれでよいことなのだけれども、自分のことをきちんと受け止めて、自分が相手との間できちんと位置づいていて、この社会に居場所があるとは思えなくなってしまう。しかも、褒めるというのは、何か基準があって、それに照らして褒めるということだから、それは評価と同じことになってしまって、褒められるということは、常に誰かから評価を受け続けるということであって、そこで失敗するわけにはいかない、こういう感覚になっている。」

     

それで、彼らはこういうのです。「褒められることは、それなりに気持ちはいいけれど、いつも誰かに評価されているというピリピリした感覚を持ち続けることになってしまって、気が休まらない。その上、褒められることは普通のことだから、褒められると思っていて、褒められなかったときのショックは大きいし、褒められてもデフォルトなので、肯定感は高まることはない。」

  
   
    

アンダークラス


    

学生たちがいうのは、褒められなければいられないけれど、褒められてもどうってことない、ということなのです。それはいいかえれば、褒められることが最低ラインなのだけれども、本当は褒められることの前にもっと大切なことがあるということなのではないでしょうか。

    

それは、彼らがこの社会にいられるということ、つまり自分がこの社会にいてもよい、意味のある存在、少し難しい言い方をすれば、人としての尊厳を認められているということなのだということです。

    

この最低ライン以前の大切なことが維持されないとき、子どもたちや若者たちは「諦め」つまり自分がこの社会にいることの意味を失ってしまい、この社会から退却しようとしてしまう。自分の存在つまり社会的な生を積極的に肯定することができないまま、いえ、積極的に肯定することをやめてしまい、存在を消すこと、死ぬのではなくて、生きていなくなることを選択する、そういうことなのではないでしょうか。

     

このような彼らの心性は、アンダークラスと呼ばれる新しい「階級」とも呼応し合っているように思えます。

    

アンダークラスとは、イギリスのサッチャー政権が採用した緊縮財政と新自由主義的政策によって、それまでのゆりかごから墓場までというイギリス型の福祉社会が解体をはじめるにともなって生まれた新しい階級だといわれます。

  

     

それまでのイギリスは、たとえば貧困層に対しては、社会保障制度をいわばルールに則って事務的に適用することで、彼らの生活を底支えし、社会的な自立を支援してきていたといってよいでしょう。

    

つまり、貧困などの状況は、社会が生み出した病理であるから、それは社会的に解決する必要があるという観点から制度がつくられ、その制度に基づいて運用されていたのです。

    

何がいいたいのかといいますと、その制度の運用に当たっては、制度を適用できるかどうかの客観的な事実だけが問われていて、その制度が適用される人のあり方とくに感情や意欲、さらには社会的な彼らへの情緒的な評価は関係なかったということです。

     

しかし、サッチャー政権以降の緊縮財政下では、社会保障のための予算は圧縮され、自助努力が求められることとなります。

    

その結果、たとえば貧困層も、貧困であるという事実を制度的に認定して、いわば事務的に社会保障がなされることはなくなり、自分が貧困であることを申告し、しかもなぜ貧困になってしまったのか、それは自分が努力しなかったからだということを表明し、社会から蔑まれること、つまり社会に「寄生している」と見なされ、尊厳を傷つけられることと引き換えに、温情として、福祉の手が差し伸べられることとなる、ということになったのです。

    

このような制度では、貧困層は、怠け者であり、社会に寄生している、存在するに値しない人々だというまなざしを社会的に向けられることとなります。

    

その結果、何が起こったのかといいますと、緊縮財政が生んだこのような貧困層が、働こうともせず、社会保障制度に依存して、生存し続ける状態が生み出されたというのです。

    

これを、労働者階級のオヤジをこよなく愛しているブレイディみかこさんは、こういっています(彼女の口の悪さは、愛情の裏返しだと受け止めています)。

   

「困窮している人には住む家を与えますよ。仕事が見つからない人には半永久的に生活保護を出しますよ。子どもができたら人数分の補助金を上げますよ。の英国は、その福祉システムのもとで死ぬまで働かず、働けずに生かされる一族をクリエイトした。」(ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争—ブロークン・ブリテンの無料託児所から』みすず書房、198頁)

    

▶ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争—ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)

    

その先にある人々を、ブレイディさんはこういいます。「金だけ与えて国畜として飼い続けた」(同上書、30頁)

             
   
   

日本のアンダークラス


              

私たちの世代のサラリーマンはバブル景気の頃、「社畜」(会社に依存していて、まるで会社に飼われている家畜のような存在)と揶揄されたことがありますが、「国畜」とはすごい表現です。

    

もう、人間としての尊厳を認められていない、ということなのではないでしょうか。そういう人たちは、無気力になってしまいますし、諦めてしまいます。すでに死を選ぶことすら諦めてしまい、一生、働かず、国に飼われているだけの存在になってしまっているのではないでしょうか。

   

その結果、何が起こったのか。ブレイディさんは続けます。

     

「自らをリスペクトできなくなった人間に、もう国は貴様らを飼えなくなったから自分の力で立ち上がれ。というのは無茶な話だ。・・・・・・自分の力でナントカできる気概やスキルが備わっていない人間を路傍に放り出したせいで、英国だって餓死者が出る社会になってしまった。」(同上書、30頁)(それでも、彼らはたくましく「生かされて」いる(同上書、282頁)とブレイディさんはいうのですが・・・・・・。)

     

これは特殊な例なのでしょうか。私にはそうは思えないのです。

    

新自由主義の経済政策でいわれたトリクルダウン理論(理論と呼べるものであれば、ですが)が、それを物語ってはいないでしょうか。

    

すべては自助努力だとして、条件の違いを無視して、すべての人々を競争させ、結果的に一部の富裕層を優遇して、彼らがより多くの利益を出すようにすれば、そこからおこぼれが下の階層へとしたたり落ちて、社会全体が豊かになる、こういうファンタジーです。

    

この「理論」では、最上階にいる一部の富裕層以外は皆、富裕層に寄生するアンダークラスなのではないでしょうか。

       

    

そして、橋本健二さんがコロナ禍以前から指摘しているように、日本にもこのアンダークラスと呼ぶべき階層が急速に広がっているのです(橋本健二『アンダークラス—新たな下層階級の出現』ちくま新書)。

     

▶橋本健二『アンダークラス—新たな下層階級の出現』(ちくま新書)

    

橋本さんの定義では、アンダークラスとは、非正規雇用者のうち、パート主婦と専門・管理職以外の930万人にも上る被雇用者で、彼らの平均年収は190万円弱だといいます。貧困率も高く、女性では5割を超え、また子ども時代にいじめや不登校などを経験している人が多く、健康状態もあまりよくないといわれます。

      

いわば、連載第18回で記した「感情労働者」のうち、非正規雇用に当たる人々のことだといってもよいでしょう。

    

こういう人々の存在を、私たちはコロナ禍以前にはさして気にせずにいられたのですが、コロナ禍でその存在が一気に明るみに出たといってもよいのではないでしょうか。

     

コロナ禍で私たちが目の当たりにしたのは、この社会を維持するためになくてはならない職業を担っている人々、これをエッセンシャルワーカーといいますが、とくに医療や介護さらには環境衛生等の仕事に携わる人々の労働の過酷さと待遇の悪さ、さらにサービス業などの非正規雇用者の多さと生活の不安定さだったのではないでしょうか。

      

     

こうした人々がコロナ禍で過重労働を強いられ、職を失って経済的に追いつめられ、さらに社会的に尊重されないことによって、尊厳を傷つけられ、「諦め」へと追いやられていってしまっているのではないでしょうか。

     

褒められることがデフォルトであるこの社会で、ただでさえ、顧客から無理難題を押しつけられ、罵倒され、それでも「スマイル」をぎりぎり保ってきた人々が、コロナ禍で尊厳を否定され、存在の意味を失って、「諦め」てしまう。こういうことになっているのではないでしょうか。

      

しかも、この社会では、コロナ禍のかなり以前から、たとえば生活保護の申請に出かければ、担当者から人格を否定されるような言葉を浴びせられ、尊厳を傷つけられ、さらに社会からは働こうとしない怠け者、「社会の寄生虫」と呼ばれて、自分の存在の社会的意味すら否定されてしまうような状況におかれる人が多数存在していました。

     

彼らは、働こうとしないのではなく、自分を押し殺し、人から尊厳を傷つけられ、人格を否定されることで、「褒められる」ことがなくなってしまった存在、つまり「諦め」に囚われ、何もしようと思えなくなってしまった存在、つまりデフォルト以下の存在なのではないでしょうか。

      

しかも、こういう人々に社会はさらに追い打ちをかけるかのようにして、批判を強め、互いに間を分断していってしまいます。人々が孤立し、人間関係が極度に貧困化する中で、アンダークラスが増産され、その人々が「諦め」を社会の雰囲気として押し広げていくことになります。

     

こういう環境に育つ子どもたち自身が、どのような自己意識を持つことになるのか、もう明らかなのではないでしょうか。

          
   
   

「クソどうでもいい仕事」(ブルシット・ジョブ)


       

このアンダークラスの仕事とかかわりのあるのが、文化人類学者のデヴィッド・グレーバーさんのいう「クソどうでもいい仕事」(ブルシット・ジョブ)です(デヴィッド・グレーバー、酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳『ブルシット・ジョブ—クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店)。

    

▶デヴィッド・グレーバー、酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳『ブルシット・ジョブ—クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)

     

本当は人はもっと自由な時間があって、自分の意志で、自分の生活を営むことができるのに、なぜこんなに忙しいのか、なぜ自分の意志で自分の生活を営むことができないのか、なぜ人はやりがいを感じない仕事をしなければならないのか、なぜ自分でも無駄で無意味だと思う仕事をやらなければならないのか、なぜ社会の役に立つ仕事ほど待遇が悪いのか・・・・・・、それは、ブルシット・ジョブが社会に蔓延しているからだ。

     

本来、そんな仕事はあっても社会の役に立たないし、なくなっても誰も困らないのに、それが際限なく増殖することで、人々を精神的に追い込み、精神的な暴力を加えている。こう主張するのです。

      

ブルシット・ジョブとは、「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」仕事のことだ、とグレーバーさんは定義づけています(同上書、27-28頁)。

     

働いている当の本人がその仕事の無意味さや不必要さを感じていても、屁理屈をこねて、必要だと自分に言い聞かせ、その結果、自分の精神を病んでしまうし、他人にも有害であるような職業だといってよいでしょう。

    

グレーバーさんはこのブルシット・ジョブには次の5つがあるといいます。

     

①「取り巻きの仕事」つまり誰かの飾り物として、その人を偉く見せるような仕事です。これをグレーバーさんは、「封建的家臣」のようなもので、ドアマンなどが典型的だといっています。

②「脅し屋の仕事」つまり他人を操るために脅したりする仕事ですが、それが雇用となっている仕事をいいます。最も典型的なのは軍隊だとされますが、ロビイストや企業の顧問弁護士、消費者を不安にさせてものを売り込むマーケッターや押し売りなどが例として上げられています。

③「尻ぬぐいの仕事」つまり組織の欠陥を穴埋めするためだけに雇われる仕事のことで、ソフトウェアの開発者など、本来であればシステムとして改善すれば済むものを場当たり的に修復し続ける仕事や、目上の人の不注意や無能さが引き起こした損害を現状復帰させる仕事だといいます。

④「書類穴埋め人の仕事」つまりある組織がやっていない仕事をやっていると主張することを唯一の存在理由とする書類づくりや不要なプレゼン資料・報告書をつくる仕事のことです。あー、これは私たち大学にもよくある仕事で、これに時間をとられすぎて、研究や教育が疎かになることがよくあります。

⑤「タスクマスターの仕事」つまり人に仕事を割り振るだけのためにある仕事や人がすべきブルシットな業務をつくり出し、監督する仕事、いいかえれば「ブルシット・ジョブ管理人」とでもいえそうな仕事のことです。多くの企業の中間管理職などはこれに相当するのではないでしょうか。(同上書、第2章)

    

    

そして、グレーバーさんはこのブルシット・ジョブが社会に蔓延することで、アンダークラスの人々を迫害するようになるといっているように思えます。

    

一つは、この仕事がアンダークラスの人々の生活と重なることで、アンダークラスの人々の仕事そのものが意味のないもの、あってもなくてもよいものとなってしまい、低賃金に押しやられつつ、彼らの尊厳を剥奪して、人間性そのものを否定することにつながること。

    

二つは、社会的価値の低いブルシット・ジョブが高給であったりすることで、逆に、エッセンシャルワーカーなど社会的に不可欠な仕事の待遇が低くなったり、さらには人の役に立っているのだから待遇は低くてもよいという「生きがい搾取」「やりがい搾取」の論理がまかり通るようになること。

    

つまり、社会的な意味はなく、働きがいもないが、だからこそ待遇がよい仕事として一部のブルシット・ジョブが上場企業の管理職などの間で広がるのに対して、働きがいがある仕事はそれだけで本人にとっては報酬だという論理がまかり通り、というよりも、低い待遇でも自分の仕事はやりがいがあるのだという論理で、エッセンシャルワーカー自身が低く抑えつけられた待遇を自分に納得させて、受け入れてしまうということです。

    

そしてこのどちらもが、ブルシット・ジョブに従事する人の尊厳を傷つけ、人格を否定することで、精神に対する大きな打撃を与え、それが結果的に精神的な疾患や自殺までをも引き起こすことになるのですが、その背後には、この仕事がもたらす「諦め」がありそうです。

    

そうすることで、人はこの仕事の意味、つまり自分の社会的な存在の意味を考えることもやめてしまい、企業や国に「飼われるだけの存在」となってしまいます。

      

NHKの国際比較研究によると、日本人の職業意識には、次のような特徴があるといわれます。

    

「労働時間が長い」「仕事をする上で、昇進や独立性を重視する人は少ない」「仕事の満足度が低く、自分の仕事に対する評価も低い」「仕事のストレスを日常的に感じている人が多い」「いまの職場を離れようとする人は少ない」(西久美子・荒牧央「仕事の満足度が低い日本人—ISSP国際比較調査「職業意識」から—」『放送研究と調査』2009年6月

    

ILO(国際労働機関)が各国に提唱するディーセントワーク(働きがいのある人間らしい仕事)のあり方とは真逆の状況に、日本の労働者がいることが垣間見られます。

                 
   
   

反出生主義


    

こうして、若者たちの昨今の自殺の特徴、つまり積極的に死を選ぶわけではなく、消極的に生きることをやめてしまうかのようにして、この社会から消えるような自殺と、アンダークラスの人々の生きることへの意欲を失って、社会の家畜化してしまうような生き方、そしてブルシット・ジョブにまみれて、自分を騙すかのように屁理屈をこねてやる気を失っていってしまう労働者のあり方が、すべて人としての尊厳を傷つけられ、また人格を否定されることで「諦め」に支配されてしまった心性によってつながっていくことが見えてきます。

     

それはまた、褒められることがデフォルトになっている若者たちの存在の仕方とも重なります。褒められることがデフォルトであるということは、褒められるという対話の切断によって、関係から突き放されているということです。

     

つまり、連載第18回で指摘した二重の突き放しによって、この社会に受け入れられているという感覚を持てなくなってしまった人々が、「諦め」に支配され、もうどうでもいいや、と自分を投げてしまう、そういうことがこの社会の常態になったのだとはいえないでしょうか。それは社会の緩やかな死を導くことになります。

      

そしてそれは、次のような「反出生主義」と結びついていくように思えます。

     

哲学者の森岡正博さんは、「生まれてこないほうが良かった」という反出生主義を世界思想史の中に位置づけて、それを超克しようとする、つまり「生命の哲学」へと道筋をつけようとする試みの中で、たとえばショーペンハウアーを取り上げて、概ね次のように述べています(森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?—生命の哲学へ!』筑摩選書)。

     

▶森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?—生命の哲学へ!』(筑摩選書)

     

ショーペンハウアーはカントの影響を受けているのですが、カントは、世界の側にあって私自身がとらえられない何ものか、これを「物自体」といいますが、それを私はとらえることができない、ただ、「物自体」が私に送り込んできた「現象」を認識することができるだけだといいます。

    

ショーペンハウアーは、これを援用するかたちで、私たち自身が「生きようとする意志」を持っているのではなくて、それは世界の側にあり、それが私たちの中に流れ込んできて、「生命」という現象になるととらえました。私たち個人個人は、この「生きようとする意志」に囚われとなって、盲目的に生殖行為を行う個体だととらえられます。

    

ショーペンハウアーにとって、「一切の生は苦しみ」であり、私たちが生きるのは死ぬためだとされます。それはたとえばフロイトの議論とも重なります。

     

      

生命は生まれるとすぐに死に向かって生きようとする。つまり生きていることそのものが、死ぬことに向かって生きようとするという矛盾、いいかえれば死への欲動に促される生の欲動とによってつくられているのですが、それだからこそ生きるということは苦しみなのだというのです。

     

ですからそこから抜け出すためには、「生きようとする意志」を自ら捨て去り、あらゆる世俗のことから関心を失い、完全な無意志の状態に移行することだ、とショーペンハウアーはいいます。

     

森岡さんは指摘します。「「生きようとする意志」を捨て去り、あらゆるものに対する無関心の境地に至ることこそが、真の「自由」であるとショーペンハウアーは言う。」「自我を滅却してこの世に生きる苦しみから解放されることこそが自由なのだ。」(同前書、96頁)

    

こうすれば「生きようとする意志」からも「自由」となり、盲目的に生殖行為に走ることもなく、終局的には生まれ出ないことが可能となる。こういうことなのです。

    

それはまた、たとえばショーペンハウアーが影響を受けた仏教の輪廻転生の思想においても、最高の善は解脱つまり輪廻転生しないことであったことと重なります。生まれてこないことが最もよいことなのだということになります。

    

この話を少し飛躍させれば、「諦め」に囚われている若者たちは、「生きようとする意志」から解放された「自由」な人たちなのだといえるのかも知れません。

      

そしてその人たちは、生きる意欲を失い、生殖行為さえもしないことで、最終的にはこの社会の死をもたらすこととなります。もしかしたら、ひきこもりの若者たちが、二次元のキャラクターに萌えても、生身の女性に関心をもたないことも同じ論理なのではないかと妄想が広がってしまいます。

                     
   
   

無関心だからこそ自由


   

この議論は、最強のペシミストと呼ばれるシオランの思想について述べている大谷崇さんの議論とも通じています(大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに—最強のペシミスト・シオランの思想』星海社新書)。

    

▶大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに—最強のペシミスト・シオランの思想』(星海社新書)

      

大谷さんはシオランが「人間は、無関心の能力を失えばいつ何どきでも殺人者となり、自分の観念を神に仕立てればその結果は計り知れない」と述べていることにかかわって、次のように述べています。

    

無関心な人々は、「無関心という形式でもって現状の自由を肯定しているのだ。」「無関心だからこそ自由が守られるという逆説が表れている。」「隣人に対する無関心が溢れる大都市はまさしく孤独死にいたるまで自由であるのだ。」(同上書、201-202頁)そしてこういうのです。「そんな自由が危険に晒されるのは、誰もが他人に自分の考えを強制しようとし、他人を意のままに動かそうとするときである。言い換えれば無関心を捨てるときである。」(同上書、202頁)上記のブルシット・ジョブのうち「脅し屋の仕事」と重なります。

    

大谷さんはさらにこういうのです。「自由社会はその成員が堕落していないと維持できない」、と(同上書、205頁)。

     

褒められることでさえも評価になってしまい、人格そのものが常に評価に晒され、監視されているかのような社会では、もう、あらゆることに関心を失い、生きる意志すら持たないようにすることでしか、自由を維持することはできない、そんなペシミスティックなメッセージが伝わってきます。

     

このことは、見方を変えれば、昨今の日本社会における少子化と人口減少の急激な進展は、このような「諦め」に囚われた人々がもたらす社会の死の緩やかな進行なのだともいえないことはありません。

     

たとえば、少子高齢人口減少という社会的なトレンドの大きな要因は、子どもが死なない、生まれれば誰もが天寿を全うできるような、よい社会をつくってきたことなのですが、人口置換水準(総人口を維持するために必要な合計特殊出生率)が日本の場合は2.08であるのに対して、実際の合計特殊出生率(ある国に生まれた女性がすべて出産するとして、生涯に産む子どもの数とほぼ等しい出生数)が1.4と低くなっているのは、産むことすら諦めてしまっている、むしろ子どもをもうけようとすら思わない若者たちが増えていることの現れではないかとも思えます。

    

      

(もちろん、希望出生率が1.8あるのに、実際の合計特殊出生率が1.4しかないというのは、産みたいのに産めない人がたくさんいるということですし、それは政策的な不作為がつくり出した少子化でもあるのですから、きちんと対策を取ることが必要です。)

     

この意味では、少子化を少しでも食い止めようとするのであれば、保育施設の待機児童数を減らすなどの福祉的な施策は必要ですが、それとともに、若い人々をブルシット・ジョブから救い出し、またアンダークラスからも引き上げつつ、彼らが尊厳を持った存在として社会的に尊重される関係をつくること、こうしたことが、この社会を「反出生主義」的な厭世観から救うことにもなるのではないかともいえそうです。

                     
   
   

怖い「諦め」


     

ところで、大谷さんはまた、こうもいうのです。ペシミズムは中途半端だ、と。どういうことなのでしょうか。

    

つまり「生への憎悪であるペシミズムは、自分が消滅させたがっているものを憎むことで、生を消滅どころか復活させてしまう・・・・・・。解脱のためには憎しみを捨てなければならない。だがそれを捨ててしまえば、ペシミズムはペシミズムでなくなる。だからペシミズムがペシミズムであり続けるかぎり、憎しみは復活し、生もまた復活する。・・・・・・ペシミズムは人を生かしてしまうことになる。」(同上書、333-334頁)

      

しかし、先に述べた若者たちのありようというのは、このペシミズムすら諦めてしまったようにみえる、といったらいい過ぎでしょうか。

    

それが、冒頭の生きることの促進要因が縮んでしまうことで、自らを殺すのではなくて、消えてしまうかのようにして、存在をなくしてしまう若者が増えていることとかかわっているのかも知れません。

    

そうだとしたら、この「諦め」こそが問われなければなりません。いいかえれば、ペシミスティックでいられるのは、それだけの社会関係があるからだ、ともいえます。

     

孤独を愛する人が、放っておいてくれといえるのは、孤立していないからだ、つまり孤独を選択できるような人間関係の中におかれているからだ、ということと同じです。

     

ここに、「反出生主義」が、ペシミズムと同様に、負け続けることとなる理由もあるように思います。「生まれてこないほうが良かった」といえるためには、生まれていなければならず、生まれていることを憎み、厭うためには、それだけの人間関係がなければならないからです。

      

しかし「諦め」はそうしたことすべてを諦めて、どうでもよいものにしてしまう、ペシミスティックにすらならない、こういうことになってはいないでしょうか。無関心ですらないといったほうが良いのかも知れません。

     

彼らを「諦め」から解放すること、社会に居場所(少なくとも何かの拠り所)があり、自分も尊厳を持ったひとりの人間として自尊心をもって生きられるようにすること、月並みで陳腐な議論かも知れませんが、改めてこのことが問われる必要があるのではないでしょうか。

       

     

コロナ禍が暴露することとなった「諦め」の怖さ、私たちはこれに真正面から向き合い、子どもたちの将来を彼らが互いに尊重しあって生きられるものにしなければなりません。

     

                


     

 

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