子育て・教育

【寄稿】Withコロナが仕向ける新しい取り組み|子どもの未来のコンパス(16)

2021.06.2

先行き不透明な現代社会において、私たちはこれからの社会をどう形づくっていけばいいのでしょうか。東京大学大学院・牧野篤教授とともに、いま私たちが直面している大きな「うねり」を分析し、未来の指針を考えます。連載「未来のコンパス」第十六編。

     

この記事を書いた人

牧野 篤

東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。

牧野先生の連載はこちら

 


 

 

コロナ禍1年


    

コロナ禍が騒がれ始めてから、すでに1年になろうとしています(この原稿執筆は2021年2月初旬)。この1年間、私も「行商生活」と自嘲気味に語っていた、各地への度重なる講演などもすべてキャンセルとなり、また大学での授業や教授会などの会議、そして学生や大学院生の指導もすべてオンラインとなりました。

     

初めのうちは、出かけたり、集まったりするいわば移動時間がないと、本来、こんなにも時間ってあったのだ、としばし感慨にふけっていました。そして、その移動にどれくらいの時間をとられていたのかと改めて考えると、年間で1000時間はくだらないのではないか、という計算となってしまい、唖然とした気持ちも抱いていました。なぜなら、一年間365日、一日24時間として、8760時間で、そのうちの1割超を移動に費やしていることになるからです。私の時間を返せ!ともいいたくもなります。

    

その意味では、コロナ禍がもたらした生活の変化には、時間の使い方が、かなりの部分、自分の手の中にあることを改めて気づかせてくれるものでした。

   

しかし反面で、行政関係はとくに対応が遅れました。なかでもネットワーク環境整備が極めて後手に回っていたことが明らかとなり、また予算に制約されるためか、なかなかオンラインに切り換えられず、審議会などは対面で行われ続けたり、対面が難しい場合には、状況が改善するまでの延期、いわば中止となったりすることが多かったのです。

    

それでも一年という時間が経つうちには、予算を組み換えたりしながら、昨年末から今年にかけて、多くの自治体の審議会や委員会がオンラインで開催されるようになりました。

   

また、各地でキャンセルとなった講演も、年明けからは、オンラインでの開催が増え、さらに学会などの研究大会もオンラインで行うところが増えてきています。Wi-Fi環境や通信機器などのハード面の整備が進むとともに、人々の意識が徐々に変わり、オンラインでできることはオンラインで行うという発想に転換が始まっているということでしょう。

   

ところが、このワーカホリックな社会では、オンラインへの転換をも仕事漬けにしてしまうような力が働いてしまうようです。自分の時間を自分で使える、移動時間はわが手に、と喜んでいたのも束の間、短時間の会議などが、従来の移動時間にどんどん入ってきてしまい、以前であれば、午前中1つ、午後は多くても2つの会議だったものが、いまや午前中3つから5つ、午後から夜にかけて6つも7つも、という日が多くなり、いつの間にか、さながらオンラインという鎖につながれた奴隷の様相を呈しつつあります。やれやれです。

  

求められるから、ということもありますが、先方も移動時間の負担を考えなくてもよいことがわかってくると、依頼しやすくなったということもあるのでしょう。

   

日頃から、これまでは通勤や通学によって、外の組織や集団の規範に自分を預けることで、生活の秩序を保ってきたが、これからは自分の日常生活の中にどのようにして「働くこと」や「学ぶこと」を組み込んで、生活のリズムをつくるのかが課題となる、と偉そうに吹聴している身としては、反省することしきりです。

            
  
  

人間関係と自然環境


      

私の知人のベンチャー企業のオーナーたちは、オンラインでどんどん仕事ができることがわかってしまった、といって、続々と東京から脱出し始めています。

   

目指すは、伊豆高原や熱海そして那須高原など、東京からほどよく離れていて、しかも自然環境がよく、地元の人々も新しい移住者を受け入れるのに慣れている、いわば「いい環境」の場所です。もちろん、他にももっと魅力的な土地はたくさんありますし、なかには徳島や大分、秋田や新潟、長野などに飛んでいった知人もいます。

    

彼らは異口同音にいいます。「一旦オンラインで仕事ができることがわかってしまうと、いままで高価な東京の都心にオフィスを構えて、通勤地獄と呼ばれるようなラッシュに巻き込まれ、自分でも非人間的だと思いつつも、他の会社もそうしているのだからと自分を納得させてきたことが、バカらしくなってしまった。ちょっと、東京の都心を離れれば、こんなにも豊かな自然があり、こんなにも親しい人々との関係がある。そういうことを知ってしまうと、もう、都心にいることの意味がわからなくなってきた。」

     

       

この話を聞いて、友人の農学者のことばを思い出しました。「中央線や総武線の殺人的なラッシュって、とっても人間的なんだよ。あんなところに豚を詰め込んだら、ストレスで即死だ。人間があんなに詰め込まれても生きていられるのは、文化的に一応、相互に譲り合うということを知ってるからだ。でも、東京の人たちは、不快に感じる他者との距離がとっても短いよね。だから傍若無人だし、お互いに嫌な思いをしてる。それでも、やっていけるのは人間だからだよ。」

   

この逆説的な彼の皮肉話を、皆さんはどうお聞きになるでしょうか。

   

さらに、移住組の知人たちはこういいます。「東京の都心にいた頃は、仕事の空き時間ができても、せいぜいお茶を飲みに行くことができるくらいで、本当の意味でリラックスできなかった。でも、こちらに来て、日常生活ってこんなにも豊かなのかと改めて気づいた。1時間もあれば、すぐに海岸に出られて、散歩ができる。谷川に入って、沢ガニが捕れる。地元の飲み屋のオヤジに調理の仕方を教えてもらって、それで酒の肴がつくれる。朝食や夕食だけでなく、家族一緒の昼食も。何もかもが、全部、自分でやることで、手に入る。お金ではない、時間と価値豊かな生活が自分の手の中にある。それはとってもうれしいことだ。」

   

「これからは、自分の内的な動機づけが高まるような、人とのつきあい方をしたい。それが仕事にもよい影響を与えると感じている。これまでは、仕事だからといって、やりたくないことをやり、会いたくない人にも会って、ストレスを抱え込んできた。でも、もう自分を抑圧するような生活はやめようと思う。」   

    

「そういう生活こそ、自分の内なる自然を豊かにするんだと、今さらながらに気づいた。人間関係も自然環境の一部なのだと。そして、自分自身がその自然の一部なのだと。」

   

「牧野、お前、いつまで東京にいるつもりだ? 早く出てこいよ。」

    

なんだか、ブロガーのイケダハヤトさんの『まだ東京で消耗してるの?—環境を変えるだけで人生はうまくいく』(幻冬舎新書)のようなフレーズですが・・・・・・。

     

▶イケダハヤト『まだ東京で消耗してるの?—環境を変えるだけで人生はうまくいく』(幻冬舎新書)

   
   
   

ちょっとがっかり


     

「いいなあ」と思いつつも、なかなか思い切れるものではない、というのも本音のところです。学生の指導はオンラインだけでよいのか、授業は、教授会は、さらに各地の審議会や委員会は、といい出せば切りがないほど、あれこれの言い訳が出てきます。

    

これだから変われないのかあ、といつもは威勢のよいことをいっていながら、自分のことになるとトーンダウンするのが自分でも嫌になりますが、何か強いきっかけがないと、なかなか変われないのでしょう。とくに、制度となってしまっているものを相手にする場合には、そうだといってもよいでしょう。

   

このところ、こんなことが起きています。第一次緊急事態宣言のときに、ハンコ文化を改めて、オンラインで文書処理できるようにしようというので、私の大学でも電子印鑑や電子署名の推奨があり、書式もオンライン決済用につくり直されて、電子メールで回ってきました。これで遠隔でも事務処理が捗ると思っていた矢先に、緊急事態宣言が解除され、その途端に、年度当初からの決裁文書は押印された原本を必要とするとの御触れが回り、しかも従来の書式で提出することとのことで、一悶着ありました。

    

    

何をバカなことを、というのが率直な感想でした。コロナ禍であろうがなかろうが、電子政府構想にあるように、従来のハンコ至上主義はやめにして、手続きを簡素化し、資源の無駄遣いもやめようとすることが本来のあり方ですし、それが可能な条件は整っているのですから、この機に、オンラインでの文書提出を徹底すべきだと思うのです。

    

しかも、これまでのハンコ原本主義であっても、そのハンコはいわゆる三文判なので、厳密には誰が押印したのかわからないのですから、ハンコ原本が本来の証拠担保能力を持っているのかといえば、疑わしいものです。むしろ、通信のログが残るオンライン決済の方が、余程、挙証能力には優れているようにも思います。

    

しかし、そうではないのです。紙の原本を保存しておくことが大事、なのだそうです。でも、政権そのものが自分に都合の悪い公文書を平気で破棄してしまって、国会で屁理屈を並べ、マスコミも最後まで追求しないような国ですのに、なぜ、そこまで紙の原本が大切なのか、よくわかりません。

   

それで、ハンコ原本を出すことになって、年度当初からの膨大な書類を、印刷して、それぞれにハンコをつく作業を事務職員が行ったのだそうです。時間と資源と労力の無駄と考えてはいけないのだそうで、それは悦びなのだそうです。やったことがない仕事を持ち込むとサボタージュして動かなくなってしまうのに、こういう自分で自分の首を絞めるような慣れた仕事は大好きなのかも知れません。それで、連日残業に追われようとも、です。働き方改革など夢のまた夢なのではないでしょうか。

    

これは、第二次の緊急事態宣言のもとでも繰り返されています。今度はもっと、手回しがよいのです。緊急事態宣言が出ている間は、暫定的にオンラインでの決済を認めるが、宣言が解除されたら、原本を提出することになるので、二つの書類を準備しておくように、とのことなのです。

    

変わりません。

   

また、こんなことがありました。ある公的な研修機関からセミナーの講師の依頼が来ていたのですが、緊急事態宣言下ということもあり、集まりが悪いので、中止としたいとの連絡があったのです。それで、諒解りょうかいしたとの返事とともに、今後はオンラインでの開催も視野に入れる必要がありそうですね、と書いたメールを送りました。

    

そうしたら、所長から次のような返事があったのです。「当センターは、対面での講義と合宿研修を通して、単なる講義だけではなく、人格的な交流に根ざす、公務員の職能の向上とネットワークの拡大を目的として設立された機関であるため、オンラインでのセミナーの開催は一切考えておりません。このことは、胸を張ってお伝えできます。」

   

オンラインではなく、対面での講習に誇りを持っていらっしゃることはよくわかります。

    

しかし、コロナ禍で昨年も中止となり、今年も中止なのです。集まりが悪いという理由ですが、もとから各自治体からは、数週間の研修に職員を派遣することには負担が大きいと苦情があって、研修期間の見直しが迫られていたのです。

    

その上、このコロナ禍で、受講者は一層地元の自治体を離れにくくなったということでしょう。そうだとすれば、この研修センターでは、ずっとオンラインでの開催は目的外の施策だといって、受講者の集まりが悪いと、セミナーを中止し続けるということでしょうか。

    

それで、本来の目的である、公務員の職能の向上とネットワークの拡大がなされるのでしょうか。中止し続けて・・・・・・。それを胸を張ってお伝えいただいても、という思いがどうしても出てきてしまいます。

   

本来やるべきことは、オンラインの環境下で、どのようにセミナーを開催し、どのように参加者の交流を組織して、さらにどのようにネットワークを広げるのかの、実践的な検討を通して、より効果的な講習のあり方を模索することではないでしょうか。

     

それを放棄しておいて、対面での講習と合宿研修にこだわり、それがこのセンター設立の趣旨だと胸を張られても、このままコロナ禍がズルズルと長引き、参加者が集まらないとしたら、集まるまで研修は中止をし続けるということなのでしょうか。それでこのセンターの本当の設立目的である公務員の職能向上はなされるのでしょうか。

   

しかも、コロナ禍が落ち着いて来たとしても、その時の社会は、これまでのような社会とは異なる社会です。つまりオンラインでのつながり方を実装した社会になっているはずです。そのような社会のあり方を、公務員として受け止め、運用しつつ、住民生活を支えるためには、オンラインでのつながり方などを自ら体験し、また新たなつながり方や生活のあり方を研究しなくてもよいのでしょうか。

    

   

私の理解を超えています。まだまだ、こういうがっかりするような事例に事欠きません。

       
   
   

話題の共有と共感:つながり方の試み


   

私の研究室は、コミュニティスクールの形成事業の一環として、ある自治体の小学校とつながって、学校の中に地域交流ルームを設置してもらい、子どもと地元住民とくに高齢者との交流を促進して、子どもたちの社会体験を豊かにする実践を進めています。コロナ禍の影響で、子どもと住民、さらには研究室の大学院生たちが直接会って交流することができなくなってしまったのですが、この小学校では、次のような試みを続けています。

   

この小学校の試みでは、これまでの交流ですでに良好な関係が形成されているところへ、オンラインでのつながりを持ち込む形となりました。直接対面方式で形成されていた相互の交流が、オンラインでは機能し得るのか、またどのように変容するのかが不安視されましたが、結果的には、子どもたちの活躍もあって、より緊密な結びつきをつくりだす可能性を見出せるものとなったと受け止めています。

   

この小学校との取り組みは、二つの方式によりました。一つは、感染予防対策を徹底した上で、地域交流ルームに子どもや地元住民が集まって、私の研究室院生とオンラインで交流する方式です。もう一つは、子どもも住民も自宅またはそれぞれ個別の場所からオンラインネットワークにアクセスして、交流に参加する方式です。

   

そして結論的には、ある条件が満たされた場合、オンラインでの交流は直接対面方式の交流と遜色なく、さらにはそれ以上の交流関係をつくりだし、相互の結びつきを強める効果を持つという結果が得られたのです。

    

この試みでは、情報機器に疎い高齢者を主とする住民に対して、まず地域交流ルームで子どもたちがパソコンの操作を教え、住民が子どもたちから学ぶという関係がつくられました。それ以前は、どちらかというと指導され、支援される側にいた子どもたちが、指導する側に回ったのです。しかも、それをうれしく受け止める住民の存在がありました。その結果、オンラインのつながりでは、子どもたちが主導権を握ることとなり、子どもたちが自分の役割を自覚して、積極的に動こうとしたことが、第一に印象的でした。

     

                

さらに、その後、オンラインで個別に交流を行った場合にも、子どもからきちんとアクセスできているかどうかの確認に対して、「ちゃんとできてるよ。ありがとう」という住民の応答によって、子ども自身の肯定感が高まり、より積極的に自分の役割を果たそうとする動きを見ることができました。

   

相互に認めあう関係を基礎として、共感の関係ができあがり、それが互いに配慮し、感謝、そして尊重する関係へと展開していることがうかがえます。

   

その上、この交流では、地域交流ルームで今後の子どもたちとの交流のあり方について議論することとなりましたが、そこでは、話題がすべての参加者に共有されることで、その話題をめぐって、高齢住民たちが画面の中の子どもたちや住民に向けて語りかけるような仕草が見られ、しかも画面の中に語りかけることで、その語りは否定的なものであるよりは、肯定的な、または提案的な、少し遠くの相手に対して、自分の意見を届けようとするような語り口を示すことが見られたのです。自分の意見を主張するときも、互いに配慮し合いながら、口調を調整しているのです。ここに新たなかかわりのあり方を見出すことができます。

     

このように、オンラインでのつながりにおいては、子どもたちという、これまでおとなからの働きかけの対象であった存在が、主役に躍り出ることで、自己の役割を自覚的に果たすようになり、しかもそれを高齢住民が好ましく受け止め、そうすることで、相互に認めあう関係が生まれ、さらに住民の側は子どもから教えられることをうれしく思い、子どもを賞賛するという関係がつくられていくことを見ることができたのです。

    

このようなある種のフラットな相互に認めあう関係の中で、話題が共有され、相手が二次元画面の中にいることによって、遠くの相手に自分の思いを届けようとする、距離感を前提とした働きかけのあり方へと、子どもも住民も自らの態度を組み換えていることを確認することができました。

    

さらに、その上で、この実践で用いたカメラシステムのような発言者にフォーカスする仕組みが加わることで、発言者を注視し、その発言をしっかりと聞き取りながら、応答しようとするかかわりが生まれているのです。

    

          

写真は新たなカメラシステムを用いて交流した時の、私の研究室側の画像で、画面右上の画像がこのカメラシステムによる画像です。上段にその場にいるすべての参加者が映し出され、発言すると、発言者にフォーカスした画像が下段に映し出されるようになっています。このシステムを使うことで、発言者が大写しになり、直接対面方式とは異なる臨場感が生まれ、参加者には、発言者を注視して、その発言を聞き取ろうとする仕草が多々認められたのです。

    

そこにあるのは、話題の共有と相互の尊重という関係における共感であり、相互に共感的な関係に入ること、そしてそれぞれが他者に対する共感的他者として自らをつくりだし、相互に語りかけ、かかわりあうこと、そうすることでより一層コミュニケーションが深められるという関係に入っていること、この事実だといってよいでしょう。

  
   
    

手触りと妄想力:つながり方の試み


    

さらに興味深かったのが、私もかかわったある地区の高齢者の学びの実践です。コロナ禍の影響で、それまで地区の集会所に集まって交流していた高齢者が集えなくなってしまい、鬱々とした毎日を過ごしていました。そこで、地区のリーダーたちの発案で、オンラインでつながろうということになり、若者たちが感染予防をした上で、高齢者にオンラインソフトの使い方を教えて回ったのだそうです。

    

その後、高齢者たちは、オンラインで懇談できるようになり、一時の寂しさを紛らわすことができるようになったのですが、それでは物足りない、なんだかテレビの中の相手を見ているようで、疎遠だという意見が出るようになったのです。

    

どうしたものかと考えあぐねているときに、関係者の一人が造形教室をオンラインで開いてはどうかといいだして、それはおもしろそうだということで、みんなで粘土細工をしようという話になったのだそうです。参加する高齢者一人ひとりに粘土を配り、講師がオンラインで、フィギュアづくりの実演をして見せ、高齢者が一人ひとり自分の思い描いたフィギュアをつくりあげ、彩色し、その後、皆で見せあって、品評会を行った。こういう実践です。

    

    

この実践を参加者は、「一人ひとり丁寧に先生に教えてもらえ、画面で先生がつくるものを見て、また仲間のものも見て、自分のものも先生に見てもらえて、とても楽しく一緒につくることができた」と語り、高い満足感を示すこととなりました。「一緒に」という表現がとても印象的です。

    

そこで、この報告を受けて、私から関係者に改めて、参加した高齢者がどのように感じたのかを聞き取りをしてもらったところ、次のような返答があったのです。

   

「はじめは、一人ひとり粘土をこねて、楽しいのかと思っていたけれど、思いのほか、楽しかった。」

       

「それぞれが別々に粘土こねをやっていて、それぞれが別々のフィギュアをつくっているのに、みんなで一緒にやっているという感じになってきた。」

   

「粘土をこねていると、自分でこねているのに、誰かに触ってもらっているかのような感じになって、温かい気持ちになった。」

   

「みんなで一緒に粘土をこねると、粘土が誰かの身体みたいになってきて、自分が触れられているし、触れているという気持ちになった。」

    

「なんだか、自分がつくっているのに、誰かがつくって、自分もそれに触れているような感じでうれしかった。」

    

この実践では、オンラインであれ、空間と時間を共有して同じものをつくること、さらに粘土という身体にまとわりつく材料をこねることで、すでにあった他者とのかかわりが、触れあう感じへと深まり、そこに自分が仲間に触れ、仲間から触れられて、その粘土をこね、フィギュアをつくっているという感触が生まれているのだとはいえないでしょうか。それはまた、仲間との間で妄想力が働いて、新しいつながりが、オンラインで生まれていることを示しているように思われます。

         
   
   

当事者になることの「何か」:つながり方の試み


   

自分と他者とが否応なく新型コロナウイルス感染症対策の対象とされてしまい、外出自粛をせざるを得なくされてしまうという状況下で、私たちがとらえなければならないのは、他者の身になって自分を振り返ることのできる力の重要性なのだと思います。つまり、他者への想像力と配慮、それが改めて自分の身を振り返ることにつながることで、自ら判断して、他者のために何ができるのかを考え、行動できる力を人々にもたらすことができるということです。このことが試されているのではないでしょうか。

   

たとえば、既述の私たちと関係のある小学校の卒業生で、いまは中学生となった子どもたちが、新型コロナウイルス感染拡大のさなか、マスクをつくり、地元の自治会連合会長に届けています。この生徒たちは、小学生の頃に私たちとの実践にかかわりを持ち、地元の高齢者との交流経験がある子どもたちです。

   

またこの小学校区では、マスク不足が報道される中、2020年の4月早々に、地域交流ルームのサポータである高齢者の呼びかけで、地域の住民が布マスクをつくり、子どもたちに配布する準備を進めていました。全校児童一人あたり、低学年は3枚、高学年は2枚のマスクを配布したといいます。写真はマスク作成の様子です。

    

     

ここに私たちが見出さなければならないのは、咄嗟に他者の身になって、感じとり、考え、行動できる力であり、自分で判断して、他者のために、そして社会のために何ができるのかを考え、行動できる力が、子どもたちの中に確実に育っており、また地域住民の中に存在しているという事実ではないでしょうか。

   

それはまた、ひとり、マスクをつくって贈ることだけではなくて、むしろ自分が感染者なのかも知れないと受け止め、他人にうつさないために、外出を避けようとする行動、そしてそれを支えあうように情報を交換し、勇気づけあおうとする行動、こうした人々の動きともつながっています。これこそが、社会をつくる大切なつながりであり、それをつくろうとする自分と他者とのかかわりの運動なのです。

          
   
   

よきことに「気づく」


       

この実践には、相手のことを自分に照らして受け止め、かつ相手の中に自分を感じとること、つまり相手を好意的に受け止めることが組み込まれています。地元の高齢者のことを思い、マスクをつくって、贈るとき、そこには高齢者の健康を心配し、慮り、感染しないようにと願う自分があり、しかもうれしそうにマスクを受け取って使ってくれる高齢者の姿が想像されて、子どもたちは愉しかったのではないでしょうか。子どもたちのためを思って、一緒にマスクをつくる高齢者や地元住民たちも、子どもを心配し、その子たちのためになれる自分をうれしく思い、またそのマスクを子どもたちが喜んで受け取り、使ってくれることを想像して、愉しかったのではないでしょうか。

   

連載第13回で述べたように、AAR循環のAnticipationとは、単に予期するということだけではなく、むしろよきこと、愉しいことを想像して、それを計画する、という意味が含まれています。

     

そこには、Anticipateする自分、つまり自分を他者との間でつくりだし、想像力をふくらませ、それを相互の配慮へと高めて、新しい自分と相手をつくり続け、思わずニコニコしてしまう、そしてウキウキしてしまう自分が、それこそ予期せぬ形で、現れるのではないでしょうか。

    

そして、人はそれを愉しいこととして受け止めることで、さらにその関係を強化するように事後的に自分を駆動してしまう、つまり他者とともにある自分が自分を不断によき関係をつくるようにと駆り立ててしまうのではないでしょうか。

     

    

これこそが、地域交流ルームでの実践で高齢者と子どもたちが見せてくれた「気づく」姿なのです。「気づく」というのは、自分が他者との間で他者とともにそこにある当事者として生まれ続けることの愉しさに気づくということなのだと思います。それこそが、自分を事後的に次々と新たな自分へと生み出し続ける過剰性をもたらすこととなるのです。

                 
   
   

「あいだ」の生成としてのアフォーダンス


    

私はこのAAR循環に、アフォーダンスを見出したい思いがあります。

   

アフォーダンスとは、アメリカの心理学者ジェームス・ギブソンによって提唱された生態心理学の中核をなす概念で、環境が生物に提供する「意味」であり、行為の「資源」となること、いいかえれば、ある環境にあって生物の行為が発見する意味、を意味しています。

    

たとえば、私たちは足下の土に地面という名前を与えていますが、地面に立つということを、ギブソンは陸地の表面が平坦で、堅くて、広がりを持っているならば、その表面は生物の身体が立つことをアフォードする、といいます(たとえば、佐々木正人『アフォーダンス入門—知性はどこに生まれるか』、講談社学術文庫。佐々木正人『アフォーダンス—新しい認知の理論』、岩波科学ライブラリーなど)。

      

▶佐々木正人『アフォーダンス入門—知性はどこに生まれるか』講談社学術文庫

▶佐々木正人『アフォーダンス—新しい認知の理論』岩波科学ライブラリー

     

つまり、私たちは生態の中にあって、常にその意味を生体が汲み取りながら、対話的に自分の行動をその都度決めている、自分というものはその都度の関係のあり方によって、継起的に生み出されている、ととらえることでもあります。

   

たとえば、吉田篤弘『雲と鉛筆』(ちくまプリマー新書)に、こういう話があります。この本では、屋根裏部屋に住んで、鉛筆工場で働いている「ぼく」が主人公で、この「ぼく」は鉛筆を削って、雲を描き、ルーティンのようにコーヒーハウスに通って、珈琲を飲んでは、「人生」という友人と人生について語り、姉に手紙を書いて、おとなになるということを考えています。ここで取り上げるのは、その「ぼく」がお姉さんに手紙を書き、「おまけ」にジューサーミキサーを送ったことへのお姉さんの返事です。

       

「ジューサーミキサーをありがとう。でも、どうやら不良品のようで、スイッチを入れても動きません」

    

「台所テーブルの上に置いて右から左から眺めています。しかし、これはこれでなかなかいいものです。壊れたものには、動いているものとは違う美しさがある。動けばそれは道具だけど、動かないジューサーミキサーは、その役割から解放されて、そのうち、ジューサーミキサーという名前からも自由になりました」

 

「いま、この美しいかたちをした機械は、遠い未来から送られてきた未知の物体のようにテーブルの上でかしこまっています。こうして道具であることを忘れてしまえば、こんなにも人間のつくり出した機械は美しく不思議なものなのだと初めて感じ入りました。道具とみなされていたときには決して気づかなかった——」

    

    

このお姉さんの手紙の内容は、アーキテクチャからアフォーダンスへといってもよいのではないでしょうか。名前つまり与えられた意味や、機能つまり外部の枠組み(アーキテクチャ)から解放されることで、それはその場その場で、お姉さんとのかかわりの中で、新しい意味や役割を獲得し続け、変化し続けることができる。つまり、お姉さん自身が新しい意味や役割を見出しているのです。

   

私がここに見出したいのは、すでに機能が決まっているのに、一旦それが壊れてしまえば、新しい意味と役割を備えることができるということだけではなくて、そこにお姉さんの「ぼく」に対する思いを読み取ることができることです。きっと、お姉さんは、「ぼく」からの贈り物でなかったなら、自分で家電品店に行って買ってきたのだったなら、壊れているといって、怒り出したかも知れないし、不良品だからと交換に行ったかも知れません。

    

でも、お姉さんは、この壊れたジューサーミキサーは、役割から解放され、名前からも解放されて、なんだか生き生きしている、新しい生命を得ている、と感じて、心なしか楽しそうにしているのです。それは、そうやって壊れたジューサーミキサーを受け入れた自分に気づいて、うきうきしているのでしょうし、弟が送ってくれたジューサーミキサーが、自分に新しい未知の物体として現れていることに、わくわくしているということなのでしょう。そのうきうき感とわくわく感は、「ぼく」をそこに宿しているのです。

   

しかも、お姉さんは、このジューサーミキサーがその機能と名前から解放されてうれしそうだといいますが、それはまたお姉さん自身がジューサーミキサーから解放されて、つまりそのように使うように用途を指定されて、ジューサーミキサーを使っているのに、実は使わされている、強制されているということからも解放されていることでもあります。だからこそ、うきうきするし、わくわくするのです。

    

その上、ここには、壊れたジューサーミキサーという物体が存在することで、それに惹かれ、魅せられて、それをうれしく思う自分をつくりださざるを得ないようにして、つくりだしている、つまり強制されている。こういう関係ができあがっています。なのに、お姉さんは、それがうれしいし、わくわくする。なぜなら、そこには役割や機能や名前から解放された、未知の、これから何にでもなれる、それでいて形という具体的なソリッドな動かしがたいナニモノカ、つまり空間を占めているものがお姉さんに意味づけを求め、お姉さんはその物体との「あいだ」をつくり、自分がその「あいだ」にもなり、そこから自分という存在を改めて生み出していく。こういう生成の動きがあるからなのではないでしょうか。

    

▶吉田篤弘『雲と鉛筆』ちくまプリマー新書

                 
   
   

ホワイトハッカー、By All、そして新しいつながりに向けて


   

アフォーダンスとはすなわち、発展や発達ではなくて、常に生まれては変化し続ける、生成と変化、流転、そういうものが数珠つながりになっていて、終わりのないこと。そういう意味や価値が生まれ続け、この世界を「あいだ」としてつくりつつ、その「あいだ」にいながら、自分自身が「あいだ」になり、だけれども自分はきちんとその場を占めているという固有性を感じ取れること、こういうことではないでしょうか。

    

それはまた、ホワイトハッカーの文化の議論と通じているようにも感じます。このコロナ禍にあってコロナウイルス感染拡大を抑え込んだ台湾社会では、人の孤立つまり人々の「はざま」を「あいだ」に組み換えて、人々それぞれが自らの役割を担いつつ、草の根から、社会をバージョンアップしていったように見えます。それを、デジタル担当政務委員のオードリー・タンさんは、民主化とイノベーションは同義だといい、モチベーションを高めるためには楽しさの最適化が必要であり、それは誰もが誰かのために役立つという感覚だといっています(岩坪文子「【全文】オードリー・タン独占インタビュー「モチベーションは、楽しさの最適化」、Forbes Japan 2020/07/28鷲尾和彦「民主化とイノベーションは同義。オードリー・タンが語る台湾の「上翼思考」」、Forbes Japan 2021/01/06

    

台湾では、コロナ禍を押さえるために、様々なセクターの市民が自らのアイデアを出しあって、「知」を共有し、常にバージョンアップし続けるネットワークを構築することに成功しました。いわば草の根のホワイトハッカーの文化またはシビックハッカーの文化が社会を引っ張り、それがさらに産業を牽引するという関係に入っていくのであり、それが民主主義だというのです。

    

それはまた、他者を想像し、そのために役立つ自分を感じてうれしさを自分のものとし、それに対して他者が応答してくれる関係を我がものとしていくことで、社会そのものが自動的に次へと駆動されていくことでもあるのではないでしょうか。

   

そこにあるのは、人々相互の自分への「誇り」に根ざした信頼感だといえます。このことは、タンさんの言葉を借りていいかえれば、動機づけが楽しさの最適化であり、それは民主化つまりすべての構成員でこの社会をバージョンアップし続けること、すなわちイノベーションであるということです。そしてこれはまた、鷲尾和彦さんのいう「By All」ということ(鷲尾和彦『CITY BY ALL—生きる場所をともにつくる(「生活圏2050」プロジェクトレポート)』、博報堂)でもあります。それは、高齢住民にオンラインでのつながり方を教え、自分の役割を自覚して、積極的に実践をつくっていったあの小学校の子どもたちの存在と通じています。

    

このような存在のあり方はまた、相手のためにそう動いてしまわざるを得ない自分をそこにつくりだすことでありながら、相手からそのように求められている自分がそこにあるということであり、さらにそれはそのように相手に自分に働きかけさせている自分があるということでもあります。受動的であるがゆえに能動的でありながら、その受動性は自分がそこに存在させられることで生み出される相手への働きかけの結果であり、かつそれはまた自分がそこに存在させられているという受動性から生み出される能動性でもあります。

    

ともにかかわりを持つことで、それまでの決められた意味や役割・機能ではなく、その都度の関係の中で生み出される意味や役割にわくわくして、さらに、次へ次へと駆動されてしまう関係をつくりだすこと。そこでは、相手の言葉に「そうだね」「そうだね」と頷きながら、「でもね、こうなんじゃないの」と否定的な言葉を返すのではなく、「そうだね」「そうだね」と頷きながら、「だったら、こうしようよ」と、ともに対話を繰り返し、新たな価値をつくりだし続ける関係が生み出されることとなります。

    

こういう試みが、コロナ禍のこの社会において、子どもたちを含めた草の根の住民の間で立ち上がり始めているのです。この社会は確実に、次の社会へと動こうとしているのだと思います。子どもたちを主役にした、自由をつくり出す社会へと。

   

鷲尾和彦『CITY BY ALL—生きる場所をともにつくる(「生活圏2050」プロジェクトレポート)』、博報堂

    

 


 

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