子育て・教育

【寄稿】Withコロナで迫り出すこの社会の基盤|子どもの未来のコンパス(3)

2020.07.6

先行き不透明な現代社会において、私たちはこれからの社会をどう形づくっていけばいいのでしょうか。東京大学大学院・牧野篤教授とともに、いま私たちが直面している大きな「うねり」を分析し、未来の指針を考えます。連載「未来のコンパス」第三編。

 

    

この記事を書いた人

牧野 篤

東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。

牧野先生の連載はこちら

 


 

 

 

それなりに楽しかった休校生活


 

新型コロナウイルス感染拡大をめぐる混乱も一段落したように見えます。緊急事態宣言が解除となり、各地で学校が再開され始めました。私が住んでいる自治体でも、6月1日から学校が再開され、子どもたちが通学し始めました。

 

朝、ゴミを出していると、ひとりの中学生が歩いてきます。「ああ、今日から登校再開か」と思って、「おはよう!」と声をかけました。「あ、おはようございます」との返事。でも、うつむき加減なのが気にかかります。恥ずかしい年頃だからかな、と一瞬思ったのですが、ちょっと気になって「どうしたの? 元気ないじゃない」と話しかけると、「だって、学校に行かなきゃいけないし・・・・・・」と口を尖らせます。

 

 

彼の話をまとめると、休校中も宿題がたくさん出て、まだやり終えていないし、朝早く起きなければいけないし、つまらない授業を聴かなければいけないし、他の子と比べられるし、いじめもあるし、と学校は結構ストレスフルなのだということでした。それに引き換え、休校中は、朝はゆっくりしていられるし、自分で過ごし方を決められるし、三密(密接・密集・密閉)回避とはいっても、家族や仲のいい友だちとゲームをやったり、家のまわりで遊んだり、買い物に行ったりすることは問題なかったし、毎日、それなりに楽しく過ごせていたのだといいます。

 

しかも、ネットでいろいろな教科のサイトを見たりしていて、そちらの方がおもしろいし、よくわかるというのです。「中学校の先生からは、何かメールとかオンラインでの連絡があったりしたの?」と聞くと、「そんなものなかった。だって、学校にそういう設備がないし、先生もオンラインの授業は授業じゃないっていってたりするから」との返事です。

 

「そうかあ」というのが、率直な印象でした。この「そうかあ」には、いろいろな感想が入り交じっています。テレビの報道では、連日、「早く学校に行きたい。友だちに会いたい」という子どもが登場して、学校の再開を心待ちにしているというイメージがつくられていました。

 

しかし、思い返せば、それは低学年の子どもたちばかりで、彼のような中学生はほとんど出てこなかったなあ、とか、子どもたちの「早く学校に行きたい」という話に、「勉強したい」という話は出てなかったなあ、とかに思い当たります。

 

 

また、彼のような子どもが家にいると、家族としては学校の勉強が遅れるのじゃないかとか、生活のリズムが狂うのではないかとか、だらけてしまうのではないか、とか心配になりますし、思春期の子どもはおとなにとってはある意味で目障りなので、親御さんは学校の再開を望んでいたんだろうなあ、とか、オンラインの授業は授業じゃないって、学校って変わらないのかなあ、とか、そんなことどもが、ふと心を過ぎったのでした。 「おじさんは、まだお休みなのですか」と問われたので、「うん、休みじゃないけど、在宅勤務だよ」と応えると、「いいなあ」といいながら、彼は学校に向かったのでした。

 
 
 

オンライン生活での愉しさの発見


 

 

彼の「いいなあ」の背中を見送りながら、そして「がんばってきな」と心の中でつぶやきながら、「でもまあ、がんばれっていわれてもねえ」と思っている自分がいたりして、割り切れない思いが残ったのも事実でした。我が身を振り返れば、私も彼と同じなのかも知れません。大学も、コロナウイルス禍の拡大によって、学生を集める行事や講義が中止となり、新年度からは早々にオンラインでの講義や指導、そして会議に切り換えられました。

 

それまで、全国にフィールドがあり、また自治体の審議会や講演などがあって、大学での授業や学生指導さらに業務の他に、三日と空けず各地を飛び回っていた私は、これらがすべて取りやめになり、びっしり入っていたスケジュールに横線が引かれ、ほとんど何の予定もなくなってしまった「墨塗手帳」をみて、自粛生活のイメージがつかめず、どうなるのかとしばし呆然としていました。

 

それでも、とロックアウトになる前の大学に入り、研究室から当面必要な書籍や資料を自宅に送り、これまでできなかった読書や資料の読み込みをする生活に切り換えることにしました。そうしましたら、意外や意外、これが結構愉しいのです。

 

もともと思想研究という地道に文献を渉猟し、読み込むことを続けるような地味な研究スタイルだったのですが、何の因果かフィールドを持ち、各地の人たちと出会い、一緒に調査研究を進める生活を続けることとなっていたのです。それはそれで楽しいのですが、研究職に就く前の、貧乏だけれど時間はたっぷりある院生時代を思い出しながら、自分の好きな時間に好きな文献を読み、しかも誰にもそれを邪魔されない生活もまた愉しいのだということを再発見したのです。

 

 

余談ですが、この感覚は、「楽しい」というよりは「愉しい」と表現した方がぴったりくる感じです。その場にいて、躍動するような楽しさではなくて、じわじわと内側から時間をかけて熟成してくるような愉しさなのです。

 

しかも、オンラインでの授業や会議、学生・院生の研究指導も、様々なソフトが開発されていて、資料も事前にデータで送ってもらったり、会議ソフト上で共有することができて、ほとんど何の支障もなく、進められることがわかり、今さらながらにネット社会の面白さに気づいたり、それを知らなかった自分の不明を恥じたりしています。いま、私のパソコンには、3種類の会議ソフトのアプリが入っていて、それぞれ相手に応じて使い分けをしています。

 

では、三度の食事はどうなるのか、面倒ならデパ地下で、と考えていたのですが——それまでは外食が多かったので——、いざ料理をしてみると、こういうルーティンが生活のリズムをつくるのにもよいことが分かったりして、結構楽しいのです。(世の親御さんたちは大変だろうと思いつつ。)

 

こういう生活もありかも、と考え始めていたのです。

 

 
 
 

ネットの奴隷状態へ


  

ところがところがです。皆がこのような在宅勤務でオンラインの生活を始め、それが広がってくると、この生活が日常となっていきます。新鮮な驚きは失せていき、徐々に苦痛になってくるようでもあるのです。

 

たとえば、これまでは移動時間の制約があったため、どう詰め込んでも、最多で一日に午前1回、午後2回、さらに夜1回の会議が、移動時間がないために、一日に7つも8つも入ってくるようになります。学生たちの指導も、個別指導となり、受けつけ始めると、彼らも暇を持て余していますから、随時入ることになり、その対応に追われることになります。

 

しかも、各地の自治体の審議会もオンライン、海外出張しなければできなかったシンポジウムへの参加やインタビューなどもオンライン、と今度は24時間追いまくられるようになります。

 

 

ゆっくり読書などと気取っていたのも束の間、いつの間にやらネットという鎖につながれた奴隷状態の生活なのです。これで、フィールド調査などが実地に行かなくても済むようになってしまうと(どうやったらそうなるのか、ちょっと想像もつきませんが、それはそうなって欲しくないという願望がそうさせるのかも知れません。やり方を工夫すれば、地元の人たちとのワークショップくらいオンラインでできてしまいます)、もう完全にパソコンの前に縛りつけられる生活になってしまいます。不健康でいけません。

 
 
 

一斉授業には不向きなオンライン授業


  

しかも、オンラインで授業や指導そして会議をしていて、分かってきたことがあります。これまで、大学の大講義などは、多人数を相手にして、一方的に知識や知見を伝達するのだから、MOOCsと呼ばれるような一斉配信の仕組みを使えば問題なくて、むしろきめの細かい指導を必要とするゼミや個別面談などはオンラインではなくて、オフラインつまり直接会って行うべきだといわれてきました。しかし、実際に行ってみると、一斉授業がやりにくくて仕方がないのです。

 

 

これは、薄々気づいていたことでもあるのですが、私たちは一方的に大勢の聴衆に対して語りかけるときでも、常に聴衆の反応をフィードバックさせて、語り口をその都度組み換えていますし、話す内容も取捨選択をしています。ですから、一時期、授業もパワーポイントを使えとか、AV機器を使えとか、あれこれうるさかったのですが、私は一貫して、それを拒否して、チョークに黒板派でした。

 

資料提示をするのにはAV機器は有効かも知れませんが、あらかじめ短時間に伝えるべきことが決まっていて、どこで話しても同じであるようなプレゼンテーションであれば、パワーポイントなどの道具は有効かも知れませんが、授業はプレゼンではないのです。その時その時の学生との無言のやりとりの中で、常に語り口を組み換え、語る内容も組み換えながら、そして時には語っているときに、そうか!という発見があったりして、それをその場で伝えるという臨場感が授業という場にはあるのです。

 

このことが、オンラインでの一斉授業では、うまく機能しないのです。なぜなら、学生たち一人ひとりの顔がディスプレイ上に映し出されているにしても——そして最近では、音声はミュート、カメラもオフにしている学生が多く、また回線が逼迫する中でそれを推奨している大学もあったりしますし、こちらが主宰者権限でカメラをオンにすると、プライバシーの侵害とかパワハラとかいわれてしまうような事態が起きていますから——学生たちがどんな受け止めをしているのかというある種の暗黙のやりとりができないからなのです。

 
 
 

オンライン一斉授業で気づいたディスプレイという制約


 

これに反して、 豈図 あにはからんや、オフラインがよいとされていた個別面談やゼミ、さらには少人数の会議が、オンラインでもかなりきちんとした指導や議論ができることが分かってきました。

 

主題がはっきりしているものについては、ディスプレイ上に相手の顔が見え、資料が提示され、議論の筋を対話によって追うことができるのであれば、むしろオフラインで会っている時よりも、効率よく話が進み、結論を得たり、よりよい指導をしたりすることができるのではないかという経験をし始めています。

 

しかも、一斉授業と個別指導に共通する特徴も、分かってきました。オンラインでの授業や会議・指導では、目に見えるフレームが設定されてしまい、私たちの相手に対する判断が、そのフレームに影響されてしまうということです。

 

声だけの会議がひらかれることも

 

これは、テレビや写真などでもいえることですが、私たちは、ディスプレイ上に見えているフレームで相手をとらえてしまうのです。ですから、見えないところで、たとえば顔はこちらを向いていて、議論をしているのに、カメラに映らないところに誰かがいて、メモを取っていたり、何かを指示したりしていても、こちらには分かりませんし、本人がカメラに映らないところで何をしていても、たとえば椅子に腰掛けて議論しているとばかり思い込んでいたら、実は座布団にあぐらをかいていた、ということも分からないのです。

 

本当は分からないけれども、現実には、ディスプレイに映し出された相手の顔を見て、対話における相手の発言やその内容を聞いて、きちんと自分に相対して座って議論していると思い込んでしまうのです。これは犯罪事件のニュースなどでも、画面の切り取り方によって、犯人への印象がまったく異なってしまうことと同じです。(ずいぶん古い話ですが、映画『破線のマリス』(2000年)で描かれているとおりです。そしてこれは、いまでもネット上の炎上などとして、現れ続けています。)

映画『破線のマリス』(2000年)

 

一斉授業がオンラインでは違和感があり、個別指導が効率的に進むということの裏には、情報がフレームによって制約されることに対する、こちらと相手双方の互いに対する受け止めのあり方が反映しているようです。

 

つまり情報が制約されていても、相手のことを理解しようとして、好意的に受け止めようとする関係への入り方や、日常的な触れあいの中で、相手に対する信頼感や信任があるといったことが、重要なのではないかということ、つまり相手を想像し、慮ることができるのか、ということが、オンラインでのやりとりにとって決定的な意味をもつようになるのではないでしょうか。

   
 
 

社会基盤としての信頼と信任


 

ということは、本来、このオンラインで人がつながり、仕事が行われる社会の基盤には、他者に対する想像力を働かせて、相手を慮り、信頼し、信任するというある種の感情にもとづく理性的な判断が働いていることが必要だということです。そして、この見知らぬ相手に対する信頼や信任というのは、もともと、私たちが暮らしている市場社会の基本的な原理でもありました。

 

なぜモノが売れ、モノを買うのか。あるモノを売りたい人がいて、そのモノを買いたい人がいるからだ、という簡単な話です。しかし、それはそんなに簡単なことではありません。私がAというモノを手放して、Bというものを手に入れたいと考えているとして、Bを手放して、Aを手に入れたいと考えている人を探すことは至難の業です。

 

物々交換では、こういう問題が起こります。では、ここに「おカネ」を介在させたらどうでしょうか。私はAをおカネに交換して、その後、そのおカネをつかってBを買う。Bを手放して、Aを手に入れたいと想っている人も、まずBをおカネに換えて、そのおカネでAを買う。これで、万事うまく行きます。

 

では、この「おカネ」とはなんでしょうか。そんなことはわかっている、どんなものとでも交換できる、もしかしたら人の愛情までも買うことができる万能の媒体(モノ)なのだ、とお考えではないでしょうか。

 

でも、このおカネはとても不思議なモノなのです。たとえば私たちが使っている日本円は日本銀行券という中央銀行である日本銀行が発行している紙切れや小銭です。なぜそれが、すでに兌換紙幣ではなくなっている、つまり金や銀などと交換できることが保証されている貨幣ではないのにもかかわらず、万能の交換機能を持つのかと問えば、国が担保しているからだとおっしゃるかも知れません。

 

もっといえば、金や銀などの貴金属がなぜ貨幣として使われたのか、それは金や銀が価値があるからだ、と考えたりしていないでしょうか。そしてその価値がある金や銀との交換が保証されていなくても、国が保障しているから、日本円はどんなものとも交換できる媒体として流通していると考えるのではないでしょうか。

 
 
 

おカネとは


 

 

このことを突き詰めていくと、二つの不思議なことに突き当たります。一つは、AもBも、また金も銀も、私たちはそれを使うこと(蓄えることも含めて)を目的として手に入れたいと思い、また他のモノと交換したいと考えているはずです。それは、個別の価値ですし、もっといえば人それぞれにとって質的に異なるはずです。喉が渇いたからジュースを飲みたいのか、甘い物が好きだからジュースを飲みたいのか、いえ、果物が好きだからジュースを飲みたいのか、本来こういう違いがあるはずです。

 

でも、おカネ(または金や銀)は、モノを価値があるからという一般化された形での量(たとえば、金や銀の重さとして。つまりおカネの量、すなわち価格)として表現して、それぞれの商品の間を交換可能なものにしてしまいます。たとえば、3個のAと2個のBは同じくZ円だとして、いわば等価にしてしまいます。なぜこのことが可能となるのでしょうか。

 

また、たとえばAをおカネに換えた人が、すぐにBを買うとは限りません。Bがすぐにあるのかも分からないからです。ですから、おカネはしばらくその人の手の中におかれることになります。これも、おカネが交換の道具として優れている点です。とりあえずおカネに換えておけば、あとから欲しいものと交換できるのです。でももし、このおカネの使用期限が決まっていると考えたら、どうでしょうか。それでも、とりあえず換えておこうと思うでしょうか。

 
 
 

みんなが使うからおカネはおカネ


 

 

おカネのことを考えると、悩ましいですが、実はおカネとはとっても簡単な原理で流通しているのです。つまり、みんながそれをおカネとして使うから、おカネとして流通しているのですし、みんなが、質的なモノをおカネの単一の量で表すことで、質的なモノの価値が価格として示されることでよいとしているからです。しかもそれが使われ続けるのは、未来永劫それが使われ続けると信じているからです。

 

金・銀などの貴金属への兌換保障や国による法的な保障ということも同じことです。皆が金や銀をそのように認めているから、もともとは金や銀が貨幣として流通し、その後、紙が貨幣として流通し、いまでは交換できないとしても、国が価値を保障してくれていると皆が信頼しているから、流通しているのです。

 

もともと偽造貨幣と本物の貨幣の区別はないという人がいます。たとえば、いま一部の人々で話題となっているビットコインなどを皆が使うようになり、そちらを貨幣として信用して、流通させれば、それがいまの貨幣の代わりになるかも知れません。地域通貨などは、その一つの小さな事例だともいえます。

 

ですから、国は偽造を厳しく取り締まるのです。それは、たとえば日本円が流通しなくなるからではありません。「偽物」は「似せ物」でもありますが、「本物」であっても「偽物」となるのです。たとえば、映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(2002年)の主人公は、最後には小切手の輪転機を使って、本物の小切手を印刷し始めます。それは小切手というモノとしては本物です。でも、それは「偽物」=「似せ物」なのです。

 

映画 『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(2002年)

 

なぜなのか。国が認めていないからではありません。それが流通することで、国への信頼が崩れ、貨幣への信頼が崩れ、結果的に市場を壊してしまうからです。

 

おカネは、みんながおカネとして使い続け、流通し続けると信じているからおカネなのだ、というなんだか同義反復のような仕組みなのです。

 
 
 

信頼するから買える


 

では、モノを買うというとき、私たちはどうしているでしょうか。スーパーでジュースを買うときに、そのジュースの賞味期限や成分を見ることはあっても、そのジュースが本当にジュースかどうか、またこれを飲んだらお腹を壊すかどうか、そんなことはいちいち疑ってはいないのではないでしょうか。

 

それは、製造元や流通・小売業を信用しているからではないでしょうか。意識をしているのではなくて、みんながそうしているから、そうだということなのではないでしょうか。おカネと同じなのです。みんながそうしているからそうなのです。

 

だから、たとえば雪印乳業の集団食中毒事件(2000年)のような事件が起こると、スーパーからは食中毒を引き起こした製品だけではなくて、雪印の製品すべてが撤去されることになります。その結果、雪印は全社一時操業停止、さらにグループの解体・再編に追い込まれました。

 

なぜこんなことが起こったのかといえば、消費者は雪印を信頼していたからですし、流通業も小売業もその信頼の上で、信頼にもとづくおカネとモノのやりとりをしているからです。ですから、ある製品が信頼を裏切るのは、その企業全体が信頼を裏切ったことになりますし、それが我が身に波及しないように、流通業や小売業は自らの信頼のために雪印製品を全品撤去したのです。


  
 

市場とは信頼のシステム


 

わたしたちの社会は、見知らぬ人々が市場という信頼のシステムにもとづいて生活する社会なのです。そして、ここでは見知らぬ人々がなぜ信頼しあえるのか、ということが問われます。それは端的には、他人も自分と同じように考えるだろう、自分と同じように振る舞うだろうと思えるからです。それを相互性とか互酬性といいます。

 

そして、この他人も同じように考えて、同じように振る舞うだろうという感覚は、私たちが、同質性の高い社会に生活してきたことから生まれています。近隣があり、農村共同体があり、工業化の過程で都市部への人口集中があり、その過程で、人々は自分と他者が「変わらない」つまり同じだということを発見していきます。さらに、その同質性の高い社会を実現している制度が学校なのです。

 

 

つまり幼い頃から皆が学校に通い、同じような教育を受け、同じような振る舞いを学ばされ、皆が基本的には同じような感覚を身につけてきているのです。そしてその基盤には、物質的な豊かさが社会全体に行き渡り、人々が同じような生活をすることができる社会が存在します。そして、そのさらに根本のところに、言葉があります。みんなが同じ言葉を使って、言葉を交わすことで、意味が通じ、意図を理解することができる、みんな同じこの社会に生活する「私たち」なのだという感覚、こういうものがこの社会の信頼と信任の基盤となっています。

 
 
 

オンライン生活が改めて問うこと


 

ずいぶんと回りくどい話になってしまいましたが、オンラインでの生活を始めてみて、これまで述べてきたことが、改めて問い返されることとなったのではないでしょうか。三密を避け、人があまり集中しないようにする新たな生活を始めることが求められることとなりました。

 

生活の大きな部分をオンラインでの結びつきが占めるようになることで、私たちがどうしても意識せざるを得なくなったのが、信頼と信任です。このこれまで私たちが敢えて問う必要もなかったこの社会の基盤をつくっている人々の関係が、改めて社会の前面に迫り出してきているのだといえます。

 

学校の話をしようとしたのに、横道にそれてしまいました。次回に持ち越しです。すみません。



  
   

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