仕事・働き方

【フィギュアスケート振付師・木原万莉子さん】難病乗り越え、現役引退後に見つけた新たな天職。経験を生かして「支える」立場で学び、チャレンジする喜び

2023.12.20

フィギュアスケーターとして国内外で活躍し、20歳の若さで引退した木原万莉子さんは現在、同志社大学の大学院に通いながら、フィギュアスケートの振付師として第二のキャリアを送っています。「今は毎日がすごく楽しい」という木原さん。難病を乗り越え、厳しい環境の下で戦い抜いた現役引退後に、自分にぴったりの仕事を見つけた貴重なキャリアと転機についてお話をうかがいました。

     


     

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木原万莉子(きはら・まりこ)

1997年9月4日、滋賀県出身。7歳の時にアイスショーを見てフィギュアスケートをはじめ、小学6年生で3回転ジャンプ5種類をマスターするなど才能を発揮したが、中学1年生の時に「大腿骨すべり症」と診断され、治療のために2年間競技生活を休養。2012年に競技復帰後はトップレベルの選手たちと切磋琢磨して頭角を現し、2013-14シーズンの全日本選手権では8位になり新人賞を受賞。大学進学後はカナダに2年間拠点を移して国際大会で活躍を続けたが、2018年4月に引退を発表した。カナダで指導を受けたコーチの影響で振付師を目指し、引退後は振付師に転身。同志社大学大学院スポーツ健康科学研究科に通いながら、年間30〜40人の振り付けを担当している。


公式X:Mariko Kihara
Instagram:木原万莉子
  

     

”練習嫌い”でも「勝ちたい」。小学6年生で3回転ジャンプ5種類をマスター


     

――木原さんは2018年に20歳で現役引退されましたが、振付師に転身されてからはどのようなペースで活動をされているのですか?

     

振付師になって6年目ですが、今は同志社大学大学院のスポーツ健康科学研究科に在籍して学びながら、フィギュアスケートの振付師として活動をしています。現役時代は苦しいことの方が多かったのですが、今は毎日がすごく楽しいですね。振り付けは完全に一人でやっていて、オファーをいただいて振り付けをさせていただく形で活動をしています。

     

――ご自身が表現者として氷の上に立っていた時とは違う楽しさは、どんなところに感じていますか?

     

振付をした後に、選手のお母さん方や選手やコーチから「万莉子先生に振り付けしていただいて点数があがりました!」とか、「このプログラムは評判がいいんですよ」などと声をかけていただくことがあるのですが、それは一番の喜びですし、見ていたお客さんに喜んでいただけるのも嬉しいです。

 

――頭の中にある振り付けのイメージを他の選手が表現するという点では、細部のニュアンスの伝え方などが難しそうですよね。

     

そうですね。同じ振付をしても選手によって表現は大きく変わってくるので、それが振付師として難しいところでもあり、楽しさでもあります。

 

――表現の幅を広げるために意識されていることはありますか?

     

もともと劇団四季とかブロードウェイミュージカルが大好きで、現役の時からたくさん見に行っていたんです。振付師の活動を始めた当初は探り探りでやっていたのですが、5年目にもなると自分の課題もわかってきて、最近はいろいろな試合の他の人のプログラムを見ながら違う刺激をもらって、自分らしい振り付けとあまりしたことのない動きを結び付けて振り付けを考えていく形の方が成長できると感じています。

     

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現役引退後は振付師として新たなキャリアを積み上げている(写真:本人提供)

     

――昨年引退を発表し、プロスケーターに転向した宮原知子選手とは現役時代、良きライバルで引退後もSNSなどで交流があることが伝わってきますが、トップレベルで活躍するスケーター選手たちから刺激を受けることもありますか?

     

それはありますね。フィギュアスケートも時代とともにさまざまなことが少しずつ変化して、ルールも変わっているので、最前線で活躍するスケーターたちに話や意見を聞いて、「今はこういう表現が評価されるんだな」と、学ぶことができています。

     

――選手と振付師の両方の立場を経験された木原さんから、フィギュアスケートを見る時のポイントや魅力について教えていただけますか?

     

人それぞれ違った視点でフィギュアスケートを楽しんでもらえたらいいと思っていますが、最近はジャンプを何回転飛べたかとか、女子だと「足がこれだけ上がる」とか、そういうわかりやすい技術や見方が取り上げられやすい傾向があります。芸術面が半々で評価される競技ですし、フィギュアスケートは自由に演技できる競技でもあるので、そういうところが魅力だと感じています。同じ「オペラ座の怪人」でもプログラムによってまったく違うものになったり、「こういった表現もあるんだ」っていうところを見ていただくと楽しいかなと思います。

     

――木原さんは7歳の時にフィギュアスケートを始めたそうですが、どのようなことがきっかけだったのですか?

     

私が小学校1年生の時にたまたま大津プリンスホテルのアイスショーの広告をみた母から観に行ってみない?と誘われ観に行ったことがきっかけでした。その頃はまだ、日本でも今ほどフィギュアスケートが有名ではない時代だったので、私の母もこんなに時間とお金がかかるスポーツだとは知らず、初めは驚いたと言っていました(笑)。ただ、スケートを始めた頃は上達も早く、楽しそうに滑っている私を見て「続けさせたい」という気持ちがあったようで気づいたらスケート中心の生活になっていました。

     

父は私がやりたいことをやらせたいと思っていたと聞きました。兄も野球をずっとしていて、スポーツに力を入れていたので、私もそのままフィギュアスケートを続けることができました。

     

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7歳でスケートを始めた木原さん(写真:本人提供)

     

――練習には、楽しみながら通っていたのですか?

    

それが、実は “練習嫌い”な性格だったんです(笑)。小学校の時から、毎週木曜日が練習オフの日だったのですが、木曜日になると嬉しくて仕方がなかったですね(笑)。

   

――そうだったんですか! その中で上を目指し続けることができた原動力はどんなことだったのですか?

   

もともと負けず嫌いな性格だったのですが、小学校の時は「どんなことでも負けたくない」という感じで、小学生の頃は大会ではいつも上位だったので、勝つことや成績を残すことに喜びを感じていました。「練習は好きではないけれど、試合で勝ちたい」というモチベーションでした(笑)。

     

――ここぞという場面での集中力がすごかったのですね。小学6年生で3回転ジャンプ5種類をマスターされたそうですが、どんなことが習得の秘訣だったのですか?

     

練習自体は好きではなかったけれど、小学校のころからかなり練習はしていました。小学校の時から練習のために早退と遅刻をしながら競技に打ち込んでいましたし、両親やコーチも厳しかったのでスケートの上達も早かったのかなと思います。 

     

上達が早かった小学生時代(写真:本人提供)

          

          

          

3万人に1人の難病を乗り越えた復帰への原動力


     

――木原さんは将来を期待されながら、中学生の時に「大腿(だいたい)骨頭すべり症」と診断されて、競技から2年間離脱を余儀なくされました。アスリートにケガはつきものだと思いますが、木原さんの場合は3万人に1人と言われる難病だったそうですね。当時のことをどのように記憶されていますか?

     

当時はまだ幼かったこともあって、最初はあまり実感がなかったんです。坂道ダッシュのトレーニングをしていた時に左の股関節に違和感を覚えて、「おかしいな」と思ったら日に日に歩けなくなっていって。ちょうどその頃に小学生の子たちが行く全国有望新人発掘合宿があったので、「とにかく練習に行かないと」という思いで痛み止めの注射を打って行くこともあったんです。ただ、それも効かないぐらいに歩けなくなってしまって。通っていた病院では原因がわからなかったのですが、ある先生が見つけてくださって、「すぐに手術しましょう」という形になりました。

     

ただ、一番大変だったのは復帰してからで、本当に何もできなくなってしまっていたことでした。練習を再開してから1年間、試合に出られなかった時期は悔しくて悔しくて仕方がなかったのを覚えています。

     

――いろいろな不安があったと思いますが、リハビリ中は「復帰してまた頂点を目指したい」という気持ちは変わらずに持ち続けていたのですか?

     

その思いは持っていました。ただ、実際に復帰してからは、もともとできていたはずのトリプルジャンプがダブルですらできなくなってしまったので、「本当に戻れるのかな」という不安はすごくありました。

     

――その時期を乗り越えたことで、自分の中で何か変化はありましたか?

     

負けたくないという気持ちが強かったのですが、病気になってからそれが少しやわらいだと思いますし、性格も変わったと思います。いい捉え方をしたら柔軟になったと言えるのかもしれないですけど、勝負強さはちょっと弱まってしまったかなと。

    

――それでも復帰後、本格的に競技復帰してからは2013年と2014年の全日本選手権で入賞、浅田真央選手や宮原知子選手と一緒に出場した2015年GPシリーズNHK杯では10位と結果を残されていますね。当時はどのようなことを目標にしていたのですか?

     

今振り返れば「自分頑張ったな」と思えるのですが、16歳、17歳、18歳あたりは精神的にかなりきつい時期だったので正直「毎日やめたい」と思いながら取り組んでいました。高校に入ると勉強が厳しくなって、競技で成績も残さなきゃいけないプレッシャーやストレスから、反動がきてしまったんです。体重管理も厳しく、スケートのコーチも厳しく、学校に行けば友達はいるのですが、早退や遅刻をしながら通っていたので、自分の居場所がなくなってしまった感じで。学校でスケートのことを理解してもらえるわけではないし、スケートのチームにも同年代の選手がすごく少なくなっていた時期だったので、自分の居場所がない辛さがありました。

     

     

――それだけ重なるとすごくキツかったですよね……。どんなことが心の支えになっていたのでしょうか。

     

「競技をやめたい」「所属していたチームをやめたい」という気持ちが強かったのですが、両親が「高校まで頑張れば海外に行くことを考えてもいいから、高校までは頑張りなさい」と言ってくれたので、自分の中で「高校までは今の環境で頑張ろう」という思いになれました。それで、大学に進学してから、休学してカナダに拠点を移しました。

     

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国内で結果を残し、大学進学後にカナダに渡った(写真:本人提供)

     

     

     

引退を決断して臨んだカナダでの日々と、振付師への道


     

――カナダで生活しながらスケートをされていたんですよね。海外での競技生活ではどのような変化がありましたか?

     

すべてが変わりましたね。当時はスケートの練習をして陸上トレーニングに行ってダンスして、というスケート中心の生活を2年間送りました。それまでにも毎年、2週間から1カ月ぐらいは夏休みに海外に練習に行くことがあったので海外生活に不安はなかったですし、とにかく環境を変えられた喜びが大きかったです。

     

――新しい環境で、出会いや心境の変化はありましたか?

     

そうですね。サブのコーチも含めて5人ほどいたんですけど、私が精神的にダウンしている時に行ったので、その姿を見てコーチ全員が常に励ましてくれるという環境にガラッと変わりました。「あなたは上手なんだから大丈夫。こんなにできるんだから!」という感じでコーチたちがいつも励ましてくれたんです。それまで、褒められるということがほぼなかったので、褒められ慣れていなくて、毎日驚いていました。カナダで過ごした2年間で、フィギュアスケートだけではなく自分自身も変われたかなと思います。

     

――2017年12月の全日本フィギュアスケート選手権で15位に入り、翌年4月に引退されました。引退後のお仕事については決めていたんですか?

     

もともと先のことを決めておきたい性格なので、高校の途中から「大学に行ったら2年間でやめよう」と決めて、その最後の1年は、「フィギュアスケートをやめたら大学に復学して、振り付けがしたい」と考えていました。それができるかできないか、どうなるかは分からないかもしれないですけど、ある程度先のことを決めてから前に進みたいので、不安はなかったですね。

     

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2018年4月に現役引退を発表した(写真:本人提供)

     

――振付師になりたいと思うきっかけはどんなことだったのですか?

     

小学生の頃から、家で曲をかけて自分で振り付けをして踊っていたんです。振付がもともと好きで、練習中に友達のプログラムの練習を見ていて、「私やったらこうやって振り付けするのに」とか(笑)。そういうことを小学校の時から無意識的に思っていたんです。ただ、高校の時にスケートをやめたいという気持ちになっていたので、引退したらスケートに関わることはないと思っていたのですが、「振付師になりたい」と思ったきっかけは、カナダで振り付けをしてくれていたジュリー・マルコットコーチでした。彼女の指導は情熱的で、教えてもらいながら「私は昔、振り付けするのが好きだったな」と思い出させてもらったんです。それで、引退すると決めたラスト1年の時に「引退したら振り付けがしたい」と思い、勉強するようになりました。

     

――他の仕事に興味はなかったのですか?

     

振り付けをしたり、踊ることが本当に好きだったので迷いはなかったですね。両親から「自分の好きなことを仕事にできるような人は少ないよ」と言ってもらえたので、それも決断のきっかけになりました。

     

――実際に振り付けの仕事をやり始めて大変だったことはありますか?

     

「力不足だな」と思ったり、「もっと勉強しないといけないな」と思うことはもちろんありますが、仕事が大変だと感じたことは一度もないですね。今後は他のことに挑戦することもあるかもしれませんが、振り付けの仕事は好きなので、ずっと続けていきたいと思っています。

     

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小学生の頃から好きだった振り付けの世界に飛び込んだ(写真:本人提供)

     

――同志社大学大学院では女性アスリートの三主徴(利用可能エネルギー不足、運動性無月経、骨粗鬆症)について研究しているそうですね。研究が振り付けに生きることはありますか?

     

直接的に振り付けに生きることはあまりないのですが、女子のスケーターの選手から相談されることがあって、月経の問題だったり、選手のお母様からも「最近思春期で太っちゃって、どうしたらいいですか?」と相談をされることがあるので、そういった時に的確なアドバイスができているかなと思っています。

     

――振精神面などでも、選手の相談に乗ることはあるのですか?

     

そうですね。やっぱり私も体型の変化だったり、月経の問題だったり、メンタルがやられてしまったり、という経験が現役時代にあったので、そういう気持ちに共感してあげて、少しでもアドバイスできるようになれたらなと思っています。     

     

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大学院での研究を、選手へのアドバイスなどに活かしている(写真:本人提供)

     

     

     

チャレンジし続ける中で「やりたいことに出会えた時がタイミング」


     

――木原さんのように、興味があることや自分が夢中になれることを仕事にするためのアドバイスをいただけますか?

    

好きなことを探すってすごく難しいと思いますし、私もスケート以外であるかと言われたら悩んでしまいます。ただ、振付師の世界に入る時には「失敗してもいいから、とにかくやってみよう」という感じで始めたんです。だから、まずは何でもやってみてから考えたらいいんじゃないかな?と思っています。向いていないと思えばそこから悩めばいいし、とにかくやってみないと始まらないですから。私も、今後は「新しいことにもチャレンジしてみたいな」と思っています。

     

――新しいことを始めるのには時間もエネルギーも必要ですが、それでも新しいことをやろうと木原さんが思えるのは、どんなことが原動力になっていますか?

     

もともとすごくネガティブだったんですけど、最近、ポジティブ思考に変わってきたんです。何かにチャレンジして失敗したとしても、「私に合わなかったものは合わないんだからしょうがないな」って思えるようになったというか。その中で、自分の中でやる気が出たり、やりたいと思うことに出会えた時がいいタイミングなんじゃないかなと。大人になってから大学に入り直したという方もいますし、何歳になってもチャレンジはできると思っています。

     

――最後に、振付師としての目標を教えてください。

     

今は選手を支える立場なのであまり自分自身の目標というのはないのですが、どんな選手であっても、その選手にとっていいプログラムを作りたいですし、「万莉子先生に頼んで良かった」と思ってもらえるプログラムを作りたいと思っています。

     

――ありがとうございました。今後も木原さんが手がけた素敵なプログラムを見られるのを楽しみにしています!

   

    

     

 


 

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この記事を編集した人

ナカジマ ケイ

スポーツや文化人を中心に、国内外で取材をしてコラムなどを執筆。趣味は映画鑑賞とハーレーと盆栽。旅を通じて地域文化に触れるのが好きです。

 
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