やる気レポート

【連載】子どもたちに行政的な措置をとるほど、社会の底に空いてしまう“穴”|特別寄稿:学びを通してだれもが主役になる社会へ(4)

2019.08.11

毎週日曜日更新
いま、私たちの社会は、たえず移り変わっています。不透明な未来社会。その実体をつかむのは容易ではありません。
東京大学・牧野 篤 教授は、これから向かっていく社会を「だれもが主役になる社会」だと考察しています。そこに求められるものとは。現代の本質を切りとり、これからの教育の可能性を語り尽くします。

シリーズの一覧はこちら




学びを通してだれもが主役になる社会へ
――これからの子どもたちの学びを考えるための断想――


#1 あらゆる人が社会をつくる担い手となり得る

#2 子どもたちは“将来のおとな”から“現在の主役”に変わっていく

#3 子どもの教育をめぐる動き

#4 子どもたちに行政的な措置をとるほど、社会の底に空いてしまう“穴”

#5 子どもたちを見失わないために、社会が「せねばならない」二つのこと

#6 「学び」を通して主役になる


4
地域コミュニティにおける子どもの学び

(前編)


 

自己肯定感を高める言語活動

 

しかし反面で、このような議論が陥りがちな課題があるように思われます。それは、単純化の罠とでも呼ぶべきことです。つまり、子どもたちが豊かな学力を身につけ、自分の人生を他者とのかかわりの中でつくり、生き抜くためには、非認知能力の高まりが必要であり、そのためには他者との相互承認関係が求められる。貧困家庭の子どもの学力が低いのは、親を含めて、子どもをとりまく人間関係が貧困で、それが子ども自身の肯定感を低くしているからであり、その子に豊かな人間関係を保障し、自己肯定感を高めてやれば、彼らの学力は上がるはずだ。こういう、ある種の原因の単純化による思い込みが支配することになるのです。

 

ここで私たちが問わなければならないのは、この自己肯定感は、「感」として身につけられればそれで済むものなのかということです。そして、ここで私たちが思い出すべきことは、先の「社会に開かれた教育課程」の核心が「体験と言語」であり、新たな学習指導要領がとくに言語活動を重視していることの意味です。

 

それはつまり、言語そのものが社会的なものであり、言語を用いて、自らの状況を認識し、それを他者へと論理的に伝えることができること、そして対話的に他者と関係を構築しつつ、異なる価値をすりあわせながら、新しい価値へと生み出していく知的な活動をともなうことで初めて、私たちは自分がこの社会の中に歴史的に位置づいているという実存の感覚を、まさに論理的な言語によって得ることができるということ、このことをきちんととらえておく必要があるということです。自己肯定感や自立心、さらには自制心という非認知能力は、むしろこうした言語による認知活動によって、子どもたちが積極性や挑戦してみようとする気持ち、そして失敗してもやり直そうとする復元力を持つこと、つまり駆動力へと結びついて行き得るのだといえます。

 
 
 

クルマの両輪としての非認知能力と認知能力

 

非認知能力と認知能力の両輪がうまく協調できてこそ、子どもたちは他者とともに自らの力で、自分の人生をつくり、生き抜くことができ、この社会の持続可能性を高めることができるようになります。そのときの鍵となるのが、地域と学校との協働です。こういう関係の中に、子どもたちの「学び」を置くことが求められるのだといえます。

 

こうして初めて、子どもたちはこの予測不可能な未来を自らの力で生きることができるようになります。

 

そしてそのとき重要なのは、学校という日本社会で普遍的な制度を活用しつつ、それと地域コミュニティとを結びつけ、そこに子どもと地域のおとな、そして学校の教師が三位一体となって子どもたちの学びを構成することです。その焦点は、地域コミュニティにおける子どもの「学び」です。

 
 
 

底抜けしつつある社会

 

私たちはこれまでの様々なまちづくりの取り組みの過程で、次のことに気づきつつあります。つまり、この社会では、さまざまな課題に対応するための行政的な措置がとられ、対応がなされればなされるほど、皮肉なことに、社会の底に穴が空いてしまう、そういうある種の悪循環、または合成の誤謬が起きてしまっているのです。そこには、空恐ろしいほどの人々の孤立が口を開けている、こういうことです。

 

たとえば、子どもの貧困を考えてみます。現在、日本の子ども(統計上の子ども。0歳から14歳)の貧困率は約16パーセント、6人に1人の子どもが貧困家庭にいることになります。それが一人親世帯になると5割を超えます[1]。これに対応するために、全国で、たとえば子ども食堂の実践が展開されており、その数は2018年の春現在で約2300か所に上り、2年間で7倍超への増加だといいます[2]。またたとえば、広島県廿日市市のある小学校では、週一度、希望する子どもたちに学校で朝給食を出し始めたという報道もあります[3]。その理由は、朝食を食べている子どもの割合が減っていく中、「確かな学力」と「学力に必要な生活習慣」を身につけさせるためだとされます[4]

 

このような措置は、もっぱら行政の福祉サービスとして提供され、また教育委員会が行う場合には、子どもたちの生活習慣の育成と学力向上のための措置だとされることが多いようです。そして、このような措置は、緊急避難的には必要なことでもあります。しかし、次のようなことが明らかになりつつあることも事実なのです。

 

子ども食堂の実践は、関係者の努力と行政の支援によって成り立っている場合が多く、ある種の善意と行政的な責務によって支えられています。しかし、現実には、この実践が子どもをとりまく社会の人間関係を変化させ、社会の子どもたちへの関心を後退させる危険を孕んでいるのです。たとえば、ある地域で子ども食堂の実践が始まると、それまで子どもたちを心配していた地域の人々の目が、子どもたちから少し後退します。もう、安心だ、と受け止めるようです。これも当然なことで、貧困の子どもを気にかけ続けることは、住民にとっても心理的に負担だからです。

 

子ども食堂関係者は子どもに食事を提供し始めると、子どもの生活習慣が乱れていることや学力が低いことなどに気づき始め、彼らの自立を促すためにも、生活習慣の立て直しの支援や学習指導を行ったりするようになります。そうすると、さらに地域コミュニティの人々の関心が後退することとなります。

 

そういう状況が進む中で、たとえば行政的な予算が切れて、子ども食堂の維持が難しくなったり、子ども食堂の関係者がオーバーワークで活動を縮小したり、さらには子ども食堂に通っている子どもは貧乏人の子どもだという噂が立ったりすることで、子ども自身が子ども食堂に行けなくなってしまうという事例が発生することとなります。そのとき、子どもたちは自分に対する社会的な関心が薄れた空間に投げ出されてしまうのです。


[1] 内閣府『平成27年版子ども・若者白書(全体版)』、第1部子ども・若者の状況、第3節子どもの貧困(https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h27honpen/b1_03_03.html 2019年3月31日閲覧)

[2] たとえば『朝日新聞DIGITAL』2018年4月4日(https://www.asahi.com/articles/ASL43573TL43UTFK010.html  2019年3月31日閲覧)

[3] たとえば『朝日新聞DIGITAL』2018年11月15日(https://www.asahi.com/articles/ASLCG32RBLCGPITB001.html  2019年3月31日閲覧)

[4] たとえば株式会社SN食品研究所「SN見聞録「広島県 小学校子どもに無料で朝食を提供 学力向上を目指して」」(https://www.snfoods.co.jp/knowledge/column/detail/13038 2019年3月31日閲覧)

 
 
 

(第5回に続く)

#1 あらゆる人が社会をつくる担い手となり得る

#2 子どもたちは“将来のおとな”から“現在の主役”に変わっていく

#3 子どもの教育をめぐる動き

#4 子どもたちに行政的な措置をとるほど、社会の底に空いてしまう“穴”

#5 子どもたちを見失わないために、社会が「せねばならない」二つのこと

#6 「学び」を通して主役になる

 
 
 

おすすめコンテンツ

 

この記事を書いた人

牧野 篤

東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。

 
 

注目のキーワード

#子育て・教育

幼児/小学/中学/高校
 
#仕事・ビジネス

 
#ライフスタイル
 

やる気ラボについて
 
感想・アンケート

  

ページTOPへ