子育て・教育

【寄稿】Withコロナがもたらす新しい自由|子どもの未来のコンパス(1)

2020.05.22

先行き不透明な現代社会において、私たちはこれからの社会をどう形づくっていけばいいのでしょうか。東京大学大学院・牧野篤教授とともに、いま私たちが直面している大きな「うねり」を分析し、未来の指針を考えます。
 

 

牧野 篤

東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。

 
 
 

はじめに


 

経済のグローバル化、ICT社会の到来、AI時代の幕開けなど、これまでの経験が通用しない社会がやってきています。

その上、昨今の新型コロナウイルスの感染拡大のように、グローバル化の中で、私たちは人類共通の問題にも直面し、それらとの共存を強いられるようになってきています。

しかも、すでに人生100年時代。私たちすべてが100年を生き抜く力をつけることが求められています。

この先行き不透明で、しかも私たちが経験したことのない社会にあって、これまでの知識伝達型の教育はすでに役割を終えつつあります。子どもを含めたすべての人々が、自分の人生の主役として、他の人たちと一緒になって新しい価値をつくり、社会を担っていくことが求められます。

この連載では、教育や学習を狭い範囲に閉じ込めず、これからのあり方を探るための視点を、皆さんとともに考えたいと思います。

 
 
 

新型コロナに塗りつぶされた半年間


 

新型コロナウイルスの感染拡大、緊急事態宣言の発表と延期、そしてそれらにともなう学校の休校措置と、年明けとくに年度末から私たちの生活はコロナ一色に塗りつぶされてしまいました。そして、まだその収束も見えない中、今度は出口戦略だ、ポスト・コロナだと騒ぎ出しています。

政治判断は、基準を失って、感染状況によって二転三転し、マスコミは新手の金儲け手段を見つけ出したかのように連日声高にコロナ、コロナと叫び、そして私たち市民はそれに翻弄されて右往左往する、こんな状況が続いています。

大学も例外ではありません。年明けから新しいウイルスの感染が広がっているとの情報が飛び交い、大学としての判断ができず、最後は研究室で学生・院生たちの出講をどうするのか判断せよといわれ、私の研究室ではいち早く、出講停止・オンラインでの指導に切り換えました。

 
東大もオンライン対応を余儀なくされた
 

その後、卒業証書や学位記の伝達式の中止、新年度のガイダンスもオンラインで行い、できる限り外出する必要のないようにとの措置をとりました。しかし、周囲からはやり過ぎだ、学生たちのせっかくの晴れ舞台を台無しにするのかとの批判を受けました。ところが、結果的にはどうかといいますと、卒業式も入学式もそして新入生のガイダンスも、実質的には実施することができませんでした。

そして、新年度から急遽すべての講義や指導はオンラインでとの方針が示され、慣れない中で、オンラインの授業とゼミ、そして会議が開かれ続けて、連休を終えました。これから全国の大学でオンライン授業が本格的に始まります。

しかし、すでに回線が逼迫していて、オンラインでの指導ができず、録画しておいて、オンデマンドで受講できるようにして欲しいなどの要請が、大学本部から来たりしています。教員も慣れない中、オンラインソフトの講習を受け、おっかなびっくりオンラインで講義など、なんでこの歳になってこんなことをせにゃならぬのか、と愚痴りつつ、新たなことに取り組んでいます。

 
 
 

自粛要請のマイナスを打ち破る子どもたち


 

全国の学校も、3月から3か月も休校となり、塾も休みになって、学校や塾のある生活がいかに普通のことだったのか、と子どももおとなも改めて感じているのではないでしょうか。そして、この社会にはこんなにたくさんの子どもがいたのか、と今さらながらに発見してはいないでしょうか。

少子高齢化・人口減少で、お年寄りばかりが目立つ社会でしたが、学校や塾が休みになってみると、公園や道端に、歓声を上げて走り回る子どもたちがこんなにもいることに気づいて、驚いているのではないでしょうか。

そして、自粛要請で何となく抑圧感の強い社会の中で、子どもたちの存在は、そういう嫌な感じを打ち破る力を持っているのだと、目を見張ってはいないでしょうか。少なくとも私はその一人です。そして、子どもたちの歓声が響くと、まちがこんなにも色鮮やかに見えるのかと、改めて感じています。

 
家族で遊ぶ姿も、よく見られる
 

もちろん、三密は避けなければなりませんし、子どもたちもマスクをして、社会的距離を保って遊んでいます。そんなことを気にせずに走り回れたら、それこそどんなに気持ちがよいだろうとも思います。しかも薫風香るこの季節です。それでも、学校が休みで、塾も休みになってみると、まちには子どもたちがこんなにもいることに改めて気づかされる、こういう不思議な、いわば非日常が顔を出すのです。本当はそれが当たり前のはずなのに、です。

反面で、いい話ばかりではないことも知っています。子どもが家にいることで、在宅勤務も出勤も含めて、保護者の生活に影響が出ることから、DV被害の増加などまで、さまざまな問題も起こっています。

しかしそれも、見方を変えれば、本来当たり前であったはずのことが、当たり前ではなくなっていて、当たり前ではないことが当たり前になっているからだ、ということもできるのではないでしょうか。

 

もちろん、私たちがこれまで当たり前だと思い、いまでも思っている、子どもたちが学校に行っていて、家やまちにいないこと、というのは、子どもや学校だけがそうなっているのではなくて、おとなたちの生活や働き方がそうなっている、つまり社会の仕組みとして、そうなっているからであって、それを当たり前じゃないのではないかといわれても、そうすぐに納得できるわけではありませんし、納得できても、すぐに変えられるわけでもありません。

 
 
 

「うちで踊ろう」がもたらしたもの


 

それでも、いま私たちは、新たな感染症の広がりを前に、これまでこの社会がつくりだしてきていた様々な新しい仕組みを総動員して、新たな生活をしようとし始めていることも確かです。テレワークもオンライン授業も、やってみればできることがかなりあると感じているのではないでしょうか。

自粛生活で、不自由だけれど、「うちで踊ろう」(星野源)とのコラボが話題になるように、そしてうちで楽しめることを探そうと思えばいくらでもあるし、自分で工夫してつくろうと思えば、いくらでもつくれることに改めて心弾む思いをしてはいないでしょうか。マスクがなくなり、ティッシュペーパーがなくなったあとに、今度はスーパーから小麦粉(強力粉)がなくなっているといいます。皆がうちでパンを焼く楽しみを見つけたからだといわれます。不自由だけど、結構、楽しいし、自由だ、こういう思いを持つ人が増えているのではないでしょうか。

 
 

そういうことに気づかずに、いえ、気づけたはずなのに、気づこうとはしてこなくて、これまでの皆が一斉に、一所に集まって、集団で、という仕組みをスルズルと変えることなく引きずってきてしまっていたのではないでしょうか。

本当ならもっと早くに切り換えられたはずなのに、面倒なのか、ちょっと怖かったのか、会社も役所も含めて、社会全体が新しい生活の仕方に切り換えることをためらってきたのではないか。そんな思いはしないでしょうか。

 

そして、そういう生活を続ける中で、どんどん大きくなっていたもの、それが与えられるもの、ということだったのではないでしょうか。情報が飛び交い、ものが溢れ、サービスが押し寄せ、私たちはお客様と扱われ、持ち上げられなくては気が済まなくなっている。

だから少しでも気に入らないとクレームをつける。誰もが自分こそがお客様なのだ、自分こそが尊重されなければならない、自分こそが、自分こそが、と社会に訴えているのに、その訴えを受け止めてくれる先はどこにもない。

なぜなら、みんなが自分こそはといいあっているだけだから。だから、人々の関係はどんどん切断されて、社会はどんどん分断されて、人々はどんどん孤立していってしまう。そして最後には、イライラして、弱い立場の人たちを攻撃し、暴力を振るい、または弱い人たちが発信する「さみしい」というつぶやきを逆用して、被害を与えてしまう。

 
 
 

与えられることが自由ではない


 

私たちは、与えられることが自由なのだと勘違いしてきてはいなかったでしょうか。選択の自由を謳歌している、それは自分が尊重されていること、認められていることと同じなのだ、といい気持ちになっていたのではないでしょうか。

でも、この新型コロナウイルスの感染で、自粛要請が出され、自宅でおとなしくしているように声をかけあい始めたときに、あることにふと気づいているのではないでしょうか。

 

誰もが感染の危険にさらされ、著名人が亡くなり、日々感染者が増えていくという不安の中で、家にいましょう、ソーシャルディスタンスを取りましょう、と声をかけあい、皆さんお変わりありませんか、と気遣いあうこと、しかも知り合いだけでなく、誰彼となく、とにかくみんなでがんばりましょう、とにかく感染しないで元気でいて下さいと声をかけあい、気遣いあうことで何かしら生まれる、ちょっとしたつながりの温かさのようなもの。

自分でも人に声をかけ、人から声をかけてもらえると思えることのうれしさのようなもの。そしてそこに、自分もこの社会の中で認められているのだと思えることの、ちょっとした誇らしさのようなもの。そういうものを感じてはいないでしょうか。

 

しかもそこには、他人のことを気遣い、自分が気遣われることで生まれる、相手を通して自分を見詰め、自分の中に相手を感じるというつながりのようなものを感じてはいないでしょうか。

そしてそれは、うれしい感覚なのではないでしょうか。与えられる自由を謳歌していたときには得ることのできなかった、与えることのうれしさ、そういうものを感じとってはいないでしょうか。

 

マスク不足が深刻化したとき、私がかかわっている学区で次のようなことが起こりました。子どもたちの有志が、裁縫道具を引っ張り出してきて、お母さんに使い方を習って、マスクをたくさん縫って、地元の高齢者に届けたのです。

彼女たちは、私たちが進めていた地域と学校の協働活動で、地元のお年寄りと交流を続けていたのです。また、地元の住民の皆さんが、これも有志で、小学校の子どもたちのために、自宅からミシンと布を持ちよって集まり、布マスクを縫って下さり、全校の子どもたちに低学年にはひとり2枚、高学年にはひとり3枚の布マスクが行き渡るように準備してくれていたのです。この皆さんも、子どもたちとの交流がある人たちでした。

 
 
 

相手を慮る気持ちは自分に返ってくる


 

何かの時に咄嗟に誰かのことを思い浮かべて、その人のために何かをしようとする。そこには、私たちの中にこういう他人への想像が働く力があることを見出すことができます。

でもそれ以上に、たとえば子どもたちがお年寄りのためにマスクを縫っているとき、そのマスクを受け取って、うれしそうにしている、そしてそのマスクを使ってくれているお年寄りの姿が目に浮かんで、子どもたちはうれしかったし、愉しかったのではないでしょうか。子どものためにマスクを縫っている住民は、それを子どもが使ってくれる姿を想像して、うれしかったし、愉しかったのではないでしょうか。

そしてそういう思いを持つことで、マスクをつくることそのものが愉しかったし、もっとやろうという気持ちになれたのではないでしょうか。しかも、仲間と一緒になって、そういう思いを共有し、場を共有し、作業を共にやって、愉しさを共有しているのです。

 
いま、多彩なマスクが手作りされている
 

ここには、与えられる自由を行使することにはないものがあります。相手のことを慮って、それが自分に還ってきて、うれしくなって、愉しくなる、そしてそれが自分の行動を次へと駆動してしまう。自分はどうしようもなく、そうしてしまうようにして、そうしてしまう。やらされているのに、自分の思いがどんどん出てきて、愉しくなるし、自分で能動的にやっていくようになる。

しかも、仲間と一緒に、思いや場を共有して。こういう、他者への想像力と配慮に支えられた、関係をつくりだすことへの自由がここにはあります。そして、このことが与えられる自由にはないのです。

そして、私たちは薄々気づいていたのではないでしょうか。与えられる自由は不自由なのだと。つまり、与えられ、選ばされているのだということを。だから、いくら選んでも満足できず、与えられる自由を邪魔されると、イライラして、クレームをつける。こういうことになってはいなかったでしょうか。

 
 
 

自己責任から新しい自由へ


 

私たちがズルズルと引きずってきた社会は、皆が同じように働いて、同じようにモノを買うことで成り立っていた大量生産・大量消費の社会でした。そこでは、誰もが同じように扱われて、同じように生活することが基本でした。そして、その社会とは、会社の別名でした。家庭と会社をつなげていたのが学校です。

学校では、会社と同じように、子どもたちが集められ、同じように教育され、同じ基準で評価されることで、序列がつき、その序列にもとづいて上級学校さらには会社に分配される、これが平等な仕組みでした。そこでは、皆同じ人間だという均質性が前提されていました。誰もが同じ人間なのだから、同じように教えれば、同じように学んで、同じように成長することができる、というのが学校を支配している価値観です。ですから、結果は自己責任ということになります。

 

みんな同じで、同じ内容を、同じように教えているのに、学んだ結果が違うのは、努力の仕方が違うのだ、成績の悪い子は努力が足りなかったからなのだとされ、個人の問題にされてしまいます。そこから、子どものいる家庭が、学校的になっていきます。

子どもの成績に一喜一憂し、学校と同じように子どもを教えようとし、家がどんどん学校のように子どもを評価するようになり、保護者も自分の出来の良し悪しを気にするようになっていきます。

 
 

こういう家庭を含めた社会のあり方を学校のようになった社会、つまり学校化社会といいます。そして、この学校化社会の姿は、先の与えられる自由を主張する人々で埋まっている社会と似てはいないでしょうか。

誰もが自分は人と同じように扱われなければならないと主張することは、自分ができないことに対して、自分だけ他の人よりも差別されていると訴えることへとつながっていきます。なので、自分だけを大切にしろと要求し、その要求が通らないと、文句をいう。誰もが同じようにできるはずなのだから、それができないのは自己責任だし、家庭の責任だけれど、学校に通っているのだから、学校がきちんと自分の子どもを他の子どもと同じように教えていないからいけないのだ、自分の子どもだけが差別されているのではないか、できるようにするのが学校の仕事だろう、と自己責任の裏返しの他人への批判が昂じていってしまうのではないでしょうか。

こういう社会では、他者と一緒になって子どもを育てるという感覚は失われてしまいます。ここには、他者を思い、その他者が喜ぶ姿を想像して、自分がうれしくなるという心の働きはありません。

しかし、新型コロナウイルス感染の拡大で、この社会に生きる人たちが見せてくれたのは、そんな中にあっても、人のことを考え、心配し、お互いに思いやりあおうとする姿ですし、そこには他者を想像し、慮ることで自分がうれしくなる、そういう関係をつくりだすことの愉しさが改めて発見されているのではないでしょうか。

 

それは、与えられる自由にはなかった、自分で他者との間で関係をつくりだすことの愉しさでもあります。こういう愉しさが、私たちのもっと誰かとつながりたいという気持ちをかき立てるのではないでしょうか。そこに私たちは、与えられる自由ではなくて、関係をつくりだす自由を見出す必要があるのではないでしょうか。

新型コロナウイルス感染拡大という非日常が私たちに強いることになった新しい人々のありようは、もしかしたら、こういう関係をつくりだすことの愉しさに裏打ちされた、新しい自由なのかも知れません。不自由だけど、自由なのです。その自由の姿を、子どもたちが見せてくれているのです。

 
 
 
 

 

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この記事を書いた人

牧野 篤

東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。

 
 
 

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