子育て・教育

【寄稿】Withコロナの下で見えてきたかすかな光・2|子どもの未来のコンパス(25)

2022.05.19

未来のコンパス25
先行き不透明な現代社会において、私たちはこれからの社会をどう形づくっていけばいいのでしょうか。東京大学大学院・牧野篤教授とともに、いま私たちが直面している大きな「うねり」を分析し、未来の指針を考えます。連載「未来のコンパス」第二十五編。

     

                


     

    

この記事を書いた人

牧野 篤

東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。

牧野先生の連載はこちら

 


 

 

新しい当たり前


    

寒い寒いといっていた冬から、慌ただしい年度末を過ぎ、そして気がついてみたら桜が満開となる新学期です。陽光が力強さを回復して、木々の芽もふくらんでいます。身も心もワクワクする、解放感溢れる、未来への希望に満ちた春がやってきています。

    

この2年間、私たちは自分では経験のしたことのないコロナ禍という大きな災厄のただ中にいました。そしてまた、オミクロン株が急速に広がる中で、感染第6波が終息する前に、第7波に襲われるのではないかとの予測も出ています。予断は許されません。

    

3月21日には、まん延防止等重点措置が全面的に解除となり、こわばっていた体と心もほぐれるような感じを持っているのではないでしょうか。しかし、私たちの生活は、この2年で確実に変わってしまっています。

   

先日、渋谷で会合があった帰りに、久しぶりの対面に少し興奮気味だった私たちは、一杯やろうかということになり、夜の8時過ぎに焼き肉屋に入りました。もちろん感染予防対策がきちんと取られた店で、私たちもマスク着用です。コロナ禍の前でしたら飲み客で賑わっていたところです。ところが、お客はちらほらとしかいません。「どうしたの?」とマスターに聞くと、「みんな、コロナで、早く帰って、うちで一杯やることの楽しさを覚えてしまったようなのです。7時過ぎまでは、ちょっと吞みに来て下さるのですが、8時を過ぎると潮が引くように帰ってしまわれます。私たちも、営業の仕方を変えなければならないのかも知れません。」とのことでした。

    

   

これまでの当たり前が、新しい当たり前に取って代わられてしまっているのです。

   

コロナ禍のはじめの頃、「新常態」という言葉が流行りました。「新しい日常」ともいわれました。「常態」とは、それが当然だと思うような状態であること、です。多くのサラリーマンたちが、もう、夜中までワイワイ騒いだり、くだを巻いたりするのではなく、さっさと切り上げて、ゆっくりと食事やお酒を楽しむことの楽しさを発見したのかも知れません。新しい当たり前が、知らぬ間に生まれているのです。

                
  
  

誰もが当事者


      

また、2月24日には、ロシアによるウクライナへの全面侵攻が開始され、連日、ウクライナ国民の悲惨な状況が伝えられています。それは決して遠いよその国の話などではなく、私たちもすでにその戦争に巻き込まれています。食品や原材料そしてエネルギーの多くを海外に依存している私たちの生活は、影響を受けないではいられません。すでに、値上げの動きが出始めていて、私たちの日常生活にどのような影響が出るのか、不安視されています。

     

    

その上、この戦争はSNSの戦争といわれるように、誰もが発信者となり、また誰もが受信者になる初めての戦争でもあります。ロシアははじめ情報を遮断するためか、テレビ局などマスメディアを攻撃して、それを機能不全に陥れましたが、それに対して、アメリカの実業家、イーロン・マスクさんが自身が展開しているグローバルな通信網であるスターリンクへの接続を可能にするなどの支援を行うことで、ウクライナの市民からSNSを通じて連日市民の悲惨な状況がリアルタイムで送られてくるようになっています。

   

私たちも、マスメディアではなく、SNSを通してその情報を受け取り、世界的な連帯の動きを強めています。エネルギーの多くをロシアに依存しているヨーロッパ諸国でも、天然ガスなどの輸入が止まることは、市民生活に大きな影響を与えますが、各国がロシアへの経済制裁を強める中で、市民の中にもウクライナを支援するためには、生活への影響を耐えようとする機運が高まっていると聞きます。

   

戦争は直接戦火を交えるだけではなく、世界が緊密につながっている今日では、それぞれの生活が戦場になってしまうのかも知れません。一人ひとりの市民が戦争を闘わざるを得ないのです。

   

コロナ禍も含めて、誰もが知らないうちに当事者にさせられてしまうのです。

   
   
   

コロナ禍で露わになった孤立の実態


     

コロナ禍は、私たちのこの社会で深く進行していた人々の孤立を白日の下にさらし、貧困や格差に喘ぐ人々の姿を露わにしてしまいました。弱い人々がさらに厳しい状況におかれてしまった背景には、自己責任論という厳しい議論が存在していました。つまり、社会的に弱い立場に立っているのは、本人が努力しなかったからだ。生活が苦しいのも、本人ががんばらなかったからだ。すべての原因は本人に責任があるという見方です。

      

その裏返しとして、社会的に強い立場にあり、豊かな生活をしている人は、自分のいまの地位は、自分が努力したからだ、自分自身の力によって築いたものだ、という感覚を強めていました。ここには、ノーブレス・オブリージュ、つまり社会的な地位に見合う責任という感覚、つまり自分の社会的な地位は、自分だけの力によってもたらされたわけではなく、先祖からの遺産や家計状況、社会的な様々な支援のお陰なのだから、その地位に見合った形で社会に責任を果たす必要がある、という感覚はありません。

    

そこに残るのは、それぞれがそれぞれで何が悪い、皆、自己責任なのだ。自分の地位や利益は自分だけの力によるものなのだから、不利益を被るのもその人の責任だ、それでいいじゃないか、という感覚です。この感覚と「みんなちがってみんないい」というお互いに尊重しあうかのような聞こえのよいスローガンとが重なることで、お互いにかかわり合うことのない、相対主義的な、いわば敬遠し合うような関係が生まれていたのではないでしょうか。尊重しているふりをして、かかわり合わない、相手に関心を持たない、ということです。これが孤立の正体なのかも知れません。

   

であれば、社会的に高い地位を持ち、豊かな生活をしている人々も孤立することを避けられません。

    

コロナ禍が露わにしたのは、人々が一人残らず孤立しているという実態なのではないでしょうか。この2年間で私たちが学んだのは、お金は必要だけれども、お金だけでは買えないものがある、といういわば常識を再確認したということではないでしょうか。これが孤立の実態でもあるのです。

    

2年前、コロナ禍が社会を襲ったとき、マスクが足りなくなりました。それがあの天下の愚策「アベノマスク」につながるのですが、そして「アベノマスク」が配られる頃には、マスクは市場に出回りはじめていたのですが、その時起こったのは、お金を出してもマスクが買えないという事態でした。これに対して、台湾の情報担当大臣、オードリー・タンさんがITを駆使して、マスク在庫のプラットフォームをつくり、そこにエンジニアやハッカーたちがどんどん自分の持つ技術とアイデアを注ぎ込んで、全員参加型の生活防衛の取り組みを展開したことが注目されました。IT後進国の日本では、それはできませんでしたが、こういう取り組みがあったことも確かなのです。

    

       
   
   

誰かを思って「よきこと」をする


   

私の研究室では、全国のいろいろな地域コミュニティと連携を取って、様々なまちづくりの実践を行っています。そのうちの一つに、学校と地域コミュニティを結びつけて、地域で子どもが育つ仕組みをつくる事業がありました。

    

小学校の中にコミュニティルームをつくり、地域住民とくにお年寄りと子どもたちが日常的に交流することを通して、子どもたちがおとなから大切にされているという思いを持ち、またおとなたちが子どもから信頼される関係をつくることで、子どもたちを次の世代の担い手として育てようという取り組みです。

    

この取り組みに小学生の頃にかかわった中学生たちがいました。彼女たちが、コロナ禍でマスクが足りなくなったときに、両親にミシンの使い方を教わり、家からミシンを持ち出して、地元の高齢者のために布マスクを縫って、自治会長に届けたのです。コロナウイルスが猛威を振るっているさなか、マスクが足りなくなったというニュースに触れて、彼女たちが、咄嗟に思ったのは「小学生の時にお世話になったあのおばあちゃん、あのおじいちゃんは大丈夫だろうか。不安じゃないだろうか」ということでした。知っている他者への想像力が働いていたのです。そこで、布マスクをつくろうと思い立ち、仲間を募って、マスクを縫い、届けたのです。

   

これに対して、今度は地元のおとなたちが声をかけあって、とくにお年寄りが連れ立って、地元の小中学生のために全校生徒一人あたり2枚から3枚の布マスクが行き渡るよう、マスクを作成して、学校に届けたのです。この時も、「子どもたちは不安に思ってはいないだろうか。保護者も自分の子どもが心配ではないだろうか」という、想像力が働いていました。

   

そして、子どもも地域住民もこういうのです。「お互いのことを思い、心配し合って、マスクを縫っているとき、笑顔でマスクを受け取って、使ってくれる顔が浮かんで、うれしかった。」「だから、もっとがんばって、たくさんつくろうと思った。」

    

こういう想像力を誰もが持っているのです。しかしその想像力が働くためには、誰かとつながっていなければなりません。先ずは知っている人から、そしてそこから見知らぬ人へと想像が広がっているのです。何かの時に咄嗟にその人への想像が生まれ、その想像が何かしなければという思いにつながり、その思いが行動へと結びつく中で、見知らぬ人への想像力が喚起されて、より大きな行動へと広がっていきます。

    

    

そうです。「よきこと」に気づき、それを社会に実装する動きが生まれるのです。これを、「共通善」の実践といったりします。表現は難しいですが、いわれているのは簡単なことです。誰もがそうであって欲しい、そうだろうと納得がいくことを、社会的にみんなで実現する、ということです。

  
   
    

だからこそ「みんなで」


    

私たちはこの2年間、自分ではどうしようもないことに常にさらされ続けてきました。そしてそこへ今回の戦争です。その上、気候変動という長期にわたる大問題を抱えています。私たちは、自分のあずかり知らないところで起きている様々な大問題や社会の構造的な問題を、日常生活で引き受けなければならなくなっています。

   

こういうことを前にすると、無力感に苛まれ、身に覚えのないことで自分が不利益を被っている、一方的な被害者だという思いを抱え込みがちです。それゆえに、自分だけが大事だ。自分だけが不利益を被って、自分だけが犠牲になっていると保身的になり、内向きになってしまいがちです。けれどもそれがまた人々の孤立を深刻なものとしてしまい、一層、人々を苛むようになってしまいます。

    

誰もが自分のあずかり知らないところで不利益を被ってしまう、つまり不利益の当事者になってしまう。だからこそ、孤立ではなくて、「みんなで」それを何とかしなければならないのではないでしょうか。

   

この2年間、私は自分の教え子も含めて、若い人たちの間で、何か新しい動きの胎動が始まっているように感じています。彼らは、21世紀生まれの、完全なデジタルネイティブです。私たちおじさんがリアルとバーチャルに分けて、リアルが大切だ、などといっている間に、彼らはいわゆるバーチャルも日常生活のリアルの一環として生きてきて、自分のあずかり知らないところで起きている事件を日常生活に引き込み、それを自分事のようにして、生きています。

    

ですから、ロシアのウクライナ侵攻のニュースに触れることで、精神的に動揺している学生が出てきたりするのですが、彼らは私たちとは異なるチャンネルを持っていて、日常生活で直接、世界的な様々な問題に触れているのです。

   

すでに小中学校で実施されていて、今年度から高校で実施される新しい学習指導要領をつくる過程で議論されたのは、2030年、新しい学習指導要領を議論していた2015年当時の小学生が社会に出る頃には、65パーセントの子どもたちが今ない仕事に就き、いまある仕事の約半分が人工知能によって代替されてしまって、人を雇わなくなるといわれていたことでした。もう、私たちは子どもに対して「お父さんの背中を見て生きなさい」「親のいうとおりに生きていれば大丈夫」とはいえない時代に入っているのだというのが、審議会での共通認識でした。

    

   

では、どうしたらよいのか。子どもたち自身が自分の人生をつくり、ともに歩んでいく力をつけるしかない。将来は、子どもたち自身に委ねるしかない、というある種の達観です。おとなの諦観といってもよいかもしれません。

   

そこから生まれたのが、「主体的、対話的な深い学び」を実現するためのアクティブラーニングと、子どもたちに様々な社会体験を保障して、多様な学びを深めることを促す地域学校協働活動でした。それらを融合したものがコミュニティ・スクールです。

   

子どもたちには、過去の知識や文化を伝承するだけではなくて、それらを活用しつつ、さらに探究し、それぞれが異なる知識や価値を見つけ出し、つくり出して、それを互いに交換し合う、対話的な関係の中で、さらに新たな知識や価値をつくりだしていくこと、そういうことが期待されたのです。それが、新しい学習指導要領の考え方である「社会に開かれた教育課程」に込められています。

             
   
   

新しい存在


              

ところが、です。この2年間のコロナ禍での生活が、子どもたちに新たな生き方を求め、また新たな生き方ができる条件をつくり出したのではないかと思えてならないのです。それはまだ一部の子どもたちだけなのかも知れません。しかし、SNSで日常的につながっている子どもたちは、常に情報を交換しあい、世界的でヴィヴィッドな課題に敏感で、いま何をしなければならないのか、自分に何ができるのかを常に考え続け、そして動けるときにはまず動こうとする、そういう特性を持っている存在として、この社会に姿を現しているように見えます。

    

    

いわば「社会課題レディネス」ができている子どもたちが増えているように感じるのです。その子どもたちはまた、人と異なることを恥ずかしいと感じたり、それを隠そうとしたりすることはしません。そうではなくて、人と異なることこそがカッコいい、異なることがいいのではなくて、当然、だと考えています。違っていなければならないとまで思っているのではないかと思えるほどでもあります。

   

でもそれは、「みんなちがってみんないい」という相対主義的な、突き放す感覚ではなく、違っているから認め合おうよ、違っているのなら交換=交歓しようよ、違っているのならすりあわせて、もっと違うものをつくり出そうよ、といっているかのような、相互に認め合い、受け入れ合って、高め合うこと、そういうことを楽しんでいるかのような姿です。

    

それはまた、綿密に計画を立て、目標を設定した上で、その目標をクリアすることで計画を完成させるといういわばプログラムを達成するかのようなやり方ではなく、レディネス状態になっているいろいろな人々が、その都度のかかわりを通して、課題に対する多方面からのアプローチをかけることで、相互に交流し、変化し続けること、計画達成ではなくて、常に変化するプロセスにある状態になることで、結果的に課題が組み換えられて、新しい社会が生まれている、こういうことになっているように思えるのです。

   

それは、社会を前提にして、課題を解決することで、社会を元の姿にする、つまり「復興」「復旧」ではなくて、課題を組み換えることで、社会そのものが違うものとなっている、誰もが主役なる社会になっている「生成」「変化」であるように思います。

    

こういう新しい存在が、この2年で急速に社会に躍り出てきている感じがします。

          
   
   

「ともに」から「し合う」へ


       

コロナ禍の中で策定された杉並区の新教育ビジョンは、上記のような社会の動きとくに子どもたちの新しい動きと共鳴し合っています。そのテーマは「みんなのしあわせを創る教育」であることは、すでにお伝えした通りです。

   

新しい教育ビジョンでは、これまでのような、また他の自治体の教育計画が採用しているような、目標達成型の、いわばプログラム実施型の構成を取ることをやめました。正式名称は、杉並区教育振興基本計画なのですが、むしろ計画ではなくて、常にプロセスであることが続くように、と考えました。目標を立てて、それを達成するための計画をつくり、その計画にそって課題をクリアしていくという教育の在り方ではなく、いわばオープンエンドなつくりかたになっているのです。

   

その上で、大事なことは、子どもたちにこの社会の未来を託すこと、そのためには何が大切なのかを議論したのです。それが「みんなのしあわせを創る」という言葉に集約されています。「しあわせ」とは何か。これには正解はありません。人それぞれで自分の「しあわせ」は異なるからです。しかし、「しあわせ」でありたい、「しあわせ」に生きたいと願う気持ちは誰もが同じではないでしょうか。私たちが問いたいのは、内容や中身という質を同じにするということではないのです。

    

これまでの教育は、そしてその教育を制度として持つこの社会は、人々の質を同じものだとみなすこと、つまり均質を人間という存在の基本だとみなすことで、均質なのだから平等に扱うことが公平だとしてきました。しかしこれは、フィクションです。そうしてきたということ、つまりそのように社会制度をつくってきたということです。その背後には、大量生産・大量消費で物質的な生活が向上するという近代工業社会があります。

    

でも、日本ではそういう社会が過ぎ去ってすでに30年以上も経つのです。私たちには、価値多元的で、多様な人々が相互に尊重しあって、常に交流して、常に新しい価値をつくりだし続ける社会をつくることが求められています。ですから、「しあわせ」についての考え方は異なっていることが自然なのです。

    

質は問わない、むしろ質が多様であって、誰もが自分の「しあわせ」を持っていることが自然なのだという考え方に立ちます。でも、誰もが「しあわせ」に生きたいと願っているという、いわば形式は共通なのです。だからこそ、皆がその形式を認め合い、受け入れ合わなければならない。自分の「しあわせ」を考えることは、人の「しあわせ」を認めることにつながらなければならない。そう考えるのです。

   

そうすると、そこではこれまでの杉並の教育が大切にしてきた、そして前の教育ビジョンで強調されていた「共に学び共に支え共に創る」という「ともに」を基本としながらも、さらに一歩踏み出して、「し合う」ということが課題化されます。相対主義的に、相互に不干渉でも、その場に一緒にいれば、「ともに」何かをしていることになるのではないか、そういう意見が議論の途中で出ました。そうではなくて、みんなが自分の「しあわせ」を大切に思うのであれば、みんなが互いに「しあわせ」を実現できるようにかかわり合う必要がある、そういうことです。

    

     

そこから、「学び合うこと」「認め合うこと」そして新しい教育を「創り合うこと」、そうすることで「誰もが社会の創り手となること」が見通されることになります。

   

「ともに」を基本として、さらに「し合う」ことを続けていくこと、こういうことが掲げられたのです。

                 
   
   

当事者としての視点


    

ここから、教育の当事者としての区民一人ひとりがとらえられます。区民一人ひとりというのは、おとなだけではありません。子どもからお年寄りまで、老若男女そしてLGBTQや障がいを持った子どもやおとな、すべてがそこには入ります。

    

誰もが教育の当事者として何を大切にすべきなのか、が問われたのです。そして新しい教育ビジョンでは、次の5つを掲げました。

    

1.子どもの思いを尊重する:誰もがかけがえのない存在であり、自分の思いや考えを持っています。それは子どもだからといって抑え込まれてはなりません。お互いに受け入れ合い、認め合う関係の中で、お互いの思いを尊重して、それを交流し、その思いを実現できるように互いに支え合うことが求められたのです。

    

2.ちがいを受け入れる:個性は誰もが持っています。質が異なることは当然です。でも、それだけではありません。そのちがいを受け入れ合うことで、そこには「対話」が生まれ、認め合い、高め合う関係が生まれます。決して抑え込んではいけないのです。「対話」を通して、違いを新しい質へと組み換えて、新しい社会をつくり続けること、このことが期待されたのです。

    

3.対話を大切にする:だから「対話」を重視します。「対話」は認め合い、受け入れ合うことから始まり、それは教え合い、変化し合うこと、そして異なることを次の質の異なることへとつなげていきます。そこでは、違っていることは当然ですが、違っているからこそ受け入れ合い、「対話」することが求められます。

    

4.学びの成果を贈り合う:「対話」はまた、贈りあう関係でもあります。教育という営みでは、一人ひとりが当事者となることで、それは学び合うだけではなくて、教え合うことへと踏み出していくことになります。それは、送るというよりも、ギフトつまり贈り物をするかのようにして自分が学んだことを他者に贈ることです。そうすることで贈り物の連鎖が起こり、社会全体が皆が認め合い、信頼し、対話して、学んだことを贈り合うことで、自分が高まっていく、そういう関係ができていきます。

    

5.社会を創る当事者として考える:こうすることで、一人ひとりは誰もが誰かとつながりながら、対話して、学びを贈り合う、教育の当事者となり、それが皆で社会を創っていくことにつながります。それは「ともに」「し合う」社会の担い手になるということでもあります。こういう社会では、誰もが自分の「しあわせ」を追い求めることで、みんなの「しあわせ」を実現することにつながっていきます。

    

新教育ビジョンは、こういう構成になっています。

     

   

ですから、新教育ビジョンの主語は、「私たち」つまり区民一人ひとりなのです。

                 
   
   

For AllからBy Allへ


   

このような構成を取ることで、教育の担い手も大きく変わります。これまでは、Education for Allといわれ、公権力(国や自治体)が国民や住民の教育機会を保障することが権利保障だと受け止められてきました。この重要性は変わりません。

    

しかし、これからは行政による一律の権利保障としての教育保障でだけではなく、むしろ多様な価値が入り乱れる、多様性の社会にあって、For Allを基盤として、誰もが主役として、教育を担い、社会の価値を豊かにして、社会そのものを革新していくBy Allであることが求められます。By Allを保障することこそが、行政の役割となる、新教育ビジョンではこのことが行政の役割として書き込まれています。

    

やってもらうのではなくて、みんなでやる。それは「一斉」「均質」であることを求めるものではありません。誰もが異なっていることを受け入れ合った上で、それでも自分が当事者として、自分の「しあわせ」を実現するためにこそ、他者の「しあわせ」を考え、実践せざるを得ない、そういう関係の在り方として社会を創る、そういうことです。

    

ですから、教育行政の役割も教育条件の整備を基本として、さらに区民の参加を促し、「し合う」こと、贈り合うことを保障するように組み換えられなければなりません。

    

杉並区の新教育ビジョンは、上記のような内容を持ったものとしてつくられました。ですから、このビジョンは、教育振興基本計画と呼ばれてはいても、計画をスケジュール化したものではありません。むしろ、これからの杉並区の教育を考えるための基本的な方針を示したもの、むしろ羅針盤(コンパス)として受け止めてほしいものです。

     

     

こうして策定された結果、このビジョンはこれまでにない「薄い」ものとなりました。本文は7頁しかありません。コンパスはできるだけ簡素で、区民の創意工夫が生かされ、それぞれ多様な質を持った教育営為が、それこそ区民の日常生活で展開され、区民が交流し、さらに新しい学びと教え合いの営みが広がっていくことが期待されているのです。

    

教育行政の仕事は、このビジョンにもとづいて、「教育ビジョン2022推進計画」として毎年策定される「計画」に基づいて行われることとなります。

    

杉並区の新教育ビジョンの全文は、下記のURLで見ることができます。関心を持って下さった方は、是非ご覧下さい。

   

杉並区教育ビジョン2022

                 
   
   

3つの「un」


      

これまで述べてきた社会の新しい担い手の在り方は、そして杉並区の新教育ビジョンが示したBy Allの考え方は、次の3つの「un」による人の存在の在り方の変革と深くかかわっています。つまり、unmute、unlearnそしてunlockedの3つの「un」です。

   

従来の規模の経済(大量生産・大量消費による量の拡大を目指す経済)の時代の人材育成・選抜の国家的な制度である学校とその背後にある均質で画一的な時空間である工場、そしてそれらを支え、かつそれらによってなされる人間の育成の在り方においては、知識や価値観の注入が基本となり、muteが強要されてきました。Muteとは消音、つまり話をしないこと、黙々と、コツコツと知識を受容し、蓄え続け、同じ仕事を反復して、高品質で廉価な同じ製品を大量につくり続けること、その作業の在り方だといってよいでしょう。つまりmuteとは拡大再生産の社会の基本的な在り方なのです。

   

このmuteを基本とする教育の在り方は、mute-learn-lockedすなわち黙々と与えられる知識を蓄え、与えられた作業を繰り返し、枠づけされる、つまり枠組みへの適応を強いられ続けることが教育という営みの基本的なあり方であることとなります。

   

しかし、このような教育を求める社会の構造とくに経済構造は、先にも述べたように、すでに過去のものとなっています。新しい社会では、異なること、質が多様であることが前提となり、かつその異質性が相互に交流し合うことで常にその都度新たな価値が生まれ、社会の在り方を組み換え続けることが求められます。そのためには、muteではなく、誰もが自由に声を出し、対話し、議論して、新たな価値を生み出し続けることが常態となることが必要です。つまり、unmuteが基本となる、にぎやかな交流対話空間として、社会が構成されることが求められることとなるのです。それは、学校の在り方にとっても同様でしょう。

    

このunmuteを基本に考えると、学びの在り方もunlearnとなります。Unlearnとは学びの否定ではなく、学んだことで形成されている枠組みを解きほぐして、新たな学びrelearnへと展開して、自らの持つ知識の体系や考え方の枠組みを常に組み換え続けることを意味しています。つまり、知識の蓄積ではなく、組み換えであり、常に新たな知識を生み出し続け、新たな価値を創造し続けることで、自分を縛りつけている枠組みを壊し、枠組みそのものを常に組み換え続けること、つまり解放され続けること、unlockedであり続けること、です。Unlockedはまた、国家など人為的な制度を俯瞰して常に組み換え続け、常によりよい制度を実現し続けるように自己と社会との関係を問い、変革し続けることでもあります。

    

    

この学びの在り方は、目的を定め、それを達成する在り方ではなく、むしろ常に自己を束縛する枠組みを崩しつつ、新たな枠組みを作り、さらにそれを崩し続けて、新しい自分の価値観や存在の在り方をつくり出し続けるプロセスそのものであり、何か目的を達成することではなくなります。それは常に予定・予測できるものとしての目的・目標が設定されるのではなく、予測不可能なことが生まれ続けることでもあります。学びには、常に予測不可能性がつきまといつつ、試行錯誤のプロセスが続くこととなる、いいえ、そのようなプロセスそのものが「学び」であることとなるのです。

    

これからの学びは、このような予測不可能性に富んだ、発見に満ちた、自分がどんどん予期せぬ新しいものになっていくというわくわく感を秘めたものとなっていくのではないでしょうか。

    

子どもたちの新しい動きが、それを先取りしているように見えてなりません。

     

                


     

 

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