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2020.07.29
生活・趣味
2023.05.29
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この記事を書いた人
牧野 篤
東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。
子どもたちと真剣に向き合おうというおとなの思いから始められた取り組みの一つが、「益田版カタリ場」(島根県)でした。
まずはおとなが自分の生き様を地元の中学生に語りかけ、彼らと対話することが試みられました。カタリ場は2015年度から始められましたが、初年度は、176人の高校生と24人の地域のおとなが語りあいの場を持つこととなりました(※)。
※益田市教育委員会『益田版カタリ場』2020年度報告書(パンフレット)より。
その後、年々、参加する学校や子どもたち、それに地域のおとなたちが増え、おとなが中学生に語りかけ、高校生に語りかけることで、今度は高校生が小学生と「カタリ場」を持ちたいといいだして、小学校カタリ場が設けられ、それがさらに中学生と小学生の「カタリ場」、おとな同士の「カタリ場」へと広がっていくのです。
【写真1】【写真2】は、「カタリ場」の様子です。楽しそうな雰囲気の中にも、とても真剣に語りあいが進められ、それぞれが自分の人生を語り、これからの自分の人生のあり方を考えていることが伝わってくるのではないでしょうか。こんなに子どもたちから見つめられては、誰もが熱を込めて自分の経験や思いを伝えないではいられなくなってしまいます。
その上、今度は小学生までもが、自分のことを高校生に語り始めるのです。
さらに、小学校時代に「カタリ場」を経験した中学生が、自分たちもやりたいと「カタリ場」に参戦してくるのです。いまでは、中学生と小学生の「カタリ場」が生まれています。
そして、子どもたちから熱いまなざしを向けられ、自分の人生経験を語ったおとなたち自身が、今度は、自分たちの中でも世代を超えて語りあうことで、このまちのひとの魅力を受け止め、このまちを自分にとってかけがえのないふるさとへと生み出していこうという取り組みが始められます。おとな版の「カタリ場」です。
益田市では、この「益田版カタリ場」を「ナナメ」の関係から、さらに人生で幾度も出会う関係へととらえ返して、「またね」の関係と呼んでもいます。言い得て妙ではないでしょうか。
この取り組み、2015年から始められましたが、2020年までに5279名が参加し、市全体の人口の12パーセントの人が「益田版カタリ場」を経験していることになります。市民の実に10人に一人以上が「カタリ場」経験者なのです(※)。
※益田市教育委員会『益田版カタリ場』2020年度報告書(パンフレット)より
その結果、高校卒業後8割の子どもがふるさとを離れていく益田市ですが、「カタリ場」などの取り組み以前には3割ほどしか帰ってこなかった若者たちが、いまでは8割が帰ってきたいというほどになっています。
地元に魅力的なおとなたちがいて、そのおとなたちが自分たちのためにどんな思いで日々生活しているのかに触れることで、自分がやりたい仕事を考えるときに、そのおとなたちの笑顔や生き様が目に浮かぶようになったようです。
実際、「カタリ場」体験の前後で、子どもたちの意識は、次のように変化しています(※)。
●「将来に対して不安がある」:79パーセント⇨
・「どんな人になりたいか考えることができた」:90パーセント。
・「誰にも打ち明けられなかった悩みを打ち明けることができた」:78パーセント。
●「益田には魅力的なおとなが多い」:65パーセント⇨85パーセント。
●「一度は外に出たとしても、益田市で暮らしたい」:57パーセント⇨65パーセント。
※益田市教育委員会『益田版カタリ場』2020年度報告書(パンフレット)より
子どもたちにとって「何もない」益田市が、とても魅力的なふるさとへと変貌していることがよくわかります。
こういうふるさとは、おとなにとっても魅力的なふるさとであり、自分の日常生活がとても大切で愛おしいものとして、とらえ返されることになるのではないでしょうか。
益田市がこれまでお話しした「益田版カタリ場」のような取り組みを展開できたのには、市のひとづくり行政のキーパーソンであるOさんが、地域教育コーディネータとして着任したことがその背景としてあります。それまでに、そして、それからも、かなりの紆余曲折がありました。ここからしばらくは、益田市行政の動きを、今日の益田市の「ひとが育つまち」の前史として概観しておきます。
日本全体がバブル経済に沸き立つなか、地方分権の動きが急になってきます。そのころ、大分県知事の平松守信さんが提唱して、施策化した「一村一品運動」(※)や、後に熊本県知事や首相を歴任した細川護熙さんと出雲市長や衆院議員を歴任した岩國哲人さんの共著『鄙の論理』(光文社、1991年)(※)が社会的に注目を浴びていました。
※大分県下の市町村が各々特産品を育てることで地域の活性化を図ろうとした。
※「地方から反乱を起こそう」「すべては地方から変わる」と訴え、「少額のお金でも人の幸せにつながるのが地方行政のお金」と、地方行政の面白さ、やりがいを説いた本。
いわば、「地方の反乱」と呼ばれる時代が、1980年代末からバブル経済崩壊までの間続いたのでした。それはまた、経済成長にともなって地方から人が大都市へと流出してしまうという中央−地方の二極構造への異議申し立てでもありました。
その後、1970年代から唱えられていた「地方の時代」の考え方が、分権・自立論へと変容して、注目されることとなります。バブル景気崩壊後の景気対策によって、公共事業が地方でかなりの量をともなって行われましたが、それが地方を潤すことにはならず、結果的に中央のゼネコンの利益になってしまったのではないかとの批判が噴出し、「地方の自立」「地方分権」が唱えられるようになってきたのです。それはまた、バブル経済崩壊後、地方と呼ばれる地域がいっそう深刻な人口流出に悩まされることとなるのと軌を一にしていました。
こんななか、島根県は学校教育と社会教育の水平統合を進める施策を展開します。それは、1980年代半ばの生涯学習をめぐる議論(臨時教育審議会[1984年〜87年]における学校教育中心の社会から生涯学習を基盤とした学習社会の建設に向けた政策的展開の議論など)によって、総合行政としての生涯学習が提起され、学校教育と社会教育の統合による生涯学習政策・行政の展開が志向されていたこととかかわっています。
生涯学習政策はまた、上記の地方分権の議論とも重なるなかで、学校経由の新卒一括採用・終身雇用・年功序列という日本型雇用慣行をも組み換えるとともに、学校修了後も、人々が自らの必要に応じて学び続けることのできる社会の実現を目指しており、それは人々が生活する現場である地域コミュニティをおのずと重視する政策、つまり地方分権、さらに域内分権と深く関係するものでもありました。
このような政治的・経済的動きを背景として、島根県は1998年に学校教育と社会教育を統合して、学校教育の閉じた性格を組み換え、学校の持つ自前主義の考え方を打破して、子どもの教育を地域社会全体で担う態勢をつくるとともに、地域の教育活動を活発化させようと動き始めたのです。
この学校教育と社会教育の連携・統合の動きを一般には学社連携といいます。
島根県が、この学社連携の施策をとったことの背景には、教育行政の観点から見ると、さらに次のような事情がありました。地方分権政策の展開の過程で、それまで特別行政委員会であり、一般行政から相対的に独立しているとされた教育委員会の予算に組み込まれていた社会教育関係予算が、一般財源化されて分配されることになり、それにともなって、従来、都道府県が各市町村教育委員会に社会教育主事を派遣していた制度(派遣社会教育主事)の維持が困難となったのです。
社会教育主事は、社会教育法に規定された社会教育の専門職で、都道府県と市町村教育委員会に配置されて、住民の社会教育活動を指導し、また助言する役割を担うこととなっています。しかも、法的には今日でも社会教育主事は都道府県・市町村教育委員会に必置とされていますが、罰則規定を持たない必置規定であるために、予算措置が厳しい市町村では、主事を置かなくなっており、さらには全国市長会などからも社会教育主事の必置規制をはずすような要望が出されるなど、市町村教育委員会への社会教育主事の配置取りやめが相次ぐこととなります。
学社連携を進めなければならない一方で、社会教育主事の設置が難しくなるという事態のなかで、島根県は1999年に県独自で学校教育と社会教育の間をつなぐことのできる人材の育成と各市町村教育委員会への派遣を検討することになります。その結果、県職員としての教員籍を持ち社会教育主事任用資格保持者を育成して、派遣することを決定し、経費の半分を県費で負担することとしたのです。
しかし、実質的には社会教育主事の派遣ではあっても、制度上、社会教育主事の任用ではないため「地域教育コーディネータ」と呼ぶこととし、しかもこの地域教育コーディネータに誰を充てるのかは、市町村が指名できるようにしたのです。この制度に、益田市が手を挙げて、採用されることとなり、益田市の教育委員会に地域教育コーディネータを迎え入れることとなったのです。
こうして、当時、旧匹見町に派遣社会教育主事として赴任していた県の教員籍のOさんが、県制度の地域教育コーディネータとして益田市教育委員会に着任することとなったのです。2002年のことでした。
いわば、教員であり、教育委員会の社会教育主事であるOさんが地域教育コーディネータをも担当するという形で、学校教育と社会教育の連携のみならず融合を図り、それがさらに地域連携を進める基盤づくりへと歩みを進めることとなったのです。
さらにこの背景には、Oさんのような若い教員籍の社会教育主事であり地域教育コーディネータが、新たな発想で活躍できるような行政的余地がつくられていたことがあります。1990年代の社会教育の総合行政としての生涯学習への移行にともなって、それまでのベテランの社会教育主事たちが異動となっていたのです。
(次回につづく)
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