生活・趣味

【寄稿】「農的な生活」が生む幸福論・7—人と認めあう関係にあること(2)|〈ちいさな社会〉を愉快に⽣きる(17)

2023.04.20

息苦しく不穏な時代の渦中にいながら、新しい⾃分の在り⽅を他者との「あいだ」に見出し、〈ちいさな社会〉を愉快に⽣きる人々がいます。東京大学大学院・牧野篤教授とともに、その〈ちいさな社会〉での生き方を追い、新たな「⾃⼰」の在り⽅を考えてみましょう。
「農的な生活」は、それを丁寧な生活をつくることを通して、自分が人との間で、自分なりの価値の軸を持って、しっかりと地に足をつけて生きることだととらえれば、実際に日常生活のあちこちでつくりあげることのできるものです。そしてそれを発信して、みんなの日常生活を豊かなものにできる可能性が生まれています。

第16回記事「「農的な生活」が生む幸福論・6—人と認めあう関係にあること(1)」はこちら

  


     

    

この記事を書いた人

牧野 篤

東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。

牧野先生の連載はこちら

 


 

 

 

高齢者の身体機能支援デバイス開発


    

こんなことがありました。ある海外の機械メーカーから技術者の訪問があったのです。先進国の高齢化を見据えて、高齢者の身体機能を補助するウェアラブル・デバイスを開発しているというのです。

   

へぇ、大友克洋さんのアニメ映画『老人Z』みたいなものかなあ、と考えていました。

   

『老人Z』

   

まずは製品の構想の紹介があって、こんなに便利だということが次々と説明されました。その後で、日本は世界で最も高齢化している国なので、日本の高齢者にこそ我が社のウェアラブル・デバイスをまず着装してもらいたい。そう考えて、各地に調査に入っている、というのです。

   

ほお、と思って聞いていると、でも、うまく行かない。日本の高齢者は、こういうものを身につけるのを拒否する傾向にあるようだ。なぜだかわからない。それで相談に来た。こういうことなのです。

   

誰に聞いても、皆さんとてもいいものだと評価してくださるのに、実際に聞き取りに行って、身につけてくださいとお願いすると、なぜ多くの高齢者が拒否するのか、理解できない。日本の医療や福祉の専門家に聞いても、宣伝が足りないからだろう、こういうデバイスがあればもっと便利になるし、身体機能の補助になることがわかれば、着装するようになるといわれるのだが、それにしても、なぜここまで拒否されるのか不思議だというのです。

              
  
  

自分が装着したいと思うか


   

そこで、私からは、「皆さんは、このデバイスを開発していて、楽しいですか」と問いかけたのです。一瞬、えっ、という顔をされましたが、「ええ、社会の役に立つことですから」という返事。「では、このデバイス、もし自分が日本の高齢者だったら、装着したいと思いますか」と聞きました。すると、「もちろんです。こんなにいいものは、他社にはありませんし、これを装着すれば、行動がとても楽になるからです」というのです。

   

「でも」、と私からは、「もし私だったら、ちょっと躊躇しますよ。確かに、いいものなのでしょうけれど」とお話をしました。なぜ躊躇するのか。それはこのデバイスをつけたら、もしかしたらいま使える身体機能が衰えて、使えなくなってしまうかもしれない。いま苦労してでも、何とかなっている身体が、このデバイスをつけることで、確かに楽になるだろうけれど、この一生懸命にやっているという感じがなくなってしまうかもしれない。そう感じるからです、と。

   

すると、「楽になるのに、なぜ」という反応です。いえ、そうではないのです。苦労しているというところに、いま生きているという実感とともに、自分に対する肯定感、がんばっているという感じが生まれるのです。それは、自分がこの社会で生きているという尊厳とかかわる感覚なのです、と付け加えました。「こういう高齢者の感じている尊厳のようなものを考えたことはありますか」と。

   

すると、「いやあ、そんなことは考えたことがなかった。楽になるのなら、それがいいと考えてきた。こんな風にいわれるのは、驚きだ」というのです。

   

そこで、さらに加えました。「もしかしたら、楽になると、家族や友だちからのケアが受けられなくなるのではないかと心配なのかもしれませんよ。それって、甘えているというよりは、自分の存在を認めてもらえなくなるという不安と一体のものかもしれません」と続けました。

    

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「そんなこと、考えたこともありませんでした。でも、デバイスをつけることで、自立できたと見なされて、相手にされなくなったら、寂しいでしょうね」との反応でした。

   
   
   

当事者は高齢者だけなのか


   

また、「皆さんはデバイスを開発するときに、孫世代にインタビューしたりしましたか」と問うと、していないといいます。「なぜ、高齢者のデバイスを開発するのに、孫に意見を聞かなければならないのか」と、怪訝そうな顔をするので、「高齢の人たちがデバイスをつけようと思うのは、それをつけることで、孫や家族、それに友だちとのつながりがもっと強くなって、もっと人から認められて、自分も家族や友だちとの関係の中で、自分の力で、しっかりと生きているのだと思えるときでしょう。それは皆さん自身も同じではないですか」と問い返しました。

   

「ここで大切なのは、デバイスをつけることで、孫や家族、友だちとの関係の中で、新しい生活が、それも孫や家族や友だちから期待されるような新しい生活ができるという欲望を、高齢者が持てるかどうかだと思うのです。生活が便利になりますよ、自立生活ができますよ、人に迷惑がかからなくなりますよ、という抽象的な話ではなくて、このデバイスをつけることで、大切な人との間で生きようとする欲望が湧いてくる、しかもその欲望は、孫や家族の欲望でもある。これこそが尊厳と深くかかわっているのですし、そうなることで、このデバイスは本当の意味で役に立つものとなるのではないでしょうか。」

   

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こう伝えますと、同席していた技術者たちが、頬を紅潮させて、盛んに議論しはじめたのです。私はそっちのけでした。それだけ、自分たちのやろうとしていることの方向性が見えてきて、楽しいものになってきたのではないでしょうか。彼ら自身の目がとても輝いていたのが印象的でした。

    

こういう技術者は、単にデバイスをつくるだけでなくて、デバイスをつくることの先に、人が幸せに生きることとはどういうことなのかを見ることができる「職人」になっているのではないでしょうか。

    

そして、そういう「職人」を擁する会社は、高齢者向けのデバイスをつくりながら、人が幸せに生きられる社会を構想し、市場に提供できる会社となるのではないでしょうか。

       
   
   

誰もが価値の発信者


   

このように考えてきますと、話は何も大企業だけに限りません。ごく普通の市民が、新しい社会では、価値の創造者と発信者になることができるのではないでしょうか。

   

これまでの社会であれば、労働力にも消費者にもならなかった小さな子ども、それに労働の第一線を退いたと考えられてきた高齢者、さらには障害を持った人や寝たきりの人たちまでもが、新しい価値をつくりだし、発信する役割を担うこととなります。

    

まだ言葉もしゃべれず、はいはいすることもできないような赤ちゃんまでもが、お母さんとの楽しい食事の場面を食品会社の技術者に見せることで、「おいしい」とは成分だけではないことを、むしろ自分を包み込んで、全面的に肯定してくれるお母さんという存在と一緒にいて、感情を交流させて、おいしいね、と目と目を見合わせてご飯を食べることで、そのご飯は本当においしくて、身体にいいものとなっていくということを、示すことができるのです。

   

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この社会は、こういう時代に入っているのだといえるのではないでしょうか。

  
   
    

誰かとつながっているということ


    

ここには一つの条件があります。それは、人々が、常に誰かとつながっていて、その誰かとともに自分がその社会に生きているという実感を得られ、その社会に自分は受け入れられ、肯定されているという強い感情を持てるということです。そしてそれが、人の生きようとする欲望を駆り立て、モノやサービスを得ようとする欲望をつくりだし、新たな市場をつくりだしていくのです。このことが、これまでの社会では忘れられていたのではないでしょうか。

   

これまでの社会では、個人をつながりから切断して、個性をあおり、他人とは異なる自分になることを強迫観念のように求めてきました。それは、強い個人を想定し、皆に、強くあれ、自己責任で物事に当たれ、と要求する社会です。

    

その結果、人は自分がこの社会の中で他者から認められて生きているという肯定感を失い、結果的に、何が自分の個性なのか、何を自分が欲しいのか、そういうことすらわからなくなってしまった。いいえ、そういう欲望そのものが本来的には個人に属するものではなくて、社会の関係から生まれてくるものであったのに、それを個人のものだとして強要してきたところに、この社会の失敗があるのではないでしょうか。

    

これは何も、人と人との絆が大事だなどという陳腐な話をしようとしているのではありません。

   

個人の欲望は、生きようとする欲望も含めて、すべて社会的に認めあう関係の中から、個人の存在の後に生まれてくる、事後的なものです。孤立感・孤独感が健康とは独立の変数として、個人の死に深くかかわっている、つまり人から認められていないと感じている人ほど、生きる意欲を失ってしまうということは、関係者の間では周知の事実ですし、前回の記事で示したとおりです。

   

これまでの市場は、欲望は個人のものだと勘違いして、個人を社会から孤立させて、ばらばらにしていけば、消費は増えると考えてきたのではないでしょうか。しかし、欲望とは、社会的なものなのです。しかもそれは豊かに生きるためのものです。それは、個人がもともと持っているものではなく、個人が人との承認関係ができてはじめて持つ、関係がつくりだす、集団的なものなのです。たとえ、消費単位が個人であったとしても。

    

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人を追いつめる社会


            

この社会は構造的に、人を追いつめないではいられません。人を「〇〇力」に還元し過ぎてしまうのです。労働力、購買力、生産力、学力、そして最近では社会人力、コミュニケーション力、エンプロイアビリティ(雇用される力)など、人は人ではなくて、モノであるかのようです。この「力」はまた市場で消費される商品です。その結果、人は人とともに生きている感覚を失い、自分を肯定できなくなる、つまり尊厳を否定されるという事態が招かれています。

    

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この社会をつくっている市場、そしてその市場を構成しているはずの欲望とは本来、人が互いに認めあう関係の中に生まれるものなのです。そして市場とは、その欲望を人々が自分の欲望として実現しようとすることで成り立つ、常に事後的なものです。

   

そこでとらえられるのは、老若男女を問わず、障害があろうがなかろうが、さまざまな人が互いにかかわり、自分の欲望を求めて社会のために尽くすことが自分のためにもなる、こういうことです。そこでは、個人は「〇〇力」などという抽象的な商品に還元されるものではなく、切れば血が出るような具体的な身体を持つものになっているのです。

   

モノとしてではなく人の間に生きるということを、これからの社会はもっと大切にしていかなければならないのではないでしょうか。人は人とつながることでこそ人になるという、それこそ人類が人間になった当初から続いてきた事実を。そして、欲望とは人と人との間にこそ生まれるという事実を。これが「農的な生活」の基本なのではないかと思います。

             
   
   

欲望はつながっているからこそ生まれる


            

そしていまや、私たちが生きているこの社会は、改めてこの人と人とのつながりということを基本として、人々が「みんな同じ」ではなく、違っているからこそ平等に扱われ、違っているからこそ、つながることで刺激を受けあい、違っているからこそ、その違いの間に新しい価値を生み出して、それを欲望として社会的に組織することができる時代に至っているのではないでしょうか。

   

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そこでとらえられるのは、違っていることでつながって、互いに認めあうことで、欲望を社会的に組織すること、そこにすべての世代のさまざまな人々がかかわりを持てること、そして自分の欲望を実現することが社会のために尽くすことになり、自分のためにもなる、こういうことです。それこそが、この社会を新しい市場のあり方へと導いていくのです。

   

そしてもう一つ見落としてはならないことがあります。既述のプロジェクトのメンバーが、自分の存在を人との間で自分のものとすることで、自分の身体性を回復しているということです。「〇〇力」に分解されてしまっていた自分が、社会にきちんと時間と空間を占める具体的な身体として回復しているのです。欲望が他者との間で、具体的な身体をともなったものとして、彼らによって生きられるようになるのです。だからこそ、その身体は、子どもが欲しくなるのではないでしょうか。

             
   
   

違っているのにつながっている社会へ


            

このように見てくると、本当に「負けている」のはどちらなのでしょうか。弱い人たちを「負け犬」だと蔑んでいる強いつもりの人たちこそが、この社会の停滞を招いてしまっているのではないでしょうか。「〇〇力」に還元されてしまった自己を誇示するような強い個人など、市場に囚われとなって、社会を想像し、創造する力を失った哀れな人の姿のように見えます。

   

繰り返しますが、市場は本来、ありもしない個人の欲望で成り立っているのではなく、人と人とが認めあう関係にこそ欲望が生まれ、それを人々が自分の欲望として受け入れ、実現しようとすることで成り立つ、常に事後的なものなのです。

   

誰もが、多様な価値を尊重しあい、認めあって、勘考して、人の幸せのために尽くすことができる、それが新しい価値を生み、経済を循環させていく、本来の市場社会が新たな姿を見せながら実現していく、こういうこと、これが一人ひとりの幸せにつながるのではないでしょうか。それは、常に自分の尊厳を人との承認関係の中で、具体的な身体をともなうものとして創造し続けることでもあります。

   

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それはまた、こういってもよいかも知れません。「単能工」の産業社会から、「多能工」の、みんなが違っているのに、つながっていて、認めあえ、みんなの欲望が自分のものでもある社会、そして新しい市場へ。

    

こういう生き方、これが「農的な生活」なのだと思うのです。
(次回につづく)

             
   
   


     

 

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