生活・趣味

【寄稿】「農的な生活」が生む幸福論・6—人と認めあう関係にあること(1)|〈ちいさな社会〉を愉快に⽣きる(16)

2023.03.16

〈ちいさな社会〉を愉快に⽣きる(16)
息苦しく不穏な時代の渦中にいながら、新しい⾃分の在り⽅を他者との「あいだ」に見出し、〈ちいさな社会〉を愉快に⽣きる人々がいます。東京大学大学院・牧野篤教授とともに、その〈ちいさな社会〉での生き方を追い、新たな「⾃⼰」の在り⽅を考えてみましょう。
「農的な生活」は何も農山村での生活に限りません。それを、多能工的で、丁寧な生活をつくることを通して、自分が人との間で、自分なりの価値の軸を持って、しっかりと地に足をつけて生きることだととらえれば、実際に日常生活のあちこちでつくりあげることのできるものです。

第15回記事「「農的な生活」が生む幸福論・5—田舎をめざそうプロジェクト(5)」はこちら

  


     

    

この記事を書いた人

牧野 篤

東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。

牧野先生の連載はこちら

 


 

 

 

合成の誤謬


    

前回まで豊田市山間部の「若者よ田舎をめざそうプロジェクト」を事例に、「農的な生活」の幸福論を考えてきました。しかし、このことは何も農山村に限った話ではありません。たとえばこういう事例があります。

   

あるとき、大手食品会社の役員という人が訪ねてきました。私のような者のところになぜ、と問いますと、「どんな食品をつくったらよいのかわからなくなっている」というのです。

    

日本はいま、超高齢社会です。政府からは、高齢者の健康データを提供するので、健康によくて、安くて、簡便で、おいしいものをたくさんつくれば、市場が拡大して、経済発展に貢献できるし、会社も利益を得られるといわれている。でも、自分たちはそうは思わない、といいます。我が社だけなら儲かるでしょう。でも日本には千数百社も食品会社があります。それが、同じようにモノをつくって、同じようにコマーシャルで宣伝して、うちのほうがおいしいから、健康にいいからといって高齢者にどんどん食べさせたら、却って健康を損なってしまうのではないか。疑問で仕方がない、というのです。

    

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善意であっても、それが重なると、間違ったことになる、合成の誤謬が起こるのではないか。しかも、その確率はかなり高い、と不安でならないというのです。

              
  
  

「おいしい」は「楽しい」


   

私も名案があるわけではありません。でも、ちょっと感じるところがあって、住宅地の中で、空き家を使って子育て中のお母さん方が集まる場をつくっているところなどに、この会社の関係者を連れていって、一緒に交流してもらいました。そこでは、幼稚園前の子どもたちが走り回ったり、転がったり、お母さんとおやつを食べたり、ときにはお昼を一緒に食べたりしています。

    

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すると、この会社の技術者たちがこういうのです。「こうやってお母さんと一緒にご飯食べると、おいしいでしょうね。」「こうやって、みんなで一緒にご飯食べるとおいしいんでしょうね。」

    

私がびっくりして、「ご自分のお子さんもこうやってご飯を食べてたんじゃないですか」と聞き返すと、「いやあ、忙しくて、見たことがないんですよ」という返事が返ってきます。そして、こういうのです。

   

「私たちは、食事を食品として考えてきたのだと、いま改めて思いました。食品は成分なのです。健康にいい成分、おいしい成分、手早く、手軽にできる成分、長持ちさせる成分、それが食品の命だと考えてきました。でも、本当においしくて、身体にいい食品って、食品そのものの成分ではなくて、みんなと一緒に、おいしいねって、ニコニコしながら食べる食事のことなのかも知れませんね。」

   
   
   

人間関係が死亡率にかかわる


   

実は次のような研究結果があるのです。

   

たとえば、高齢の方々の死亡率を下げる要因についての研究です。運動と栄養それに社会参加の習慣が高齢者の死亡率にどのようにかかわっているのかを調べたところ、この3つについて、良好な習慣がない人の死亡率を100とすると、運動と栄養に良好な習慣がある人の死亡率が約3割下がり、さらに社会参加が加わると5割ほど下がるという結果が出ているのです。図1を見てください。

    

図1 高齢者の死亡率と運動・栄養・社会参加の効果
(出典:「静岡県高齢者コホート調査に基づく、運動・栄養・社会参加の死亡に対する影響について」2012年、東海公衆衛生学会、平山朋他)

   

この上にさらに、運動、栄養、社会参加のそれぞれの中で何が死亡率を下げるのに貢献しているのかを検討した結果、良好な人間関係があるということが有意に作用していたといわれます。つまり、一人で黙々とジョギングしている人よりも、二、三人で和気あいあいとウォーキングをしている人のほうが健康度が高くて、長生きだし、一人で食事の内容に気をつけて食事をしている人よりも、二、三人で楽しく食事をしている人のほうが健康度が高くて長生きだった、というのです。

    

社会参加も、一人で放送大学や公開講座などに出かけていくのもよいけれど、二、三人の仲のよい友だちとボランティアに出かけたり、カラオケに行ったりしている人のほうが健康度が高いということなのです。

       
   
   

食事のとり方と死亡リスクの関係


   

また、こんな研究もあります。食事のとり方と死亡リスクの関係を調べたものです。

   

高齢者のうちで、家族と同居していて、一緒にご飯を食べている人の死亡リスクを1とすると、という数字です。同居しているのに、ひとりでご飯を食べている人のリスクは、男性で1.47倍に、女性で1.16倍になり、逆にリスクが減っているのは、一人暮らしだけれども、友だちとご飯を食べている人で、男性で0.84倍、女性で0.98倍になっているのです(ただし、有意な違いとしては、同居で孤食の男性の死亡リスクの高まりです)。図2を見てください。

    

図2 食事のとり方と死亡リスクの関係
(出典:東京医科歯科大学Press Release
No. 103. pp.16-33)

   

この研究結果は、たとえば、私の大学の病院の老年科の医師たちがいっている「誤嚥の多い少ないは、ご飯をおいしいと思えるかどうかとかかわりがあるようだ」という経験的な実感ともつながっているようです。知人の医師は、こういうのです。

    

誤嚥が多いお年寄りと少ないお年寄りがいて、これまでは身体の虚弱などが関係していると考えていた。たしかに、嚥下機能が低下して誤嚥が起こりやすくなることはある。しかし、それだけでは説明がつかないことが多くて、調べてみたら、ご飯をおいしいと思っていて、好きで、よくかんで食べているかどうか、ということもかかわっているように思えてならない。しかも、ご飯がおいしいかどうかは、味付けではなくて、誰とどんな関係でご飯を食べていたのかということと深くかかわっているようだ。

    

たとえば、家族や孫たち、そして仲のよい友だちと「おいしいね」という関係でご飯を食べてきたお年寄りは、ご飯がおいしいと思っているし、好きだから、一生懸命噛んで、飲み込もうとする。だから誤嚥が少ない。でも、そういう関係でご飯を食べて来なかった人は、いくら高級な料理を出しても、あまりおいしいと感じないし、ご飯そのものが好きではない。だから、いい加減に噛んで、飲み込んでしまって、誤嚥を起こしやすくなる。こういうことも深くかかわっているように思う、と。

  
   
    

良好な人間関係が独立の変数として


    

こういう研究結果は、日本だけではありません。たとえばアメリカやシンガポールにおける研究でも、ほとんどが同じことを示しているのです。良好な人間関係を持っている高齢者のほうが、健康度が高く、長生きだ、と。しかも、良好な人間関係は、独立の変数として作用しているというのです。

   

つまり、喫煙習慣のある人のほうが、当然死亡リスクは高くなりますが、その喫煙習慣のある人の集団の中でも、良好な人間関係があって、毎日快活に過ごしている人のほうが、そうでない人よりも死亡リスクが減っているのです。

    

こういう研究結果を受けて、シンガポール政府は、高齢者が家族と同居することも重要だが、同居しているから安心なのではなくて、どのように同居しているのかが大切だ、つまり高齢者の主観的な幸福感を高めることができるような同居の仕方をしていることが重要だとして、それを政策に反映させるための研究を始めていると聞いています。

    

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ことは、高齢者の個人的な死亡の問題ではなくて、高齢者の健康度を上げ、健康寿命を高めることが、政策的には社会負担を減らすことにつながるという認識なのです。

    

いずれにしても、良好な人間関係があることが、人の心だけでなく、身体の健康度も高め、死亡リスクを減らして、長生きをもたらすということなのです。

             
   
   

「食品」ではなく「食事」


            

こういう最近の研究成果は、先の「おいしい」は「楽しい」というご飯の食べ方と深くかかわっています。子どもとお母さんたちの食事場面を見た食品会社の社員は、こういうのです。

    

「私たちは、みんなが忙しくなれば、食事をつくるのも面倒になるし、高齢者が増えれば、あまり手の込んだ食事をつくることもなくなるだろうから、できるだけ簡便で、手軽にできるものを、と考えて食品をつくってきました。それが社会のためになると信じて。でも、そうじゃないかも知れませんね。こうやって、楽しい食事が待っているのだったら、少しくらい手間がかかっても自分で食事をつくろうとするでしょうね。」

   

「もしかしたら、私たちの食品が、家族を壊してしまったのかも知れません。そう思うと、頭を殴られた感じです。社会のためによかれと思ってやってきたことが、本当はそうじゃなかったかも知れないのですから。」

   

ではどうしたらよいのか、答えはありません。私からは、この会社に、空き家を借り上げて、定期的に地域の子どもや子育て中のお母さん方と会食するような試みを続けてみてはどうでしょうか、と提案してあります。

    

こういう試みの中から、この会社は、単なる食品会社から食事を通した豊かな生活を提案できる会社に生まれ変わるかも知れません。このとき、この会社の技術者は「農的な生活」の達人になっているのではないでしょうか。単なる「食品」をつくる技術者ではなく、「食事」を創造することができる職人として。

   

そう、ご飯は「食品」というモノなのではなくて、「食事」という「こと」、つまり関係なのかも知れません。私たちはご飯を通して、良好な人間関係を食べている、良好な人間関係から、私たちはつくられている、そう考えられるのかも知れません。

     

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このことが「農的な生活」の在り方とも深いかかわりを持っているのです。

(次回につづく)

             
   
   


     

 

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