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2020.07.29
子育て・教育
2020.08.11
この記事を書いた人
牧野 篤
東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。
新型コロナウイルス感染対策で、真っ先に対象となったのが学校でした。北海道が独自に緊急事態宣言を出し、学校の休校を決めて、初動が評価されると、今度は政府が唐突に全国の学校に対して休校要請を出し、現場が大混乱となりました。
その結果、3月2日から学校は休校に入り、終業式も、卒業式も行われず、4月に入っても休校は続き、入学式も始業式も行われずに、結局3ヶ月間休校となり、この6月から恐る恐る再開ということになりました。
学校の休校については、賛否両論あります。結果的に、子どもの感染率が高くないことがわかり、逆に学校に行かないことによる精神的・肉体的ストレスが子どもの成長にとってよくないという批判もあります。
また、緊急事態宣言が出される前から休校措置がとられたため、それにともなって放課後子ども事業や学童保育なども対応できなかったり、閉鎖となったりするところが出て、子どもが家にいることで、誰が子どもの面倒を見るのか、各家庭の事情を考慮した判断だったのか、という批判もありました。
また、休校中の学習の遅れに対する対応は大丈夫なのか、夏休みが短縮になることでの冷房対策は、登下校時の暑さ対策は万全なのか等々、様々な意見が噴出しています。これらの議論は、それぞれの事情を考えれば、どれも理解できるものです。
私は個人的には、学校の休校は各都道府県の実態に合わせて判断すればよかったのではないかと思います。しかし、それも後出しジャンケンのような感じがしないでもありません。危機管理としては、最初に一気に締めておいて、その後状況を見ながら、徐々に緩めるということが基本だと思うからです。
実は私は、2月末に北海道に講演に出かける予定になっていました。なかなか日程が取れませんでしたので、3日間かけて集中的に5つの自治体を回るというスケジュールでした。しかし、残念なことに、新型コロナウイルスの急速な感染拡大で、それらすべてが取りやめとなってしまいました。その時、発生していたのが学校でのクラスターでした。
一説では、札幌の雪まつりで感染が広がり、それが学校を介して子どもたちの間に広がって、さらに家族や近隣に、という感染経路だったとのことです。ですから、北海道が休校措置をとったことは理解できます。
ただ、私の知人がいる北海道の別の地区では、感染者はひとりも出ていませんので、これも北海道全域で一斉に同様の措置をとる必要があったのか、各基礎自治体の判断に任せるべきだったのではないか、といわれれば、それはわからない、といわざるを得ません。結果的にそうだったとしかいえないからです。
2月の末の時点で、国の新型コロナウイルス感染対策が大きく方針転換したことは事実です。それまでは、海外からの感染者の流入阻止を含めた水際対策と封じ込め対策が基本だったのですが、国内ですでにクラスターが発生していたことがわかると感染拡大防止に舵を切り、その過程で、学校がクラスター対策の対象となったということです。
検査も医療も感染者の急増に整備が追いつかず、逼迫した情況のなかで、感染の拡大を阻止するという一点で、大慌てでとられた措置の一つが、全国一律の休校要請だったということなのではないかと受け止めています。政府内部で十分な調整がなされないまま、いわば官邸が独走したといわれるほどの慌てぶりだったといってよいのではないでしょうか。
そして、感染状況が少し落ち着いて来た頃に出てきたのが、この3ヶ月間の休校期間中の子どもの学習(の遅れ)をどうするのか、という議論ですし、それを受けた9月入学の議論です。これも政府の準備不足の感は拭えず、各所から賛否両論が巻き起こり、結果的には、9月入学への切り替えには莫大な予算と労力がかかり、しかもひと学年以上の子どもたちを犠牲にしかねないという批判の中で、政府は議論することそのものをやめてしまいました。行き当たりばったり感は否めません。
この間の学校をめぐる政府の対応の右往左往ぶり、そして政府が何か発表するたびに巻き起こる賛否両論の議論、こうした動きを見ていますと、この社会がいかに学校に依存しているのか、ということを改めて垣間見るようです。
家庭の困惑はいうに及ばず、子どもたちの居場所の問題から、学力問題、さらには心身両面のストレスや発達にかかわる問題など、学校がこれまでのような日常を続けることができなくなった途端に、様々な議論が巻き起こりました。それでも多くの人々はそれを現実として受け止め、とくに緊急事態宣言が出され、在宅勤務へと切り替えが進むにつれて、家庭での対応がなされていったことも確かだと思います。
もちろん、子どもの貧困問題など、以前から存在していた問題が、この新型コロナウイルス禍で一層顕在化したという面も否定できませんし、家庭で対応しようにも、様々な理由で対応できない人々が多数いることも知っています。それでも、各家庭は事態を受け入れ、試行錯誤しながら、新たな状況に対応しようと努力をされたのではないかと思います。
この混乱はまた、この社会が学校という制度をまるで日常生活の一部であるかのように、さらにいえば空気のように、あって当然のものだと受け止めてきたことの裏返しなのではないでしょうか。
そして学校のある日常が、この社会に広く遍く普及しているものであるがために、突然、それが機能しなくなったり、変更されたり、極端な場合、なくなるということになると、それまでの日常が実際にどうなるのか、想像がつかず、不安になり、困惑する。そしてその困惑がさらに意見や不満、そしてクレームや批判として噴出する。こういうことになってはいないでしょうか。
学校がいままでの学校ではなくなるなんて、学校そのものがなくなるなんて、考えられない。どうしたらいいのか。こういう感情が人々をとらえてしまうのではないでしょうか。 それほどまでに、私たちは、学校があることを前提に、自分たちの日常生活を考え、つくりあげてきているのだといえそうです。
そして事実、わたしたちの社会では、学校はここまで成功したことがないといわれるほどに成功し、遍く普及した国の制度なのです。学校という制度は、いまのような形になる前の制度から数えても、日本ではまだ150年ほどしか経っていない、世代でいえば30年でひと世代だといわれますから、6世代ほどしか経っていない、比較的若い制度です。
しかし、いまやわたしたちの社会は、学歴社会と呼ばれ、学校に行くこと、そしてそこでの成績や入試という選抜制度が、その人の人生を左右することとなっているかのようですし、家庭も学校化しているといわれるように、子どもの成績に一喜一憂し、学校の勉強に遅れないように子どもを塾に通わせ、学校と同じような価値を共有するまでになっています。
また、海外からは日本の急速な工業化と近代化の秘密は、学校教育とくに初等中等教育にあるなどと賞賛されもしました(たとえば、エズラ・ボーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』、広中和歌子他訳、TBSブリタニカ)。
エズラ・ボーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』広中和歌子他訳(TBSブリタニカ)
勤勉で礼儀正しい国民の育成、画一的な価値観の共有などが、工業社会に適した社会の安定と優れた労働力をもたらし、日本の西欧世界へのキャッチアップを後押しし、さらには西欧世界を追い抜こうとしているといわれたのでした。このような評価は、1990年代に入ってからも続きました。
私は1995年から1年間香港とカナダに滞在したことがあります。当時、97年の香港の中国への返還を控えて、大量にカナダに移民した人々がトロント周辺に香港コミュニティを形成していたのですが、そのコミュニティでは、保護者が学校に日本式の教育を行うよう要求しており、教師たちが日本を訪問しては、日本式の学校教育の秘密を探ろうと懸命でした。
当時、日本はすでにゆとり教育に切り換えようとしていたのですが、多くのカナダの先生方から、なぜ日本は自らの優れた基礎教育を捨てて、われわれが過去失敗した自由主義教育へと切り換えようとしているのか、と何度も質問されて困った記憶があります。それほどまでに、日本の学校教育は「優れて」いたのです。
このように評価されていたことそのものが、日本の学校制度の特徴をよく表しています。つまり、近代化すなわち西欧世界へのキャッチアップのための社会装置が学校だったのです。(ここからは、諸説ありますが、桜井哲夫『「近代」の意味―制度としての学校・工場』、日本放送出版協会、にもとづいて、話を進めます。 )
明治維新からわずか5年、1872年(明治5年)に日本の学校制度はつくられました。 『学制』が発布されるのです。とくに基礎教育制度は、フランスのそれに学んで導入し、その後、アメリカの制度を参考にしたといわれます。
明治初年(明治4年〜6年[1871年〜73年])に、岩倉使節団が欧米をめぐり、江戸幕府が結んだ不平等条約を改定するための予備交渉や、国の近代化のあり方についての視察を進めます。この使節団の留守中に、すでに政府は『学制』を発布し、学校制度の建設に乗り出しています。徴兵制・地租改正・鉄道開通と並ぶ施策です。学校制度の構築をここまで急いだのは、富国強兵・殖産興業・文明開化という明治政府のスローガンを実現する施策の要が教育だったということでしょう。
なぜ、学校制度の構築を急いだのか。それは、統一国家をつくることとかかわりがあったように思います。学校制度がフランスに範をとって導入されたのには、理由があります。当時、フランスは世界最強の国民国家といわれたといいます。産業革命の後、大量の工場労働者と巨大な国内市場が必要となり、また強い軍隊を構築するために、人々の言語を統一して、国に対する求心力を高める施策がとられます。
つまり、統一された国家語を話し、強い国家意識を持ち、また実用的な知識を身につけることで、蒙昧や迷信さらに宗教の教義から解放され、生産労働に勤しむ労働者であり、旺盛な購買意欲を持った消費者である人々を大量に生み出し、さらに上意下達の指揮系統がはっきりした近代的な軍隊をつくりだすために、国民の育成が必要とされたのです。このように、強固な国家への意識を持つ国民によってつくられている国のことを、国民国家と呼びます。
当時、この国民の育成に最も成功していたのが、フランスだったといわれます。国家語を制定して、それを普及する事で、人々の国家に対する意識を統一していくのです。このことはまた、言語が地域語(方言)に分かれていて、階級分化が厳しく、また宗教が人々を囲い込んでいたヨーロッパ諸国においては、経済発展を基調とする新たな工業社会をつくるためには、喫緊かつ必要なことでもありました。それを、フランスは国家語としてのフランス語を制定して、学校制度をつくり、学校を通して国民に国家語を強制することで、地域語を駆逐して、成し遂げたとされます。
国家語は、まず、経済的な必要から国家によって制定され、民衆を国民化する、つまり強い国家意識と同胞意識を持った国民へと育成する道具として、民衆に強制されました。その結果、民衆が日常的に使っていた地域語=生活言語が駆逐され、 国家語=国語が民衆相互の間をつなぐ道具として使われることになったのです。
これを、桜井哲夫さんはこう指摘しています。「多くの国々で国家による強制的な言語的統一(均質化)が行われてはじめて現在のような「国家語」を「国語」であるかのように思い込む事態が生み出された・・・・・・。」(42-43頁)「言語的統一こそ国民国家の基盤にあるものであり、そしてそれを保証しうる国家の装置こそ〈学校〉にほかならなかった・・・・・・。」(43頁)
そして、こう続けます。「「国家語」による「地域語」の征服・同化の強力なイデオロギー装置こそ近代的な学校制度に他ならなかった・・・・・・・」(45頁)
このことを、日本の指導者たちは知っていたのではないでしょうか。この学校制度を、国民を育成する教育制度、つまり国民教育制度といいます。
桜井哲夫『「近代」の意味―制度としての学校・工場』(NHKブックス)
『学制』発布の翌年、つまり明治6年(1873年)、岩倉使節団に加わって、欧米の教育事情を視察していた田中不二麿が帰国し、『学制』の実施にあたりますが、協力したのが文部省の学監だったアメリカ人のデビッド・モルレーでした。その後、学校制度を普及するに当たっては、新興国であり、階級社会の形成がほとんどなかったアメリカの教育制度を参考にしつつ、国内の学校制度の整備が進められます。
小学校は当初4年制でしたが、それは江戸時代の寺子屋や私塾・郷学校などを母体とするものがほとんどでした。当時の人口は約3300万人でしたが、1875年(明治8年)の小学校数は2万4000校あまり、就学者数は192万人ほどで、就学率は35パーセントほど(男:約50パーセント、女:約19パーセント)でした。
その後、学校の普及は進み、学校制度がつくられて30年後の1902年(明治35年)には、就学率は9割を超えています。今日の総人口は1億2600万人ほど、小学校数は1万9000校ほど(最多は1957年の約2万7000校)、児童数は635万人ほど(最多は1958年の約1350万人)、就学率は100パーセントです。学校制度がつくられてその初期にはすでに、今日の学校制度の基本ができあがっていたといってもよいでしょう。
日本全体での言語の統一は、明治の後半になりますが、学校では標準的な言葉による教育が進められ、学校制度整備の当初から「会話(ことばづかい)」という科目が設けられて、言語の統一的な使用、つまり標準語化が進められます。小学校に「国語」という教科が誕生するのは明治33年(1900年)のことです。
国語学者の上田万年が、明治27年(1894年)、4年に渡るドイツとフランスへの留学から帰国します。彼は帰国後、「標準語」の制定を提唱します。それは「一国内に模範として用いられる」言語を指し、「現在話されていること」と「文章上の言語となること」が重要だとしています。言文一致が原則なのです。その観点から、標準語制定の方法とされたのが、首都東京の教養の高い人々が使っていた「東京語」を洗練することでした。
その後、日本は、言語を統一して、標準語化し、それを国が制定する国語として普及するために、教科書(読本)を編集し、学校を通して子どもたちに教えていったのです。(当時の慌てぶりをコミカルに描いたのが井上ひさしの戯曲『國語元年』です。1985年にNHKで放映され、後に戯曲化されました。『國語元年』中公文庫。この戯曲はまた、今日、国語をごく当然の如く受け入れて何の不思議も感じない、つまり地域語の存在を忘れているかのような現代の日本人に対する皮肉でもあると、私は受け止めています。)
井上ひさし『國語元年』(中公文庫)
先に述べたように、学校は、1872年(明治5年)に『学制』という法令として発布され、その設置が各地に求められたのですが、その付属文書に「学制序文」とも呼ばれる「被仰出書」(おおせいだされしょ:学事奨励に関する被仰出書)という太政官布告が添えられていました。そこには、立身出世主義・国民皆学・就学督励(教育を受ける義務)などが書かれていました。
つまり、身分にかかわらず、すべての子どもは学校に上がって勉強しなさい、そうすれば出世することができるし、家計も、ふるさとも、国も豊かになる、そのために親は子どもを学校にやらなければならない、と民衆に説いていたのです。
この「立身出世」という考え方も、フランスの学校制度の基本となっていたものでした。知識が足りないという恥ずかしさだけではなく、国が決めた言葉を学び、国が決めた知識を身につけることで、利益がある、こういう形で人々を学校へと誘導し、学校を経由してこそ生活が物質的に豊かになるという実感を得させることが制度普及の眼目となったのです。そこでは、学校は家庭と国家つまり工場を結びつけ、家計を豊かにする媒体でした。
このことは、日本の学校制度にもほぼ忠実に再現されています。もちろん、子どもを学校に上げることは、当時の親にしてみれば、負担でもありました。また農村部では、学齢期にある子どもは働き手でもありましたから、学校に上げれば働き手を取られた上に、学費も取られる、しかも国家一律の生活に役立たないことばかりを学んできて、しまいには親のいうことを聞かなくなるなど、親からは不評で、各地で学校焼き討ち事件があったほどでした。
それに対して、教育内容を実用的なものに組み換えたり、さらに学校の選抜機能を整えたりして、学校に行くと貧困から抜け出せる、都市に出られる、サラリーマンになれるという現実が見えるようになると、人々はこぞって子どもたちを学校に上げるようになったといいます。また、子どもにとっても、学校は努力によって明るい未来を見せてくれる場所でもありました。
階級の分化がヨーロッパほど厳格ではなく、また宗教による人々の囲い込みもほとんどなかった日本においては、この学校を通した立身出世が人々の間に浸透していきます。この間の事情を、前出の桜井さんは、こう指摘しています。「出世のルートが学校制度に次第に限定されてゆくにつれ、「学校」信仰を生みだしてゆく。それは、・・・・・・日本社会に生みだされた「視えない宗教」とでもいうべきものであった。」(190頁)
しかも、当時から学校は通学区としての学区を持っており、それが明治初期の基本的な行政区画でした。その後、それは統合されて、今日の市町村につながるのですが、学区そのものは今日まで引き継がれ、そこに町内会などの組織が置かれて、今日に至っています。
ですから、皆さんの地域でも自治会や子供会、さらに老人クラブといういわゆる地縁団体は、すべて小学校区を単位につくられていると思いますが、それは明治の頃からの名残といいますか、歴史があるのです。
戦後、この学校はさらに9年制義務教育として法制化されて整備され、すべての子どもが満7歳になる年度に入学することができるようになりました。
この義務教育という言葉は、無償という意味と、子どもの学ぶ権利を最終的には国が保障する義務を負っているという意味のものです。戦前のように、国民の義務としての就学という意味ではありません。ですから、義務教育期間中は、授業料は無償ですし、さらに高校などでもできるだけ学費を安くするようにしてあります。
しかも、戦後の制度は戦前よりも機会の平等がより徹底されて、すべての子どもたちに対して学校教育が保障されることとなります。その上、学校は、戦前からと同じなのですが、経済発展にともなって、子どもたちを会社へとリクルートする人材吸い上げの制度として、一層強力に機能することとなります。それはまた、子どもにしてみれば、地元から都市に出ていくことと同義ですし、学校を経由して、就職するということでもありました。
こうして、学区を基本としてつくられていた地元が、学校を通して、子どもたちを会社つまり都市に送り出す流れができあがることで、学校は地元から離れて、より大きな社会へ出て行くルートとして認識され、また家計を改善するための、さらに個人の経済的な豊かさを実現する装置として、人々に意識されるようになります。
学校は、地元から子どもを吸い上げて都市に出すとともに、家と会社を結びつける国の制度、つまり家-地域-会社-国を直結させて、人材を経済発展に向けて農村から都市へ、家から会社へと送り出し、その過程で個人の経済的な欲望を遂げる国家の制度として、求心力を強めていくこととなります。「学校」信仰が起こり、それが「視えない宗教」になっていくのです。
こうして、学校は人々がそれを通して自らの生活の向上という欲望を達成しようとする唯一の、しかも国がつくった権威のある、そしてだからこそ永続的だと誰もが信じていた道具、つまり制度として、人々の日常生活の中に根づき、それがない生活など想像することもできないものであるかのように、ごく当たり前の存在となっていったのでした。
それだからでしょう、義務教育、というと、本来の意味では、子どもの学習する権利を保障するための保護者の義務があり、保護者の子どもに対する義務を果たす権利を組織化したものとして教師の教育義務とそれを受けた権利があり、その義務を果たすための教師の身分保障や教育の自由の保障があり、それらを保障するために教育条件を整える義務を自治体や国が負うという体系を持っているものであるにもかかわらず、いつの間にか、子どもは学校に行かなければいけないのだ、学校に行くのは子どもの義務だ、という感覚が多くの人々の間に浸透していくようになります。
しかも事実、学校に行くことで、学校の成績さえよければ、つまり本人ではどうにもできない生まれの条件や環境などの違いはほとんど切り捨てられ、努力することと皆と同じ教育内容を身につけること、そしてテストでよい成績を取ることが自分の人生の目標を達成する唯一の方途であるかのような意識が、人々を支配するようになります。これが学歴社会です。
勤勉にコツコツと与えられた知識をきちんと身につけること、そうすることで自分の将来が切り拓かれる。こういう感覚が社会全体に広がるといってもよいでしょう。それはまた、会社で、工場で、勤勉に、コツコツと、与えられた仕事を一生懸命こなしていけば、経済的に豊かになれるという、工業社会の価値観と表裏の関係にありました。これが、日本の学校教育が世界的に高く評価されたことの大きな要因なのです。
そして、このような価値が家庭の中に浸透することで、家庭は、親子とくに母子が密着して、子どもを学校的な価値で教育するいわゆる「教育家庭」へ、さらに子どもを学校的な価値で評価する「学校化家庭」と呼ばれるものへと変貌することとなります。 しかし、このような学校のあり方が1980年代の後半くらいから、大きく揺らぐようになります。それは、社会が工業社会から消費社会へと移行し始めたことによります。
私が大学に入学したのは1979年でした。その頃の大学は、とくに国立大学は薄暗い雰囲気に包まれていました。キャンパスは立て看と張り紙やビラばかりで、建物も薄汚れていて、しかも学生の雰囲気が何となくうらぶれている感じというのか、なんだか無気力なのです。
私たちは、センター入試の前の共通一次試験の最初の受験者で、新人類と呼ばれ、またオタクの走りでした。大学の雰囲気が暗かったのは、その頃はまだ70年安保闘争の名残のようなものがあって、しかも安保闘争に敗れた敗北感とでもいうような、粘つくような空気感が沈殿していたためです。
このような大学から一足先に脱け出して、大学の外に楽しみを見つけ出したのが女子学生たちでした。彼女たちはどんどん垢抜けていって、キャンパスに残された男子学生は◯◯原人と呼ばれるようになり、女子学生に置いてけぼりを食うようになります。
その後、男子学生も彼女たちに引っ張られて大学の外に出かけ、徐々に消費生活を謳歌するようになります。ちょうど、東京ディズニーランドが開園した1983年が分かれ目になったといわれます。
そのころから、学生たちとくに女子学生たちは大学の授業を脱けだしては、街でアルバイトに精を出し、そのおカネを使って、新たな消費文化を創り出すようになり、それに引きずられて、男子学生もアルバイトに明け暮れる生活を送り始めます。
しかもそのアルバイト代は、生活費というよりは、楽しみのために使われるようになっていきました。そして社会は、工業社会の画一的な価値から個性尊重へと舵を切り始め、1980年代の半ば頃からは、学校でも個性化が叫ばれるようになっていきました。
おカネを稼ぐのは一家の大黒柱であるお父さん、それを専業主婦のお母さんが管理して、子どもたちは小遣いをもらう存在、というどこかの声の大きな人たちがいまだに幻想を抱き続けているような家族のあり方は、この頃からどんどん崩れていき、「女子供(おんなこども)」が消費トレンドをつくるといわれるような時代がやってきたのでした。
その後、社会はバブル経済に向けて、安定成長期から投機が過熱するような不安定で浮かれた社会へと駆け上がっていきます。
この過程で、強調されたのが、個性であり、人との違いであり、差異でした。このような新たな価値観が学校に入り込むことで、学校教育のあり方は動揺していくことになります。
これまでのような画一的な価値観にもとづいた画一的な教育内容を、均質な子どもたちに、平等に注入することで、勤勉で均質な人材へと育て上げるという学校の役割が壊れ、多様な価値観を持ち、個性溢れる消費者を育成することが求められるようになっていったのです。しかし、それは、それまでのような集団教育では、至難の業でした。
そして、子どもたちも大きく変わっていきました。学校不適応が増え、現在の不登校につながる登校拒否が社会問題となっていきます。また、学校内の子どもの荒廃状況とくに校内暴力も大きな問題となり、それがさらに家庭内暴力などとして社会を震撼させることとなっていきます。
こうした子どもたちの荒れた状況を改善するためとして、当時の文部省ではなく、総理府に首相直属の教育審議会として設置されたのが、臨時教育審議会(臨教審)でした。1984年のことです。臨教審はその後3年間にわたって、教育改革の方途を精力的に議論し、1987年に最終答申を出しますが、そこでは教育改革の方向性は、生涯学習社会の建設だとされました。
すでに工業社会は過ぎ去り、すべての子どもたちを均質な人間とみなして、誰にでも平等に同じ教育内容を保障して、皆同じような働き手にすることを必要とする時代は終わったというのが基本的な状況認識でした。
これからの時代は、一人ひとりが自分の必要に応じて、生涯にわたって学び続けることで、新たな価値をつくりだし続けることが求められる。そのためには自ら生涯にわたって学び続ける力をつけることが必要となる。そのための条件整備をしなければならず、学校もこれまでのような詰め込み教育から、学び続ける力をつけるような、探究的な学びの場へと組み換えられる必要があるとされました。
その基本的な考え方は、これまでのような平等主義の教育制度から個性化・自由主義の教育制度への組み換えということでした。
臨教審では、 たとえば学習塾の私学化などという極端な議論までもがなされました。そして、その裏で、日本の文化や日本人としての自覚などが強調され、個別化し、個人化して動揺する社会のあり方としての文化的な帰属が主張されもしました。制度的には、6年制中等教育や単位制高校などが議論され、さらに9月入学や大学教員の任期制までもが検討されています。
工業社会は過ぎ去り、いわゆる情報社会・大衆消費社会へと大きな転換期を迎えたという時代認識を背景として、これまでのような画一・平等から個別・自由へと価値観と制度を組み換え、日本という国の持つ文化への帰属を一方で強化しつつ、他方で個性を煽り、一人ひとりの多様な価値を創造することによる新たな社会の発展、そしてそのための学び続ける力の涵養が求められることとなったのです。
この動きは、後のゆとり教育へとつながりますし、またその考え方はコミュニティスクールや2020年度から始まった新しい学習指導要領に引き継がれています。これまでの学校教育を支えていた基本的な人間観や社会観が組み換えられ、屋台骨がぐらつき始めるのです。
そして、その後の約30年間は、この臨教審が示した個性化・自由化そして生涯学習社会化の方向と、従前のような画一的・平等で学校教育中心の教育保障体系の維持の方向という、二つの力がせめぎ合うことで、教育政策も右往左往するようになります。それはまた、ゆとり教育への批判と反批判の運動が教育政策に反映して、学校現場の混乱を招いてきたことに端的に示されています。
そしてその背後には、日本の経済社会そのものが、過去の工業社会の成功から抜け出せず、行きつ戻りつして、呻吟するなかで、長期の停滞を招いてしまうという事態がありました。
この学校の動揺は、この新型コロナウイルス禍における学校の慌てぶりと重なっています。今日、学校が右往左往しているように見えるのは、コロナ禍以前の目に見えなかった状況が顕在化しただけなのかも知れません。
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