新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
仕事・働き方
2023.07.19
1985年2月17日、岐阜県出身。フローリスト。「merry_go_round」代表。幼少期から生け花やドライフラワーの取り扱いを叔母に教わり、雑貨業界の管理職、経営企画等を経て、ドライフラワー専門店をオープン。「限りある命を永く、美しく伝えていきたい」と想いを込め、規格外の花や、廃棄される「ロスフラワー」を美しいドライフラワーに生まれ変わらせて販売する。空間装飾、装花、販売、卸等を手がけるほか、オーダーメイドのブーケやフラワーアレンジメントを販売している。
公式HP:merry_go_round by HUREY
Instagram:yujirohori
Note:merry_go_round
――堀さんが作るブーケは、どれもみずみずしくて色鮮やかさがありますよね。
ありがとうございます。「贈り色」と言っていて、贈る相手にとっての心象や、その方がこういう色にしたい、という思いをブーケに再現することを大切にしています、色はその時の感情やその人を表しやすいですし、それをお花で表現して贈ることができるといいですよね。
だから、生花と同じような色味が残るように紫外線に当てないようにして、高温多湿を避けてドライフラワーを作ることは、特に大切にしているポイントです。ドライフラワーは約3カ月で枯れ色になると言われているのですが、1〜2年経ってもきれいなままです、と言われることもあるので、それは私の強みだと思っています。
――たしかに青や黄色、紫など、生花と見間違う花も多いですね。通常は移動販売をされているんですね。
はい。全国のいろいろな農家さんとつながりを持たせていただいて、規格外のお花を扱っています。移動販売をしているのは、規格外のお花が実際はどういうものなのかということをいろいろな方に知っていただきたくて、プロモーションの意味合いも大きいですね。
――規格外というのは、お店に置けないサイズの花ということですか?
そうです。市場に出回るお花は基本的に秀、優、良とランク付けされるのですが、規格外というのは、その規格に入らず、市場には出せないもの、というのが一般的な意味です。そういう花の本数が多いほど、農家の技術が至らない、と取られてしまうこともあると思うのですが、実際には違うんです。たとえば、50本、100本の出荷が必要な場合に、その本数に満たず2、30本だと、その日に出荷しないとダメになってしまうので廃棄するんです。なので、すべてがB品というわけではなく、実際にはものすごく綺麗だけど、致し方なく捨ててしまうものも「規格外」に含まれるんです。
そういう花をドライフラワーにして、移動販売で実際に見てもらうのですが、ほとんどの方は「わからない」とおっしゃいます。それに、花びらが少し欠けていたり、虫食いにあって小さな穴が空いていたりしても、ドライフラワーにしてしまうと遜色がないんです。ですから、店頭に見にきてくださった方に、「実は規格外の花なんですよ」と声をかけて、そういう花の美しさも伝えています。
――お話をすることで、規格外の花があることを知って、SDGsに興味を持つお客さんも多そうです。 移動販売の他にも、空間装飾やワークショップ、アレンジ教室など、活動の幅が広いですね。
移動販売の比重も大きいのですが、装飾、装花を事業のメインにしています。というのも、農家が1日に100〜200本という単位で規格外の花を捨てている現状があって、装飾や装花は一回に使うお花の量が多く、その都度、綺麗に飾らせていただくことができますから。
――バリエーション豊かなアレンジメントに堀さんの技術が生かされているんですね。改めて、ドライフラワーの魅力はどんなところだと思いますか?
生花と違って、綺麗さや美しさが長く続くところは魅力だと思います。植物は「乾いた時点で枯れている」と思う方が多いと思いますが、湿度が高いときや、雨天でドライフラワーが濡れて一定量の水分を含むと、花びらが戻ったり、茎が太くなって、生花に近い状態になるんです。茶色く枯れ色になった時に初めて植物的に死んでいる状態になりますが、その間はずっと生きているんです。
そのように綺麗な状態を長く楽しめることは魅力ですが、プリザーブドフラワーやアーティフィシャルフラワーのようにその綺麗さが永遠に続くわけではなく、いずれは朽ちていくところが人間にも重なるな、と。そこが魅力でもあるし、伝えたいところでもあります。
――花の生命を永く、そして美しく」というお店のコンセプトにも重なりますね。「merry_go_round」というショップ名にも、そのような想いを込められているのでしょうか。
メリーゴーランドが「巡る」ところや、回ってまた同じ場所に戻ってくるというところが、花と合致しています。ただ農家から花を買ってドライフラワーとして販売していくことだけではなく、ドライフラワーや装花が傷んできたらチップにして土に戻して、それをまた農家さんに納めたり、腐葉土として使う循環を目指していて。そこが名前の由来になっています。
それと、「merry」と「go」と「round」の間に入れているアンダーバーが、僕が気持ち的に一番落ちた時のことを表していて。それが、事業を始めるきっかけにもなった伯母と兄の死です。今、こういう活動ができているのも花や二人のおかげなので、「故人を忘れない」という想いを込めました。
――堀さんが花に興味を持ったのは、何歳ぐらいの頃だったのですか?
うちは両親が共働きで、叔母の家に兄弟がよく預けられていたんですが、叔母が生け花をしていて、2、3歳の頃から習っていました。当時、叔母の寝室の天井一面にドライフラワーが飾ってあって、寝るときはいつも花を見ながら寝ていたので、その思い出が鮮明に残りました。夏場は扇風機の風で花が揺れてカサカサッと音がしたり、冬は色鮮やかなお花が飾られている様子を見ていたのを覚えていますし、物心ついた頃には身近に花がありました。
――小・中学生の頃もお花に興味があったんですか?
いや、その頃はむしろ花をやっていることが恥ずかしかったですね。小学生の頃はドラゴンボールとか格闘マンガがすごく流行った時代で、強い男がかっこいい、というイメージだったので、花を扱うことが弱々しい感じがして、周りにはずっと隠していました(苦笑)。どちらかというと活発な子だったので、外で遊ぶことも多かったです。
ただ、高校生の時に叔母が亡くなって、遺品整理をしていて、兄と私の思い出が詰まった伯母の部屋を片付けた時に、寝室の思い出が蘇ってきたんです。叔母は母のような存在で、マナーや生きていく上で大事なことを教えてくれたので、一緒に過ごした時間を思い出しながら花を捨てていって。その情景がすごく強く印象に残りました。
――叔母さまが残してくれた大切な記憶ですね。でも、お花の道に進むことは考えていなかったんですね。
はい。子どもの頃から活発でしたが、人を笑わせたり、喜ばせることが好きだったんです。お笑いとかコメディではないんですけどね。それに、私は常に兄の後ろをついていくような子だったんです。彼の後ろを歩いていけば間違いないと思って、小中高も一緒で、その後の専門学校も一緒で。めちゃくちゃ仲が良かったし、兄が引いてくれたレールをそのまま歩いてきたような弟でした。
それである時、兄の誕生日にネクタイをあげたんです。お礼は言われなかったのですが、翌朝、出勤の時に兄がそのネクタイをつけて颯爽と出ていく姿がすごく嬉々としていて。特に夢などはなかったのですが、その時に、人に関わることや接客をしてみたい、と漠然と思ったのを覚えています。
――微笑ましいです。大好きなお兄さんの喜ぶ姿が道しるべになったんですね。
はい。それで、専門学校を卒業した後、20歳の時に小売の企業に勤めました。総合的な雑貨や家具を扱うお店で、花も扱っていました。ただ、22歳の時に兄が急性心不全で亡くなって。それは、一番大きな転機でした。
――大好きだったお兄様も亡くされて、堀さんの中で何かが大きく変わったんですね。
はい。兄は当時25歳でしたが、葬儀の時に、150人から200人ぐらい参列したんです。それを見て、「兄が生きていたほうがよかったんじゃないか」と落ち込みましたし、「兄が生きたかった人生を僕が生きて、兄を超えていかなければいけない」と思ったんです。花は当時、趣味として続けていたのですが、職業としては考えていませんでした。その当時、勤めていた会社が雑貨業界で言うと名が知れていた会社で、小売と接客をしていたので、海外で起業すれば、兄が生きたかった人生を超えられるんじゃないか、と思ったんです。そのような使命感に駆られていたので、自分のやりたいことや夢というよりは、兄に続く道を探して、30歳の時にミャンマーに行きました。
――新たな挑戦の場所にミャンマーを選んだのはなぜだったんですか?
他の会社から声をかけてもらったことがきっかけでした。そこは建設重機を貸し出す会社だったのですが「海外に現地法人を作って小売業を始めたい」ということで、引き抜かれる形でミャンマーに行くことになったんです。
――その会社にとってはまったく違う畑での新たなチャレンジに、その道の専門でもある堀さんが抜擢されたのですね。
はい。ミャンマーはインフラが整っていないので、建築会社とか建設会社とか大手ゼネコンがたくさん入っていたのですが、サービス業が伸びていく可能性があると言われていて。その会社も現地法人を作って新しい事業を開拓していこうとしていたんです。
――海外での新生活や仕事を通じて、どのようなことを感じたんですか?
小売事業の立ち上げを進めながら、会社の本業である建設重機がどういう現場で必要なのかということや、ミャンマーの土地の状況も見ていたのですが、路上にゴミがどっさり捨てられていて、水質も悪くて水道水は飲めませんでした。ただ、インフラが整っていなくてもミャンマーの人たちはすごく楽しそうだし、幸せそうだったんです。僕は幼少期から人を笑わせるのが好きで、人の笑顔を見るのが好きだったので、日本にはないその光景や人の温かさに触れました。
なぜ、みんなこんなに幸せそうなんだろう?とよく考えていたのですが、ミャンマー人は仏教徒が多いので、毎日のように仏壇、パゴダ(寺院)に献花する文化があったんです。
しかも、月給1万円から3万円ぐらいの人でも、お花を買うことで懐が痛むとか、そんなことを全然、考えていないんです。その感覚が素晴らしいな、と思いました。そういう景色が見られたことで、花って力があるんだな、と改めて感じました。
――日本でもお花をプレゼントしたり、お供えすることはありますが、ミャンマーではもっと身近に花があったんですね。
そうですね。献花だけでなく、車が止まっているところに物売りをしている小学生ぐらいの女の子が歩いてきて、手作りの花輪を車にかけてお金をもらうんです。そうやって子供の頃から花を生活の一部として扱っていて、花市場には色とりどりの花があふれているような景色を見ました。海外もいろいろと回ったのですが、フランスは街中で花を持って歩いている人がいたり、会社帰りのスーツ姿で花束を持っている人もたくさんいて、文化の違いを感じましたね。
――会社の小売事業は順調にいったのですか?
それが……ミャンマーに行った先で、会社が「やっぱり小売はやらない」と言い出したんですよ(苦笑)。それで、その会社にいる意味がなくなったので、やめて、そのままミャンマーで起業しました。
――それは不運というか、激動でしたね。でも、そこで帰国せずに起業しようというバイタリティが素晴らしいです。
自分が大成して、兄の人生を超えたいと思っていましたから。
――どんな事業を始めたんですか?
古着のリサイクルや、日本語学校です。ミャンマーの現地で雇った方から「日本語を教えていきたい」と言われ、ミャンマーの子たちのためになるかなとも思ったので、ぜひ一緒にやっていこうと。それと、ミャンマーのお花はとても美しいので、日本に輸入できるような仕組みを作れないかと思って事業を立ち上げました。
――現地でスタッフを雇って、事業を広げていこうとしたんですね。今度は順調に行ったのですか?
最初はうまく行っていました。ただ、日本のお金をミャンマーに銀行から送金できなかったので、資金調達のために帰国しなければならなかったんです。それで、現地で社員として雇っていたスタッフに「一度帰国するから、その間、会社のことは頼むね」と念を押して仕事の内容も丁寧に説明して帰国したんですが……帰った先で、社員がみんな、仕事を放棄してやめてしまったんですよ。
――えっ! 突然、社員がみんなやめてしまったのですか?
そうなんです。電話が来て、「社長がいてくれないと難しい。もう続けられない」と言われて、みんな去っていったんです。あれだけ丁寧に説明したのに、という思いで、僕にとっては裏切られた思いがすごく強くて。精神的にもすごくきつかったです。
ただ、その理由を時間をかけて振り返りながらよく考えてみたんです。彼らにとっては月給1〜3万円が平均給与でしたが、日本語が話せるし、学校の先生もやってもらうために、日本人と同じ給料を払っていたんです。それでも続かなかったということは、彼らはお金に価値を持っていなかったんですよ。最初は受け入れられなかったのですが、「社長がいないと私たちはできない」という言葉こそが真理なんだなと思いました。
――それは、ミャンマーの人たちが限られたお給料でも花を買うことを大切にしていたことにも通じますね。
そうなんです。ただ、当時の僕にとってはお金が一つの幸せの基準でした。自分の財産を蓄えて初めて「成功」と見る人が周囲にも多かったし、兄が亡くなってからは両親に苦労をかけずに、いい暮らしをさせてあげたいという思いがあったので、そこにばかり目が行っていて。だからこそ、彼らにも「国際的に戦えるようになって、一緒にミャンマーを盛り上げよう」と言っていたのですが、彼らにとってそれは必要ではなかったし、一番大切なのはお金ではなかったんだなと。それを体感できたのは、すごく良かったと今では思えます。
――長い時間をかけて、ミャンマーの人たちの文化や価値観を体感されてきたからこそ、そういうふうに思えたのですね。でももう一度、ミャンマーに戻って会社を立て直そうとは思わなかったんですか?
友人や先輩からも戻って立て直したら?と、勧められたのですが、当時はその気力さえも起こらなかったので、会社を畳みました。
ただ、その機会に、身の回りをきれいにしようと思って、兄が亡くなってからできていなかった部屋の遺品整理をしたんです。その時、伯母の遺品を整理した思い出や、伯母と兄と一緒に、ドライフラワーに囲まれた部屋で寝たことを思い出して、「そこで幸せを受け取っていたんだな」と実感したんです。
その時に、ミャンマーの人たちが幸せそうだった理由を考えて、いろいろなことが腑に落ちました。彼らに自分の正義を押し付けていたのですが、彼らには彼らの幸せがあったし、僕は僕自身の幸せってなんだろう?と思ったときに、これまでの人生を立ち返ってみると、花があるときが一番幸せだったな、と思えたんです。
――他の人のことではなく、堀さんご自身にとっての「幸せ」を考えるようになったんですね。
はい。兄の人生を生きるのではなくて、自分が今、幸せなのかどうかということに観点を置けるようになりました。それで、それまで趣味としてやってきた花を、自分で飾って見せていきたいと思ったんです。それも大きな転機でしたね。
――花と向き合う中で、堀さんご自身の強みはどんなところに生きていると思いますか?
一番は、人のことを思いながら作れることですね。装花や装飾など、クライアントさんのリクエストに沿って作り上げるだけではなく、その空間にきた人たちがどう思うのかを常にイメージしていますし、店頭や移動先で販売するときも、既製品はなるべく作らないようにしているんです。自分にとっての幸せの原体験が人を喜ばせることだったので、「その人らしさ」を表現することを意識しながらオーダーメイドでブーケなどを作っています。そういう「人を想って作る」気持ちは、私の強みなんじゃないかなと思います。
――その花を見たら、贈る側も、贈られる側にとっても、きっと喜びが倍増しますね。これからチャレンジしたいと思っていることはありますか?
花を買わせていただくタイミングで常々農家さんと話す機会があって、一次産業がもっと隆盛していかないといけないと思っているんです。モノが生まれないと、装花もできないし活動の幅も広がらないですし、花の品質が上がらないと、色とか贈り物も成立しないので、その生み出すところは大切にしなければいけないと思っていて。
そのためにも、地方創生に取り組んで、お花を作る場所や広げていく場所を作って行きたいですね。僕の実家の方は過疎地になってきているのですが、そのように人口が減っているような場所を、花というツールを使って発展させていくイメージです。たとえば、空き家は利用価値がなければ売るか、土地としてもなくなっていくと思うのですが、お花を飾ることによって、家屋や土地に何かしらのプラスアルファを生み出したり、市や町、村全体をお花で印象づけられるような取り組みを考えています。規格外の花や、捨てられていく家が、まだ再生するんだよ、というところを、ショップ名の由来通りに巡らせていきたいと思っています。
――花で町おこしができたら素敵ですね! 最後に、堀さんのように自分の好きなことを見つけてキャリアを切り開いていくためのアドバイスをいただけますか?
僕も失敗が多い人生ですが、何事も、きっかけがあったら、やってみることが大事だと思います。やる前からリスクを考えて「こういうことが起きそうだからやらない」とか、「時間がないからできない」とか、環境のせいにすることは簡単だと思うんです。失敗なのか成功なのかはやってみないとわからないので、どんなことでもまずトライしてみて、「今日はこれをやった」と言えるようにすれば、その先に見えてくるものがあると思います。
何をやったらいいかわからないなら、手当たり次第気になったことをやっていけばいいと思います。大それたことじゃなくて、「いつも黒い洋服ばかり着るから、今日は黄色を着てみよう」とか。その結果、自分らしさを見つけたり、何かしら考えるきっかけがプラス材料になると思うので。身近なことから変えていったらいいんじゃないかなと思います。
――人を笑顔にする堀さんのドライフラワーや、今後のご活動も楽しみにしています。本日はありがとうございました!
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この記事を編集した人
ナカジマ ケイ
スポーツや文化人を中心に、国内外で取材をしてコラムなどを執筆。趣味は映画鑑賞とハーレーと盆栽。旅を通じて地域文化に触れるのが好きです。