新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
仕事・働き方
2023.04.11
1972年7月24日生まれ。東京都出身。武蔵大学卒業後にメディアの世界に入り、株式会社フロムワンでは「サッカーキング」をはじめ数多くの媒体を立ち上げた。個人ではサッカー解説者やスポーツコンサルタント、スポーツジャーナリストとして活動するなど、サッカー系メディアの最前線で活躍。2016年に『キャプテン翼』の原作者、高橋陽一先生と株式会社TSUBASAを設立し、代表取締役に就任。『キャプテン翼』のライツ業務を担当しながら、Jリーグを目指す「南葛SC」(関東サッカーリーグ)のGMとして、幅広い人脈を生かし、稲本潤一や今野泰幸ら、元代表のスター選手たちを積極的に獲得して話題に。選手のネクストキャリアやトークンを活用したクラウドファンデイングなど、斬新な経営戦略で話題作りを続ける。他にも、Fリーグ実行委員や日本パデル協会理事も務めており、さまざまなスポーツに携わる。
Twitter:岩本義弘
公式サイト:南葛SCオフィシャルサイト YouTube:南葛SC
――岩本さんはスポーツメディアの世界で長くご活躍され、今は「南葛SC」のGMの他にも様々な肩書をお持ちですよね。肩書きは全部でいくつあるんですか?
多く数えれば10個ぐらいでしょうか(笑)。ただ、その中で柱は3つあって、一つは漫画『キャプテン翼』の版権権事業をやっている株式会社ツバサのオーナー権代表取締役です。もう一つが南葛SCの代表取締役専務兼GMで、そちらは事業と強化の両方の責任者をやっています。3つ目が「REAL SPORTS」というスポーツウェブメディアの編集長です。大きい柱がその3つで、そこから派生していろいろなことをしている感じですね。
――忙しくて目が回りそうですね! それぞれのお仕事で、どんなところにやりがいを感じますか?
業界で、誰もやっていないような新たなチャレンジができるところですね。
漫画『キャプテン翼』は、作品が生まれて今年で42周年ですが、40年以上経っても、子供たちや20代、30代の選手たちが知っている世界的な作品ですし、世界中のクラブや選手、サッカー協会とコラボすることができる。そこが強みだと思っています。
その中で、これからも半永久的に読まれ続ける作品であり続けるために、国内外に戦略的にアプローチしています。最近では、「一般財団法人キャプテン翼財団」を作って子どもたちのサッカー教室を支援したり、海外挑戦する子供や学生を支援したり、講演を行ったりしています。そういう活動を通じて社会貢献をして、将来的には世界中の団体とコラボしながら、『キャプテン翼』と世界を繋げていきたいですね。
南葛SCは、東京23区出身の初のJリーグクラブを目指しているので、強化しながら事業規模を大きくしていて、サッカー専用スタジアムの建設も決まりました。土地の取得や交渉など、大変なことも多かったのですが、それも新しいチャレンジです。
「REAL SPORTS」は、他の媒体とは違って数字やPV、スポンサーバナーで稼ぐことを目的としていないので、「自分たちの伝えたいことを世の中に発信していく」ことを大切にしています。それをやれているメディアはなかなかないですからね。
――それぞれに違うやりがいとチャレンジがあるんですね。何か共通点はありますか?
自分のライフワークになっているのはインタビューと、メディアの枠組み作りですね。スポーツメディアをやっていると、選手だけでなく、スポーツやサッカーに興味がある人なら誰でも会えるのは強みです。経営者でサッカークラブのオーナーもされている方だと、楽天の三木谷浩史さん(ヴィッセル神戸)とかメルカリの小泉文明社長(鹿島アントラーズ)、サイバーエージェントの藤田晋社長(FC町田ゼルビア)などにインタビューをさせてもらい、様々な学びをいただきました。
――岩本さんは、小さい頃からスポーツの世界で活躍したいと思われていたんですか?
いや、小学校の頃は弁護士か学校の先生になりたいと思っていましたね。弁護士は「かっこいいな」というイメージで、学校の先生は、尊敬できる教師がいたからです。両親は経営者で、そんなに生活には困らない中で、学生時代は「将来、ビジネス畑を歩むのかな」と漠然と考えていました。
ーー今の仕事からは想像できませんね! どこかで、その考えに変化があったのでしょうか。
高2の時に両親が事業で失敗してしまい、自分でお金を稼いで生きていかなければいけなくなったんです。周りの生徒がみんな普通に高校生活を送っているなかで、アルバイトしながら高校や大学の学費を稼いでいました。強引に大人にさせられたような感じで、そこからちょっと人生が変わりましたね。
――新しい選択肢を模索しなければいけなくなったんですね。
はい。それで、調べたら30歳の時に年収が1番高い仕事が公認会計士だったので、大学の商学部にチャレンジしようと思ったんです。ただ、どちらにしてもお金がないから浪人することになってしまい、勉強しながら住み込みで新聞配達のアルバイトをしたんです。
その時にいろいろな人に出会えたことが、一つの転機になりました。つまらなさそうに生きている人もいたんですが、夢に向かって生きている人はすごく楽しそうで、「そういう風に生きてお金稼ぐ方法もあるんだな」と思ったんです。公認会計士だけを目指すと選択できる幅が狭くなってしまうなと。「世の中にはいっぱい面白い大人がいる。その中で自分が1番やりたいことってなんだろう?」と考え直しました。
それで、中学、高校の時から雑誌とか本が大好きだったので、活字やメディアの世界が面白そうだと思い、武蔵大学の文学部に進学しました。
――自分で学費を稼ぎながら、メディアの世界を目指して勉強も頑張ったんですか?
そうです。大学2年の時から編集プロダクションとか出版系の会社でアルバイトするようになって、就職活動の時は80社ぐらい受けました。
――それは相当な数ですね!
いろいろな会社が見られるので、就職活動は好きだったんですよ(笑)。それでいくつかの出版社から内定をいただいた中で、ゲームやスポーツなど、エンターテインメントを扱う出版社を選びました。
――決め手はなんだったのですか?
当時、意識していたのは「鶏口となるも牛後となるなかれ」というように、「大きな会社よりも小さい会社で自分を磨く」ということです 。あとは「現場をやらせてもらえる」ということが重要なポイントでした。
就職した会社は編集部が小さかったのですが、新しい週刊誌の創刊が決まっていて、学生のうちから仕事をやらせてもらえると聞いて、「いきなり週刊誌の編集者になれるなんて最高だな!」と思ったからです。
――貪欲な姿勢が感じられますね。他の会社から評価されたのも、そういうところだったのでしょうか?
そうですね。大学2年からがっつり働いていたので、「ガッツがあるな」と思われるような雰囲気はあったと思います。「つまらない人生のまま終わりたくない」という強い思いがあって、早く何者かになりたかったんですよ。
ただ、希望は編集者だったのですが、面接で最後の方まで行くと「営業が向いてる」と言われることが多くて。「SPI」という総合適性テストでも、編集より営業の適性が強く出ました。経営者になってみると営業の大事さはよくわかるんですが、当時は本や雑誌の仕事をする編集者になりたかったので、その道に進みました。
――最初の会社では、どのようなことを学んだのですか?
その会社には24歳から26歳まで2年ぐらい勤めたのですが、編集の仕事などは自分から「全部やらせてください」と言って、卒業旅行も行かずに大学4年の秋から毎日働いていましたね。当時は月に4回ぐらいしか家に帰れないようなスケジュールでした。でも、そのおかげで最初の2年間で編集の大事なところをたくさん学ばせてもらえたのは大きかったです。
毎月、社内企画みたいなのを毎月出す機会があったので、98年のフランスワールドカップに日本の初出場が決まった中でサッカーとサッカーゲームのコラボレーション雑誌企画を出したんです。そうしたら、当時人気だったサッカーゲームの影響で、創刊号が飛ぶように売れたんですよ。それで、98年の6月のワールドカップにご褒美で行かせてもらえることになりました。それが、初めての海外でのサッカーの仕事でした。
――会社にとっても飛躍のきっかけになったんですね。もともと、サッカーはお好きだったんですか?
小学生の頃からやっていたんですが、FC町田という、当時は複数のチームの選手で構成される町田市の選抜チームに選ばれていました。ただ、中学1年生の時に転校を機にやめて、その後チームを探せなくてトップレベルでプレーすることは諦めました。それでも、高校ではサッカー部でしたし、大学ではサークルに入っていました。だからプレーをするのも、試合を観るのも好きでしたね。
――転職先は、サッカー系の出版社だったんですね。
はい。転職した2社目の会社が「株式会社フロムワン」というサッカー系メディアだったのですが、人数が少なくて、最初は4人しかいなかったんです。さまざまなコンテンツを作って3年ぐらいで編集長兼取締役になって、最終的には会社を130人ぐらいの規模に拡大しました。
――たった3年で取締役! どんなふうに会社の規模を大きくしていったんですか。
メディアも時代に合わせて昔より細分化していて、サッカーファンの好みも多様化しているので、 それに合わせて媒体の数を増やしていきました。会社として「1度始めたことはできる限り続ける」というコンセプトがあって、多いときで月刊誌が4つもありました。そうやって、やるべきことをやっていたら会社が大きくなってしまったんですよ(笑)。
――経営面で、ご自身のどんな強みが活かされたと思いますか?
24歳ぐらいの頃から毎週、誰かにインタビューをしていましたし、営業でも毎日人に会っていましたから、人とコミュニケーションを取るのが好きで、物事の本質を捉えるのは得意だと思います。
たとえば営業なら、「自分がどうしてほしいか」ではなく、相手が解決したい課題や、やりたいことに対して提案をしていくんです。「相手が何を求めて、何にお金を使ってくれるのか」ということを把握して提案すれば、自然と話は進んでいきますから。インタビューも、まずは相手のことを知ることだと思っています。
ーー一見、関係ないように見えるインタビューと営業にも共通点があるんですね。サッカーの解説者もされていましたが、解説にも通じるものがありましたか?
「人との繋がり」という点では共通していますね。28歳ぐらいの時にイタリアのセリエAの専門誌の副編集長をやっていたので、リーグ戦は全試合を見ていたんです。その時のテレビ局の総合プロデューサーがフットサル仲間だったので、サッカーの話で盛り上がったり、仕事でメモしているノートを見せたりしていたら、「解説やってみる?」とチャンスをいただいて。最初は1、2試合という話でしたが、その後、シーズンを通して任せてもらえるようになりました。
――それぞれの分野でしっかりと顔を使い分けられるのは、器用じゃないと難しいですよね。
そういう意味では器用かもしれません。逆に、一つのことだけをずっとやり続けるのは飽きてしまうので得意ではないんですよね(苦笑)。
営業とか経営とかメディアとか、近いように見えて仕事内容は全然違いますし、インタビューする相手も毎回違って、いろいろな人に会えるので楽しいんですよ。
――その人脈が仕事の幅にもつながったんですね。壁にぶつかったり、逆境はなかったですか?
フロムワンでは、「2カ月で1億2000万円の利益を出さないと会社が潰れる」という瀬戸際まで追い詰められたことがあります。
その時は増刊号で当時大人気だったサッカーゲームの付録を大量につけて、それが飛ぶように売れたのでなんとかなりました。ゲーム会社に頼み込んでなんとか実現させました。あれが最大のピンチでしたが、それを乗り切ったので、大抵のことは「なんとかなる」と思えますね(笑)。
――その試練はすごいですね…。その後、『キャプテン翼』や南葛SCのクラブ経営に携わることになったのは、どのようなきっかけがあったのですか?
株式会社フロムワンには20年ぐらい勤めて、最後はオーナー兼代表取締役だったのですが、7年前にその会社を右腕に譲って、40代の半ばで株式会社TSUBASAを立ち上げました。
中小企業は100人以上になると人事の部分が大事になるので、会社を経営していくので目一杯になってしまって、現場に出てインタビューできる回数が減っていったんです。それまで現場でいろいろな人と出会ってコミュニケーションを元にビジネスを広げてきたので、そうすると会社の売り上げを作る人がいなくなってしまって。組織作りと営業の両方をこなすのはさすがに無理がありました。
当時、『キャプテン翼』のライツ事業も任せてもらっていたんですが、それも他の人に任せなければいけないぐらいの忙しさで…。 『キャプテン翼』というコンテンツを生かしきれていないことに危機感を感じたので、作者の高橋陽一先生とも相談して、会社を他の人に譲って新たに株式会社TSUBASAを立ち上げました。「やっと社長になったのに、なんで辞めるの?」と言われることもありましたけど、迷いはなかったですね。
――でも、クラブ経営は会社の経営やインタビューとはまた違った能力が求められますよね。
そうですね。でも、「門前の小僧習わぬ経を読む」じゃないですけど、20年以上サッカー雑誌でいろいろなクラブの特集を作る中で経営者やクラブの社長をインタビューしていたので、自分なりの仮説はありました。経営に正解はないけれど、「これはやってはいけない」ということがわかっていましたから。そういう意味では、クラブ経営は才能ではなく、人生の経験値が生きると思います。
――南葛SCではゼネラルマネージャーとして元日本代表やJリーグで実績を残してきた選手も多く獲得されていますが、どのようなアプローチをしているんですか?
『キャプテン翼』という世界的な作品をクラブのイメージに活用できていることで、選手たちがクラブに可能性を感じてくれることは大きいと思います。それに、稲本潤一選手や今野泰幸選手は彼らが10代の頃からインタビューして、連載を担当していた関係値がありました。もちろん、ただインタビューをしたからといって個人的な繋がりができるわけではないので、そこはやはり地道な人脈作りと関係値の積み重ねですね。
今野選手は4年間ぐらい連載をしていたんですが、2011年の東日本大震災の時には、彼がプライベートで被災地支援をするときに、手伝っていたんです。一緒に車で行って、被災地に物資を届けて子供たちとサッカーをして、何度も食事をして時間を積み重ねていくことで、選手と取材者という立場を超えて信頼関係は深まったと思います。
――1人1人との関係を大切にされているんですね。クラブ経営では、暗号資産や仮想通貨を使ってクラブを応援するクラウドファンディングや、会社が選手の就業支援を行うなどの斬新な経営も話題ですよね。
たとえば、選手が地元を大切にしているチームは応援したくなりますよね。南葛SCも、「ホームタウンの葛飾区で、応援してくれる人を増やそう」と目標を立てて選手たちが営業に回っています。
もともと、自分の中に「現役の選手がスポンサー営業に行くと成果が出やすいのではないか」という仮説があったので、選手に営業のノウハウを学んでもらって営業に行くと、やっぱり応援してくれる企業が増えたんです。
その結果、20人以上の選手社員を雇うことができました。選手を社員として雇いながら運営できているクラブは他にはないと思います。
そうやって、成功しているクラブを参考にしたり、いろいろな方と繋がっていくなかで見えてくるものから仮説を立てて実践することが多いです。
――責任の重い仕事を複数抱えている中で、キャパシティをオーバーしてしまうことはないですか?
そのバランスは取れていないかもしれませんが、やれることしかやれないので、取捨選択しながら「捨てる」勇気を持つことも大切だと思っています。そのために、全体の構造を見て冷静に判断することは心がけています。
――今後、チャレンジしたいことはありますか?
まずは、南葛SCをJリーグに上げることです。今は関東1部リーグで、J1は4つ上のカテゴリーです。しっかりと結果を残して、クラブの価値もどんどん上げていかないといけないと思っています。育成の環境をとのえたり、地元の人たちに愛されて、誰もが知っているクラブになるまでに10年はかかると思います。その10年の間にJ1に行けたら最高ですね。
もう1つは『キャプテン翼』を全世界で、半永久的に旬な作品として根付かせることです。今、ちょうど50歳なので、60歳まではそれが大きな目標です。
――最後に、夢中になれることを見つけるためのアドバイスがあればお願いします。
本当にやりたいことって、そう簡単には見つからないんですよね。だから、まずは「ちょっとやりたいこと」をいくつか見つけて、やり続けてみるといいんじゃないでしょうか。そのためには時間やお金も必要かもしれないですが、ある程度自分のリソースを注ぎ込まないと、得られるものはないと思います。そこに関して近道はないんじゃないでしょうか。ただ、何か一つのことを突き詰めることができれば、他のことにも応用が利くと思います。
キャリアに迷っているときは難しいと思いますが、自分の場合は基本的に「楽しい」を仕事にするタイプです。逆に、「楽しいことは趣味でやればいい」という人は、お金を稼ぐ方向でライフプランやキャリアプランを考えてもいいと思います。
でも、個人的には「楽しい」を仕事にしてうまくいったら最高だと思いますよ。それは、以前に比べればそこまで難しいことではなくなっているし、「楽しい」と思えることを持っている人は、それを仕事にする方法を模索したり、「楽しい」ことの近くで働いてみたりするのもいいんじゃないでしょうか。
――本日はありがとうございました!
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この記事を編集した人
ナカジマ ケイ
スポーツや文化人を中心に、国内外で取材をしてコラムなどを執筆。趣味は映画鑑賞とハーレーと盆栽。旅を通じて地域文化に触れるのが好きです。