新納一哉さん、ゲーム開発にかける想い「やりたい気持ちに、ウソをつきたくない」
2020.07.29
生活・趣味
2024.02.20
アート大福(あーと・だいふく)さん
1979年、栃木県生まれ。東京で美容関連の仕事を経て、結婚を機に山形県へ移住。こけし工人・梅木直美さんのアクセサリーをプロデュースし、自身で販売用のこけしケースを制作。それが東京のSHOPオーナーの目にとまり、2017年2月より張り子作家に。絵本や絵画からそのまま出てきたような立体物を張り子や陶土で制作。独特の世界観が支持され、店頭に並んだ作品の多くは即完売。2023年12月には新宿眼科画廊にて東京での初個展「コンニチハリコ ArtDaifuku個展」を開催。yumenoの名称でも活動を行う。お笑いトリオ「森三中」の大島美幸さんとは小学校からの親友。
公式サイト :https://www.artdaifuku.com
X(旧Twitter):https://twitter.com/daifukuyumeno
Instagram :@artdaifuku
――東京での初の個展、ご成功おめでとうございます!絵本のように不思議で可愛い作品ばかりで、見ているだけでワクワクしました。
ありがとうございます!私も楽しかったです。
――ものすごい数の作品が展示されていましたが、何点くらい作ったのでしょうか?
開催ギリギリまで作っていたので数えられなかったのですが、漆塗りの作品が176点、通常のカラフルな張り子は、2ヶ月半で500個くらいつくったと思います。
――2ヶ月半で500個も!?
追い込まれると力を発揮するタイプというか(笑)。1個もつくれない日もありますが、つくれるときは1日100個くらい平気でつくっちゃいます。アイデアがどんどん出てきて尽きることがないです。
――すごいですね。小さい作品もたくさんありますが、1つひとつ違っていますよね。
そうですね。ミニチュア作家とは言ってないですけど、チマチマしたもので、ストーリー性をつけるのが大好きで。小さいとつくるのも大変ですし、小さくする意味もないのですが、とにかく可愛いものをつくりたくて。私のつくり方は、頭の中に浮かんだものを直感的にどんどん形にしていくんです。
たとえば、これはお遍路参りの張り子です。お遍路って普通は地上でしますけど、それだと気難しいイメージになってしまうので、いっそ天上に行っても良いのではないかと。天上にお遍路に行くときのオシャレとしてキノコを描いて、天上世界にもキノコが生えていても良いかなと思って。
これは、カッパが「リンゴに硬いパンを噛ませれば、口を開いたままだから、リンゴの中でバカンスができる」と思ったものの、パンを噛ませすぎてバカンスができなくなってしまった…という連続したお話をイメージしていますけど、みんなに伝えたら誰にも理解されませんでした(笑)。
――あはは。どの作品も可愛いですが、個人的なイチオシは、もふもふした耳の怪獣でした。
この子、人気でした!うさぎちゃんのモンスターです。私はうさぎちゃんをつくることが多いのですが、このときは作業部屋が寒かったんです。だから耳に暖かいものを巻いています(笑)。
――うさぎだったのですね(笑)。でも歯や爪も生えていて、ちょっと怖いかんじもありますよね。
そうですね。張り子は基本的に縁起物なので、地域を代表する鳥とか獣とか、あるいは招き猫とかだるまみたいな可愛らしいモチーフが多いですけど、私はバケモノもチャーミングに思ってしまうタイプで。バケモノは人から理解されるのに時間がかかるので、最初は「歯があるぞ、怖い〜」と感じるかもしれないのですが、「よくよく見たら可愛くなってきちゃったな〜」と、後からじわじわ来てもらえたら嬉しいなって。私自身も少し変わっていたからか、よくバケモノと言われていましたし(笑)。
絵本や昔話では「山に鬼がいて怖いけど、実は優しい鬼」とわかるのは物語の終盤ではないですか。私はそれを終盤にしたくないというか、「いい子だよ」と早めにわかるようにしたくて。このうさちゃんも怖いような気はしますけど、チャーミングなモンスターです。よく見ると可愛いですよね?
――可愛いです(笑)。大福さんが特に気に入っている作品は?
つくったものは、すべてお気に入りなので選べないんですよね…。うーん、たとえばハートちゃんとか。私はアイデアを思いついたら何も描かずにどんどんつくり始めちゃうんですけど、これは最初にイラストを描いて、同じ形の張り子をつくった初めての作品です。
目もハートになっているのは、「好き」を表していて。たとえば、わんちゃんとか猫ちゃん、お子さんを可愛いと思ったら、その人の瞳はそれしか見えなくなりますよね。目もその子になるし、匂いを嗅ぎたいと思ったら鼻もその子になる。骨まで愛したい。そんな気持ちも込められています。たとえば、この「Crazy Heart」と同じ表現しているのが、四角い犬の「Pero」(ペロ)ですね。
ペロちゃん大好きで(笑)。個展の納期がどんどん迫ってきて辛かったときに、ペロの顔を見たら辛くなくなったんですよ。笑っちゃって。作品は辛いときも笑わせる力があるのだと思いました。
――作品づくりで、いつも大切にしていることは?
最初に私の作品を「絵本みたい」って言ってくださいましたよね。その言葉、すごく嬉しかったんです。私は「作品1つで絵本」みたいな表現ができたらなと思っていて、いつもそれを心がけています。
もう1つは、とにかく可愛いもの。さっきのうさぎちゃんのモンスターみたいに“私が思う可愛さ”にはなってしまいますが、可愛さはとても大切にしています。
それから、くすっと笑えるもの。見てくれた人に、笑って楽しい気持ちになってほしい。だから性的描写とか暴力的なものとか、誰かの心を傷つけたり、悲しませるような作品にはしないように気をつけています。平和に争わず、優しい気持ちになって、幸せな世の中になってほしい。「何がなんだかわからなかったけど、面白かったね」と言ってもらえるような作品をいつも目指しています。
私の場合ですが、張り子は楽しい気持ちになったり、自分を鼓舞してくれたり、ひとりぼっちのときに話しかけたくなる相棒だと思うんです。パートナーに元気がなかったら、自分も元気がなくなってしまいます。私の作品をパートナーにしてくれた方には、みなさん幸せでいてほしいんですよね。
だから名前も「アート大福」なんです(笑)。言霊じゃないですけど、口から発する言葉は身体にも影響があると思うのですよね。たとえば私の名前が「ダークネス」だったら、それを口にしたら、その人も暗くなってしまうかもしれない。「大福さん、大福さん」と口にしていれば、大きな福がやってくるかもしれない。なので「アート大福」という名前に恥じない福々しい作品づくりを目指しています。
――これまでの歩みも聞かせてください。子どもの頃から何かをつくるのが好きだったのですか?
大嫌いでした(笑)。絵を描くことも、勉強も、運動することも全然うまくいかなくて。絵本をつくるという授業があったときも、どうしても描きたくなくて、描きかけの絵を焼却炉で燃やしたこともあったくらいです。みんなが絵を描いている中で1人だけ何もしないで、ただ授業中に座っていました。なんでそんなことをしたのか、自分でもよくわからないですけど、好きなものは何もなかったです。
――部活は何を?
小学校はソフトボール、中学校はバスケットボールでした。でも、ものすごい田舎にある生徒が少ない学校だったので、帰宅部が禁止になっていたから仕方なく入っていただけで、小学校でも中学校でも補欠でした。高校は美術部でしたが、先生がやる気なくて、絵も教えてくれなくて。なぜか文鎮をつくれって言われて、鉛で文鎮をつくったりしていました。
――それが創作活動の原点になった?
それはないです(笑)。本当に何も考えていないというか、ものをつくる仕事をしてみたいと思ったこともなかったです。高校卒業後は、山野美容専門学校という美容師の学校に行って美容師になりました。このときは、自分がきれいになりたかったんだと思います。ただキラキラしたかったのかも。
あと、親友の「森三中」の大島美幸ちゃんが高校卒業後に吉本興業に入ったんですよ。もう1人の親友も服飾の学校に入ったので、私が美幸ちゃんの髪をやって、もう1人の親友が服をつくるみたいな淡い夢を抱いていたのですが、全然違くなりました(笑)。
――大島さんは、いつからのお友達だったのですか?
小中高です。一緒に東京に出てきて、もう1人の親友と3人で仲が良くて、今でも会っています。美幸ちゃんは、今回の個展の下見にも付き合ってくれて、ロケ帰りでとても忙しいのに個展の最終日にも見に来てくれました。
――素敵な関係ですね。では、東京ではずっと美容師を?
向いてなかったので、すぐに辞めて、その後はダンサーさんの髪を編むドレッドヘアの仕事を単発でして、それも飽きて、化粧品メーカーの仕事をして、それも辞めて、下着の仕事をして、それも辞めて、足つぼの仕事をして、そこで美容関係の仕事をしていた夫と出会って、結婚。夫の仕事の都合で東北の地に来ました。なので、いろいろやりましたが、つくる仕事は一個もしてないです(笑)。
――では、どんなきっかけで張り子作家になったのでしょうか?
山形に来てからも、何も考えていなくて。知り合いもいないし、ただの主婦みたいなかんじで、ただ漠然と暮らしていましたが、私は蒐集癖があって、こけし、民芸品、作家の人形など、とにかく集めるのが大好きで。あるとき、自分の好きなこけしでアクセサリーをつくれないかなと思って、いろいろな工人さんに電話をかけてみたら、山形在住のこけし工人・梅木直美さんが話を聞いてくださって。
それで梅木さんのこけしでアクセサリーをつくらせていただいて、それを入れる箱を探したのですが、その方の作品に似合う可愛い箱がなかなか見つからなくて。すごい人気の工人さんでしたし、私はその方を崇めていたので「だったら自分で作ってみよう」という発想で作ったのが張り子の箱でした。ぱかっと開けたらこけしが見えるマトリョーシカみたいな箱を、見よう見まねでつくってみました。
――本当にまったくの独学からスタートされたんですね。
そうなんです。とにかくやってみようと。ただ、商品としてつくってみたものの販売については何も考えていなかったので、まずは通販からスタートして、今後どうしようかなと思っていたときに、親友の大島美幸ちゃんが古今東西雑貨店イリアスという東京の谷中にあるお店を紹介してくれて。厳密にいうと、オーナーに連絡はしたものの、2人で急に押しかけたようなものだったのですが(笑)。
オーナーさんに箱を見せたら「形がユニークで面白いからミニ個展をしてみない?」と言われまして。「張り子の箱だから、お正月シーズンにちょうどいいんじゃない?」って。
雑貨店の一角で行う本当に小さな個展でしたが、お正月まで2〜3ヶ月。準備期間がそれしかなかったら、普通はやらない人の方が多いと思います。でもなぜか根拠のない自信が出てきて「やれない、ということが嫌なので、やります」と言ったんです。やりますと言っちゃったからには、やらないといけないし、1個や2個じゃつまらないから、100個くらい張り子をつくって並べました。
――たった2〜3ヶ月で100個も!?
売れる・売れないはともかく、たくさんあったほうが面白いかなって(笑)。「できない自分」より「できた自分」でいたかったので、できて良かったです。これが張り子作家としての始まりでした。
――では、そのミニ個展をきっかけに、どんどん作品をつくるように?
そうですね。「面白いね」と言ってくれた人もいましたし、売れなかったとしても燃え尽きたいから、「言われたものは何でもやります」「お仕事の依頼があればやります」みたいなかんじで、断ることはしたことがなかったです。企画展の参加に声をかけていただいたり、どこかで私の張り子を買って「可愛いかったから取り引きしたいです」と言っていただいたり、とにかくありがたい声ばかりでした。
――いきなり売れっ子になってしまったわけですね。
全然そんなことないです!取引してくれるお店あってこそ。お店にファンが多い取引先に置いてもらえて、そのお店の人が「いい」とお勧めしてくれているってことはあったと思うんですけど、売れっ子と思ったことは一度もないです。この世界には、手の届かないスターみたいな方がたくさんいますから。それでも、どこで見つけてくれたのか、本当に偶然、ほかにも人気作家さんがたくさんいる中で、私みたいな変わり種に声をかけてくださる方もいますので、ご縁を感じながら感謝の気持ちでずっと納品してきました。
作家活動を始めて今年で7年目。張り子だけでなく、陶器、水墨画、アクリル画、あと職人さんとのコラボレート作品、たとえば創業300年の漆器専門のお店「本家 長門屋」さんとの漆の張り子だったり、山形市で90年続く表具店「秋葉春光堂」さんとの掛け軸だったりいろいろと自由につくらせていただいています。漆の作品の桐箱は、昭和5年創業の「有限会社よしだ」さんにフルオーダーですし。いろいろな方々に支えられて楽しい気持ちで制作ができています。
――すごく不思議なのですが、なぜまったく未経験から独学で始めて、いきなり張り子作家として活躍し、独創的な作品を次々に生み出せるようになったのでしょうか?
アイデアに関しては、小学校のときの体験が大きいかもしれないです。好きなものは何もなかったとお話しましたけど、1つだけずっとやっていたことがあって。図書室の本を全部見るってことをやっていたんです。図書室といっても、すごい田舎のめちゃめちゃ生徒が少ない学校だったので、教室の一角が本の部屋みたいになっていただけですけど、そこの本を端から全部見ることを目標にして学校に行っていました。漢字も読めないから、とりあえず絵だけ見ることを6年間ずっと続けていて。
最初は『ファーブル昆虫記』みたいなイラストがある本から始めて、すごく難しい本まで、とにかく全部見ました。そのときに見たイラストとかイメージの残像が多少なりともずっと頭の中に残っているので、今こういうものをつくれているのは、そのおかげかなと思っているんです。字の読めない難しい本が続いた後に、オバケとか妖怪とかが出てくると「面白いの来た!」ってテンションの上がり方が異常でしたから。
――どうして図書室の本を全部読もうと思ったんです?
他に趣味がなかったからだと思うんですけど、「やってみよう」と思ったことに対して「やらない」という選択肢がわからなくて。幼少期の頃からずっとそうでした。
たとえば、電気のコードをハサミで切ったらどうなるか気になって、本当に切って、感電しそうになったこともありました。危ないので絶対に真似しないでくださいね。とにかく気になったこと、やりたいと思ったことをやらずに済ますことが嫌いだったみたいです。
――「やってみたい」と思ったら、とにかく「やってみる」。
はい。やったことがなくても、張り子の箱をつくってみる。2〜3ヶ月で100個とか500個つくるのも、やってみる。だから「やってみない」より「やってみる」を突きつめ続けてきたからですかね。 やってみたいと思ったら、自分で見て、触って、感じてみる。とにかく体験して楽しかったことを積んでいく。「やれない」じゃなく「やってみる」。私の作品を見て楽しんでいただけているのは、自分がある程度いろんなことをやってきたのを見せられているからじゃないかなって思っています。
――いろいろな仕事を経験されてきたのも「やらない」より「やってみよう」と。
ですね。それで30代後半になってこの仕事を始めて気づきました。「これは私に向いているな」って。売れる・売れないとかではなく、好きな仕事だなって。いちばん好きなことを仕事にしたら良くないと言われますけど、いちばん好きです。
仕事として始めたのは、2017年2月14日のバレンタインデー。そこからずっとつくり続けています。いろんな仕事をしてきましたが、いちばん長くやっているのがこの仕事ですね。
――作家活動をされるようになって、良かったこと、大変なことは?
頭の中にあるものがカタチになることが、とにかく素晴らしいなって。空想とか夢とかが現実になっているようなものじゃないですか。それが楽しくて生きています。産みの苦しみってよく言われますけど、私はそれがほぼなくて。いつも楽しくて微笑みながらつくっているので、実は作家になってから大変だと思ったことがないんです。あるとしたら納期だけ(笑)。欲しい人全員に商品を届けたくて、作り続けて身体を壊したことがあるので、そこは気をつけないといけないなって思っています。
――すべて独学だったことは、いかがですか?
ルールがない世界で生きられるので楽しいです。「張り子は紙じゃなきゃダメ」とか、そういう決まりもあるのですが、私はすべて独学だったので漆塗りとコラボしたり金属を使ったりして自由につくっています。「張り子ってこういうもの」と固定したイメージにとらわれるより、ちょっとヘタクソだったり、崩れているほうが「私もできるかも」とか「やってみたい」と思ってもらえる気がするんです。
私は見てくれた人に「やりたい」と思ってもらうことが自分の役割かなと思っていて。だからカラフルな色を使ったり、通常だと作らないような形にしたり、もふもふをつけたりしているんですよね。
うまく言えないのですが、子どもでも大人でも、何かを「やりたい」という気持ちを年齢や時間に関係なく持っていてほしいなと思うんですよね。
――それは、張り子に限らず?
そうです。要は何でも好きなことを楽しくやってほしいなって。伝統工芸の方や昔からやられている人が「崩す」のは、私はかなり勇気がいることだと思っています。その点、私は自由なので変えることができる。いろんな職人さんとコラボさせていただいているのも夢があるなと思っていて。そんなことは「できない」と思う人が多い中で、「できる」にしていくことが私の仕事の1つかなと思っています。
――では、ものづくりや作家活動をしたい人たちに何かアドバイスするとしたら?
まずはつくることですよね。何でもいいからつくって、SNSでもブログでもいいから発信してほしい。30代、40代になると「この年だから」とか「自分にはできない」とか「学校に行けないから」と思いがちですけど、やった者勝ちですから、やりたくなったら、やってみてほしいなと思います。
そして、自画自賛できるものを目指してほしいです。「つくっても誰も気にいってくれないかも」とか「誰も買ってくれないかも」と想像したときに、その子たち(作品)の味方になってあげられるのは自分だけじゃないですか。だから私、自分の満足度はすごく大事にしています。
何かをつくって発表したり、プロを目指すのなら、何よりも孤独との戦いになります。誰からも褒められないし、SNSにあげてもリアクションがそんなにないかもしれない。ニーズがわからない中で生きていかなくてはいけないので、メンタルだけは強くしておかないと。なので、やるだけやったら「自分よくやった!」と、とにかく自分を褒めてあげてほしいですね。あとは健康。心も体も健康でいないと手が止まります。美味しいごはんをいっぱい食べて寝てください(笑)。
――とにかくまずは、自分が満足できるものをつくる。
ですね。たとえば「スシテング」って作品は、ただの寿司じゃなくて、イクラが天狗になっていますが、3貫のうち1貫は特別仕様になっていて。普通、張り子は型をつくり、紙を張り、下地をつけて着色していきます。でも3貫のうち1貫は、米粒の張り子とイクラの張り子を1粒1粒つくって、それを海苔のようにした紙で巻いています。つまり、無数の張り子がびっしり中に詰まっているんです。
――え〜っ!? それってすごく大変なことでは…?
大変です(笑)。しかも切ってみないとわからないし、知っているのは私だけ。ただの自己満足だし、すごい無駄な努力なんですけど、楽しそう、面白そう、可愛い、やってみたいと思ったら、どんなに面倒くさくても手間を惜しまずやってしまいます。何十年、何百年後に、この張り子が崩れて、中から無数の米粒やイクラがわらわら出てきたら楽しいなって。そういう無駄が大好きで愛しています。
――効率よりも満足度。それはすごく大事なことかもしれませんね。今後の夢や目標は?
絵本をつくってみたいです。物語をつくるのは得意ではないので、本当は誰かとユニットとか組めたらいいんですけど、まだ力がないので、とりあえず自分でやって、物語を描きたいとか文章をつくりたいって人が出てきてくれたらいいなと思っています。このまま張り子もつくっていきたいですし、小学生のときには燃やしてしまいましたが、絵にも力を入れていきたい。カタチにこだわらず、今後も可愛いもの、楽しくなるもの、笑えるものをつくり続けていきたいです。
いろんな芸術家さんやアーティストさんがいますけど、私の仕事は「楽しませること」じゃないかなって。私の作品を買ってくれたお客さんの旦那さんも買い始め、お子さんも欲しいと言い始め、家族で集め始めました、って方が結構いらっしゃるんですよ。「あまり会話がなかったのですが、同じ趣味があることによって会話が弾むようになりました」とか、聞いててほっこりしちゃうんですよ(笑)。
――最高ですね!
最高ですよね!だから「あ、そっか、可愛いものって周りの人を巻き込む力があるんだ」と思って。“みんなが思う可愛い”は、私にはできないけど、“私が思う可愛い”は徹底していこう、全力で表現していこうと思っています。こんな作家を応援してくれる方がいることがすごく嬉しいので、お客さんのことを第一に考え、1人でもファンの方がいてくださる限り、創作活動はずっと続けていきたいですね。
★アート大福さんの作品をもっと見たい方はこちら!
コンニチハリコ ArtDaifuku個展
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この記事を編集した人
タニタ・シュンタロウ
求人メディアの編集者を経て、フリーランスとして活動中。著書に『スローワーク、はじめました。』(主婦と生活社)など。
生活・趣味
2024.01.9
阿佐美やいも子(あさみや・いもこ)さん
埼玉県出身。「いも子のやきいも」店主。パート調理師から一念発起して、リヤカーで焼き芋屋さんを開業。介護、出産、育児に取り組みながら18年、月商100万円を売り上げる「焼き芋界のカリスマ」として毎年テレビなど多数のメディアから取材を受ける。現在は、夏は焼き芋、冬は人力かき氷を販売する傍ら、焼き芋屋開業講座や、営業ブランディングを確立する「芋づる式に夢を叶えるブランディング講座」を開催。2023年には初の著書『いも子さんのお仕事 夢をかなえる焼き芋屋さん』(みらいパブリッシング)を上梓。
公式HP:焼き芋 阿佐美や
X(旧Twitter):@asamiyainfo
Instagram:asamiya.imoice
Facebook:いも子のやきいも阿佐美や
――初のご著書『いも子さんのお仕事 夢をかなえる焼き芋屋さん』を拝見しました。つらく苦しい日々が続いても、勇気を出して一歩踏み出せば、人生が変わることもあるんだと涙ぐんでしまいました。
ありがとうございます、嬉しいです!
――まずは現在の活動について聞かせてください。冬は焼き芋屋さん、夏は人力かき氷、自分でお店をやりたい人を支援する「やきいも開業学校」など、さまざまな活動をしているそうですね。
ワクワクしてもらいたい、びっくりしてもらいたい、喜んでもらいたい。そういう想いで、いろんなことをやっています。店舗の焼き芋屋さんはたくさんありますけど、最近は移動販売の焼き芋屋さんはあまり見かけませんよね。今まで何もなかった場所に、ふらっと焼き芋屋さんが現れる。そういうノスタルジックな感じだったり、ファンタジーを感じてほしくて移動販売をしています。かき氷も、ただ機械で作るんじゃなくて、「人力発電の自転車をこぐ」という、ちょっと一手間を加えて楽しんでほしいなと思って始めました。
――焼き芋は、いろんな品種を用意して、食べ比べもできるそうですね。
今の世の中は、甘いもので溢れていますよね。甘いお芋も美味しいんですけど、私は甘いだけが焼き芋の魅力じゃないと思っていて。「あんまり甘くないけど、風味がいいなぁ」とか「香ばしい感じがいいなぁ」とか「甘くてしっとりもいいけど、ホクホクもいいなぁ」とか、そういう想いも伝えたくて。焼き芋の枠を広げて、皆さんにワクワクしたり、びっくりしたり、喜んでいただけたらなって。
なので2種類の焼き芋を用意して「しっとりとホクホク、どちらがお好きですか」とお客様に尋ねたり、食べ比べセットも用意して、その人が好きなお芋を食べていただけるようにしています。
また、農薬を減らして作った皮まで美味しいお芋とか、見た目は悪いけど味がいい焼き芋も置いています。農薬を減らしてつくると形もバラバラだし売りにくいんですけど、農薬や化学肥料を使わないことに挑戦している農家さんを応援したくて。味が深いとか、身体にいいお芋も売っていきたいなって。
――「やきいも開業学校」は、全国から応募が殺到していて、東京新聞の記事によると、今まで相談に乗った方は2000人を超えるとか。
今はもっと増えていますね。焼き芋屋さんを開業した人も50人を超えました。どちらにお住まいですか?
――長野県の松本市です。
えっ! 松本にも開業学校の生徒さんがいて、私も行きました!「焼き芋 みつや」というお店で、お子さんが3人いるママなんですけど、シングルで。周りからは「シングルになって焼き芋屋をやるなんてどういうこと?」と大反対されたんですけど、頑張ってやっています。ファンも増えていて、すごいんですよ!
――ぜひ行ってみます!焼き芋屋さんの輪が全国に広がっているのですね。
焼き芋屋さんは、開店のハードルがすごく低いんですよ。私もそうでしたけど、自分でお店をやりたいと思っても、お金もないし、料理も自信ないし、資格もないし、いきなりお金を借りて開業するのは怖い…ってなる人がたくさんいます。だけど焼き芋屋さんだったら、店舗はいらないし、資格もいらない。メニューも焼き芋だけ。だから私でもできたんです。
私は子どもの頃から自己肯定感がものすごく低くて、「自分はダメな人間だ」と思ってずっと生きていました。開業してからも失敗の連続でしたけど、18年間やってこられて、今はとても幸せです。そんな私だからこそ教えられることがあるかもしれないと思って、いろんな人たちの相談に乗っています。
――今は幸せというお話でしたが、子どもの頃からずっとつらく苦しい日々を送ってきたそうですね。お父さんはアルコール依存症、お母さんは聴覚障がいがあったりして……。
だから、すごいネガティブだったんですよ。うちはお風呂もなくて。30〜40年前とはいえ当時もお風呂がない家はそんなになかったんですけど、大家さんがたまたま同級生で、そっちは大きいおうちで、お金持ち。おじいちゃん、おばあちゃんもいて、すごく幸せそうな家族で。片やうちは、お父さんとお母さんがいつも喧嘩していて、お風呂もないから、たらいで身体を洗ったり、お風呂屋さんに行ったりする日々で。
父は昭和一桁生まれの職人で、「喧嘩して辞めてきた」といっては仕事を転々。お酒を飲んで大声を出したり暴れたり。小さいアパートだったので母が「近所迷惑だからやめて」と言っても「うるさい!」と怒鳴って。母も母でADHD(注意欠如・多動症)だったので、部屋がいつも散らかっていて。父が出勤するときに「あれがない、これがない」と騒いで、結局見つからなくて母を殴ったり。そんな毎日でした。
私は、そういうのがすごくつらくて。だけど、子どもだからどうすることもできなくて。「お母さんを助けられないダメな自分」という思いがいつも根底にあったので、学校に行っても、すぐに人に合わせたりして、「あいつ、いつも人に合わせてる」と言われて、いじめられたり。友だちができても、仲間外れにされたり。そんな学生時代だったので、社会人になってもうまく人と付き合うことができませんでした。
――当時は、どんな将来を思い描いていたのですか?
親がそういうかんじだったので、幸せな将来なんて無理だろうと思っていました。小さい頃は『ザ・ベストテン』を見てアイドルに憧れたり、看護婦さんになりたいと思ったりしましたけど、「現実的には無理だろうな」とわかっていたので、最初からあきらめていました。
あと、母が聴覚障がいだったので、いつも大きな声で話していたら、担任の先生から「あなたは声が大きいから演劇部に入りなさい」と言われて小中高と9年間、演劇をやっていて。そのときに「自分は表現するのが好きなんだな」と思って、将来は役者になりたいと思ったこともありましたけど、そんなに上手でもなかったし、「顔がダメだな」と気づいてすぐに打ち砕かれました。
――そして19歳のときに、ご両親が勤めていた工場が倒産。再就職もうまくいかず、「自分が養っていくしかない」と決意されたそうですね。10代の子には、とてもつらい状況ですよね。
いつか自分が両親の面倒を見なくてはいけない。そういう覚悟は、小さい頃からあったんですよ。それがいつ来るか、いつ来るか、と思いながらずっと生きてきたので、両親の仕事があるだけでもありがたいと思っていたんですけど、それがなくなって「とうとう来たか」と。
なので、ショックはショックでしたけど、「それが今だったか」みたいな感じでしたね。自分の人生はあきらめていましたし、自分には先はないと思っていたので。
――その後は、両親を養うために職を転々とされたそうですね。
子どもの頃から自己肯定感が低かったので、生きていてもしょうがないと思っていましたけど、両親がいるので働くしかない。そんな生活が28歳くらいまで続いて、社員食堂でパートの調理師をしていました。月収は12万円。もう自分の人生はあきらめていましたし、死んでしまおうぐらいに思っていました。
唯一の幸せな時間は、可愛いカフェに行って「こういうお店ができたらいいなぁ」と妄想すること。嫌なことばかりの毎日だったので、「座り心地のいいソファ、暖かい色の照明、おしゃれなドリンクやデザート、日替わりランチも用意して…」なんて夢を思い描いて現実逃避していました。
だけど現実的に考えると、料理の実力もセンスもないし、経営能力もない。何よりお金がない。夢を描いたところで現実は何も変わらない。そう思ったら何もかもが嫌になって、社員食堂も辞めてしまいました。
――ところが、社員食堂を辞めて職業訓練学校に通っているときに、運命を変える本に出会った。
そうなんです。無職になったのですることもないし失業保険はもらえているので時間だけはあって、フラフラっと古本屋さんに立ち寄って、たまたま「移動販売で開業」という本を手に取ったんです。
昔、キッチンカーをやってみたいと思っていた時期があって。私は車の免許はあるけど運転ができなかったので無理だとあきらめていたんですけど、その本に「焼き芋」のページがあって。読んでみると「資格なし・許可なし・低コスト」と書いてある。「これだ!」と思いました。
焼き芋屋さんだったら、料理の腕やセンスがなくても、お芋だけ焼ければいい。1人でやればシフトも組まなくていいし、日替わりランチを考えなくてもいい。車の運転ができなくてもリヤカーでいい。何より開業資金がそんなにかからない。カフェやキッチンカーは無理でも、これならできそうって。
――夢が一気に広がった?
ワクワクしました。焼き芋屋さんは小さい頃から憧れだったんです。毎年、秋にはサザエさんが追いかけているし、お母さんにお願いしてももちろん買ってくれなかったので、高校生のときに憧れの焼き芋屋さんを見つけてアルバイト代で買ったことがあったんですけど、高かったのに美味しくなくて……。
そのショックがすごく記憶に残っていたので、「私だったらこんなお店にしたい」というイメージがバーッと広がって。もっと美味しくて、買いやすくて、可愛くて、みんなのいい思い出になるお店にしたい。そんな自分が思い描いたものを表現したくなって、「そうだ、焼き芋屋さんをやろう!」と。
――どんな行動から始めたのですか?
まずはネットで調べて、始めたばかりのSNSで「私、焼き芋屋をやります!」とつぶやきました。そしたらフォロワーの人たちも盛り上がって、いろんな知識を出してくれて。翌朝、職業学校の人たちにも伝えたら、みんな面白がって「じゃあデザインするよ」とか「売り子を手伝うよ」と言ってくれて。とにかくやれることをやろうと思って、可愛いリヤカーを買って、3ヶ月後にはオープンしました。
だけど、何のノウハウも知らずに始めてしまったので、開業してからは大失敗の連続(笑)。軌道に乗るまで10年くらいかかってしまいましたが、このときに「やる」と決めたことは今でも良かったと思っています。自分の人生をあきらめていた私が、勇気を出して一歩踏み出すことができた。「やる」と決意できたから、いろんなことが動き出しました。
――「大切なのは、決断すること」と本にも書いてましたね。
そうです。やると決めたら、どんどん後押しするものがやってきます。それが後押しだと最初は気づかないかもしれないし、失敗することもあるかもしれません。それでも、それをいい方向に改善していくことで、自分だけの成功の道につながっていくのかなって思います。
――ご著書にはたくさんの失敗が書いてありましたが、特に印象に残っているのはどんなことでした?
いちばんショックだったのは、美味しくないと言われてしまったこと。リヤカーは可愛く作れましたが、美味しくないというのが大問題で。お客さんから「美味しくない、美味しくない」と言われて、本当に辛かったです。美味しいお芋を届けたくて始めたはずなのに、美味しくないなんて本当に恥ずかしくて……。
私も当時は、焼き芋の正解がわからなくて。あんまり食べたこともなかったし、もともと調理師だったので、焼いて竹串が通れば火が通っていると判断して「甘いし、こんなものかな」みたいな感覚だったんですけど、いろんな人から「美味しくない」と言われて。最初は親切にしてくれたお客さんから「あなたのお芋はまずいから二度と来ないでちょうだい」と言われたこともあって、泣きそうになりました。
――それはショックですよね…。どのように改善していったのでしょうか?
このままじゃまずいと思って、美味しい焼き芋の研究を始めました。すると、お芋の品質が大事だとわかってきました。最初は何も知らなかったので「市場で相談するといい」と本に書いてあったので、その通りに市場で勧められたお芋を買っていたんですけど、それがたまたまあんまりいいお芋じゃなかったんですよ。
焼き方も大事で、適切な温度と適切な時間でちゃんと焼き上げないと、カサカサだったり、焼き過ぎだったり、青臭さが残ってしまうんですけど、そもそも最初に買った壺焼きの装置が不良品で…。あと、焼き上がってから出すまでの時間も大事とか、いろんなことがわかってきました。
――失敗談をSNSに書いていたら、いろんな人が応援してくれるようになったそうですね。
そうです、そうです。お客さんに「美味しくない」と言われたとか、「こんな失敗をした」と書いていたら、「うちの会社で焼き芋大会をやったときはこんな風にやったよ」「〇〇のお芋は美味しいって話を聞いたよ」と、SNSで知り合った人たちが相談に乗ってくれて、応援してくれるようになって。
昔、『電車男』ってありましたよね。モテない男の人の初デートをインターネット掲示板の人たちがみんなで応援するっていう。私の場合は、「美味しくないダメな焼き芋屋さんをどうやって売れるようにするか」みたいなプロジェクトになっていって、私、電車男みたいだなって思いました(笑)。
――お客さんから仕入れ先を紹介されたこともあったとか。
そうなんです。「焼き芋は塩水に漬けるといい」という話を聞いて、その通りにしていたら、お客さんから「なんでこんなにしょっぱいんだ!」と怒られてしまって。だけど、そのお客さんが「こんなに美味しくないんだったら、いい仕入れ先を教えてあげるよ」といって、あるマーケットを紹介してくださって。それから仕入れ先もちゃんと考えるようになりました。
――人力かき氷も、小学生にアドバイスされて始めたそうですね。
バッテリーの充電が切れてしまって暗い中で営業していたら、通りがかった子に「暗い中でボーッとしてるなら人力発電で電気をつけてみろよ」って言われて。今思えば単にからかわれただけだと思うんですけど、「もしできたら夢があるな」とずっと頭に残っていて、思わぬヒット商品が生まれました(笑)。
私はいつも自分に自信がなかったので、子どもの頃から他人の意見に左右されてばかりいたんですけど、焼き芋屋さんを始めてからは、その良い面というか、人の話を素直に聞くから、いろんなことを教えてもらえるようになったのかなって思えるようになりました。
――いろいろな失敗があっても、どうして諦めなかったのでしょうか?
最初は失敗ばかりしていたので「やめたい、やめたい」と思っていたんですけど、お金もないのにリヤカーを買っちゃった以上、もうやるしかない。で、いろんな失敗談をSNSに書いていたら、励ましの声や改善点のアドバイスをいただけたので、その1個でもいいからやってみようと思ったんです。
「教えてもらったマーケットに行った」とか、結果的には失敗でしたけど「今日は塩水に漬けた」とか、今日のテーマはこれみたいなかんじで、それが1個でもできたら「良かった」と思うことにして。SNSに書くと、また励ましや助言をしてくれる人たちがいて。こんなにダメダメな焼き芋屋さんでも応援してくれる人がいた。そういう人たちに「もっと美味しいものを食べてもらいたい」って。
自分1人だったら、つらくてやめちゃったかもしれないけど、お客さんがいる。待っててくれる人が1人でもいるなら、その人が今日も来てくれるかもしれない。だから重いリヤカーを引っ張って…足取りも重かったんですけど(笑)、「あの人が今日も来てくれるかもしれない」と思ったら頑張ることができました。
――焼き芋屋さんをやって良かったと思うのは、どんなことですか?
いっぱいあります。たとえば最近だと、今まで引きこもりだった人が私の活動を知って「人生を変える」と言って焼き芋屋さんを始めたり、小学生が「将来の夢は焼き芋屋さんになることです」って作文を書いてくれたり、そういう人がいっぱいいることも嬉しいですし、自分の活動が広がっているのも嬉しい。
自分自身がただ楽しみたくて、家族を幸せにしたくてやっていることに対して、より深く感じて人生を変えるほど共感してくれる人がいたり、応援してくれる人がいることも嬉しいですし、自分が表現したかった世界が広がっていることにもすごく幸せを感じます。
――焼き芋屋さんを始めたら、ご両親との関係も変わったそうですね。
そうです、そうです。私は思春期の頃から両親のことが大嫌いだったんですよ。「なんでこんな家に生んだんだ」って。大人になってからも、両親とも無職だったのでデイサービスに行くように勧めても、ずっと家に引きこもっていて。母は買い物、父はオートレースに行くくらいで何もしてなくて。
だけど、あるとき閃いたんです。私が焼き芋屋さんを開業したら両親に手伝ってもらおう。父には炭を焼いてもらって、母にはお芋を洗ったり、袋を折ってもらって、お給料を出したらいいんじゃないかなって。
で、実際にそうしたら、父はずっと働くだけの人生だったから「仕事」となったら、すごいちゃんとやってくれて。それまで「酒を飲んで暴れるお父さん」しか知らなかったんですけど、仕事をお願いしたら本当にきっちりやってくれて、全然違う一面を知りました。一方、優しかったはずの母は「お芋を洗っておいてね」と言ってもやってくれなかったり、すごい言い訳したりして「え〜っ!?」となって(笑)。
子どもの頃は、父が怒って母を殴っているのを見て「なんてひどいことをするんだろう」と思っていたんですけど、母も「それは怒るよね」ってことをするのがわかって、殴るのは良くないけど、父は父で理由があったんだろうなって察することができました。母は母で、かわいそうなだけじゃなくて、自分ってものをしっかり持っていて主張することもわかった。だから2人は合わなくて喧嘩していたんだなって。焼き芋屋さんを始めてから、やっと両親のことを理解できるようになりました。
――それは素晴らしいですね。
家族で共通の話題ができたのも初めてだったんです。夜の食卓のとき、父が「明日は何時に火をつけるんだ」、母は「お芋はどれくらい洗っておくの?」とか話していて、「こんな会話したことなかったな」って。両親の今まで知らなかった人間らしさを感じましたし、初めて家族の団結感が生まれました。
私が焼き芋屋さんみたいなレトロでノスタルジックなものに惹かれるのも、お風呂がないボロボロの家で育ったからだと思うし、「自分には先がない」と思っていたから「焼き芋屋さんをやろう」と思えたんだろうなって。挫折をしていなかったら、思い切った決断をできなかった気がするので、ああいう両親から生まれたから今の自分があるんだろうなって思います。
父も母も亡くなりましたが、今は本当に感謝しています。焼き芋屋さんを始めて良かった、自分の人生をあきらめなくて良かったです。
――昔のいも子さんのように、何かをやりたくても、できない人もたくさんいると思います。一歩踏み出すためのアドバイスをいただけますか?
何も考えず、やればいいと思います。いろんなことを考えるから、できなくなってしまうと思うんです。私もそういうことがいっぱいあって。たとえば「海外で焼き芋屋さんをやりたい」と思っても「でもこんなことがあったらどうしよう」とか考え出すと、なかなか一歩を踏み出すことができない。
本当に「やりたい」と思ったら、すぐにできるはずなんですよ。だからそれまでは「やりたい」のエネルギーを溜めている期間だと考えて、そういうときが来るまで待っていればいいと思います。
私が焼き芋屋さんを始めることができたのも、そういうタイミングが来たから。「でも…」と考えてしまうのは、それが今じゃないから。そのときまでは「やらないの? 遅いね」と言われたとしても、今じゃないんですよ。自分のタイミングで「今だ」ってときが降りてきます。
もしどうしても踏み出せなかったら、今はエネルギーを溜めているときだと思って、「今だ」というときが来るのをイメージする。「そのときに私は動ける」と思っておく。動けない自分がダメなんじゃなくて、今はタイミングを見ているだけ。「来たらできる」と思って、来たら、やる。そのときが来ますから。
――開業学校でも、迷ってしまう人はいますか?
いますね。「旦那さんに相談しないと決められない」とか「誰かに聞いてみないと」って。そういう人には「自分で決めてくださいね」と言っています。だいたいみんな反対されるんですよ。奥さんがいきなり「焼き芋屋さんをやる」と言い出したら、やっぱり「えーっ?」となりますよね。でも、やると決めたら、協力してくれたり、なんだかんだうまくいくと思うんです。
私も19歳のとき、両親が勤めていた会社が倒産してどうしようと思っていたら、友だちから「でもなんだかんだいって、最後は幸せな家庭を築いてそうだよね」と言われて「絶対ない!」と思ったんです。これだけ今までつらかったのに、これから先どうなるかもわからないのに、幸せな家庭なんてあり得ないって。
でも「なんだかんだ最後は幸せな家庭を築いてそうだよね」と言われたことはずっと覚えていて、「私はなんだかんだ最後はうまくいくんだ」と自分を信じていたので、そのタイミングが来たんだと思うんですよ。だから、そう思っていたら、いいと思います。きっとベストなタイミングが来ますから。
――それでは最後に、今後の夢や目標は?
小学校の学区に1つ、子どもが自分で行ける範囲に焼き芋屋さんがある国にしたい。それが私の夢です。昔は個人店が多かったから、「あの人は魚屋さん」とか「お肉屋さん」とか、いろんな大人がいて、会社に勤めるだけじゃない働き方があることを子どもたちも実感しやすかったと思うんですよ。
でもうちの子どもが小学校で「うちのお母さんは焼き芋屋の社長なんだよ」って話をしたら、みんな「えーっ」とすごくびっくりしたみたいで、そういう働き方もあるってことを知らないんだなと思ったんです。
自分の特技を活かせば、レールに乗って高校や大学に行かなくても社長になれるよ、楽しいよ、お金も稼げるよ。そういうことを伝えて、子どもたちの将来の選択肢を増やしたい。昔は当たり前にあった個人店の世界を残したい、もっと広げたい。それは私1人ではできないから、開業学校を始めたんです。
もちろん最初からそんな壮大なことを考えていたわけではなくて、もともとは自分の子どもが中学生、高校生になったときに、学校の近くに焼き芋屋さんがなかったら「親が焼き芋屋なんて大丈夫?」と周りの人に思われるかもしれないから「すごくステキな仕事なんだよ」と知ってほしいと思って始めたんですけど、開業講座を始めたら本当に全国各地に焼き芋屋さんが増えてきました。
私が教えられるのは焼き芋屋さんだけですけど、焼き芋はすごいポテンシャルがある素晴らしい食べ物だと思っていて。美味しいだけじゃなくて、その人の想いとか人生も詰まっていて、大袈裟にいうと世界平和にもつながると私は思っているんです。
誰かと一緒に食べると幸せとか、懐かしい気持ちになれるとか、子どもの頃にお母さんと食べた優しい気持ちになれるとか、焼き芋はそういう気持ちを呼び起こすので、相手のことを認めたり、自分のことを認めたりできるんじゃないかなって。だから焼き芋屋さんを増やしていきたい。
焼き芋屋さんに限らず、大人が幸せそうに働いていて、子どもが「こういう仕事もあるんだ」と、その人の個性を活かして自由に働いている姿が増える世の中になったらいいなと思っているので、これからもいろいろなことをやっていきたいです。
――今後のご活躍も楽しみにしています。本日はありがとうございました!
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この記事を編集した人
タニタ・シュンタロウ
求人メディアの編集者を経て、フリーランスとして活動中。著書に『スローワーク、はじめました。』(主婦と生活社)など。
仕事・働き方
2023.12.20
1997年9月4日、滋賀県出身。7歳の時にアイスショーを見てフィギュアスケートをはじめ、小学6年生で3回転ジャンプ5種類をマスターするなど才能を発揮したが、中学1年生の時に「大腿骨すべり症」と診断され、治療のために2年間競技生活を休養。2012年に競技復帰後はトップレベルの選手たちと切磋琢磨して頭角を現し、2013-14シーズンの全日本選手権では8位になり新人賞を受賞。大学進学後はカナダに2年間拠点を移して国際大会で活躍を続けたが、2018年4月に引退を発表した。カナダで指導を受けたコーチの影響で振付師を目指し、引退後は振付師に転身。同志社大学大学院スポーツ健康科学研究科に通いながら、年間30〜40人の振り付けを担当している。
公式X:Mariko Kihara
Instagram:木原万莉子
――木原さんは2018年に20歳で現役引退されましたが、振付師に転身されてからはどのようなペースで活動をされているのですか?
振付師になって6年目ですが、今は同志社大学大学院のスポーツ健康科学研究科に在籍して学びながら、フィギュアスケートの振付師として活動をしています。現役時代は苦しいことの方が多かったのですが、今は毎日がすごく楽しいですね。振り付けは完全に一人でやっていて、オファーをいただいて振り付けをさせていただく形で活動をしています。
――ご自身が表現者として氷の上に立っていた時とは違う楽しさは、どんなところに感じていますか?
振付をした後に、選手のお母さん方や選手やコーチから「万莉子先生に振り付けしていただいて点数があがりました!」とか、「このプログラムは評判がいいんですよ」などと声をかけていただくことがあるのですが、それは一番の喜びですし、見ていたお客さんに喜んでいただけるのも嬉しいです。
――頭の中にある振り付けのイメージを他の選手が表現するという点では、細部のニュアンスの伝え方などが難しそうですよね。
そうですね。同じ振付をしても選手によって表現は大きく変わってくるので、それが振付師として難しいところでもあり、楽しさでもあります。
――表現の幅を広げるために意識されていることはありますか?
もともと劇団四季とかブロードウェイミュージカルが大好きで、現役の時からたくさん見に行っていたんです。振付師の活動を始めた当初は探り探りでやっていたのですが、5年目にもなると自分の課題もわかってきて、最近はいろいろな試合の他の人のプログラムを見ながら違う刺激をもらって、自分らしい振り付けとあまりしたことのない動きを結び付けて振り付けを考えていく形の方が成長できると感じています。
――昨年引退を発表し、プロスケーターに転向した宮原知子選手とは現役時代、良きライバルで引退後もSNSなどで交流があることが伝わってきますが、トップレベルで活躍するスケーター選手たちから刺激を受けることもありますか?
それはありますね。フィギュアスケートも時代とともにさまざまなことが少しずつ変化して、ルールも変わっているので、最前線で活躍するスケーターたちに話や意見を聞いて、「今はこういう表現が評価されるんだな」と、学ぶことができています。
――選手と振付師の両方の立場を経験された木原さんから、フィギュアスケートを見る時のポイントや魅力について教えていただけますか?
人それぞれ違った視点でフィギュアスケートを楽しんでもらえたらいいと思っていますが、最近はジャンプを何回転飛べたかとか、女子だと「足がこれだけ上がる」とか、そういうわかりやすい技術や見方が取り上げられやすい傾向があります。芸術面が半々で評価される競技ですし、フィギュアスケートは自由に演技できる競技でもあるので、そういうところが魅力だと感じています。同じ「オペラ座の怪人」でもプログラムによってまったく違うものになったり、「こういった表現もあるんだ」っていうところを見ていただくと楽しいかなと思います。
――木原さんは7歳の時にフィギュアスケートを始めたそうですが、どのようなことがきっかけだったのですか?
私が小学校1年生の時にたまたま大津プリンスホテルのアイスショーの広告をみた母から観に行ってみない?と誘われ観に行ったことがきっかけでした。その頃はまだ、日本でも今ほどフィギュアスケートが有名ではない時代だったので、私の母もこんなに時間とお金がかかるスポーツだとは知らず、初めは驚いたと言っていました(笑)。ただ、スケートを始めた頃は上達も早く、楽しそうに滑っている私を見て「続けさせたい」という気持ちがあったようで気づいたらスケート中心の生活になっていました。
父は私がやりたいことをやらせたいと思っていたと聞きました。兄も野球をずっとしていて、スポーツに力を入れていたので、私もそのままフィギュアスケートを続けることができました。
――練習には、楽しみながら通っていたのですか?
それが、実は “練習嫌い”な性格だったんです(笑)。小学校の時から、毎週木曜日が練習オフの日だったのですが、木曜日になると嬉しくて仕方がなかったですね(笑)。
――そうだったんですか! その中で上を目指し続けることができた原動力はどんなことだったのですか?
もともと負けず嫌いな性格だったのですが、小学校の時は「どんなことでも負けたくない」という感じで、小学生の頃は大会ではいつも上位だったので、勝つことや成績を残すことに喜びを感じていました。「練習は好きではないけれど、試合で勝ちたい」というモチベーションでした(笑)。
――ここぞという場面での集中力がすごかったのですね。小学6年生で3回転ジャンプ5種類をマスターされたそうですが、どんなことが習得の秘訣だったのですか?
練習自体は好きではなかったけれど、小学校のころからかなり練習はしていました。小学校の時から練習のために早退と遅刻をしながら競技に打ち込んでいましたし、両親やコーチも厳しかったのでスケートの上達も早かったのかなと思います。
――木原さんは将来を期待されながら、中学生の時に「大腿(だいたい)骨頭すべり症」と診断されて、競技から2年間離脱を余儀なくされました。アスリートにケガはつきものだと思いますが、木原さんの場合は3万人に1人と言われる難病だったそうですね。当時のことをどのように記憶されていますか?
当時はまだ幼かったこともあって、最初はあまり実感がなかったんです。坂道ダッシュのトレーニングをしていた時に左の股関節に違和感を覚えて、「おかしいな」と思ったら日に日に歩けなくなっていって。ちょうどその頃に小学生の子たちが行く全国有望新人発掘合宿があったので、「とにかく練習に行かないと」という思いで痛み止めの注射を打って行くこともあったんです。ただ、それも効かないぐらいに歩けなくなってしまって。通っていた病院では原因がわからなかったのですが、ある先生が見つけてくださって、「すぐに手術しましょう」という形になりました。
ただ、一番大変だったのは復帰してからで、本当に何もできなくなってしまっていたことでした。練習を再開してから1年間、試合に出られなかった時期は悔しくて悔しくて仕方がなかったのを覚えています。
――いろいろな不安があったと思いますが、リハビリ中は「復帰してまた頂点を目指したい」という気持ちは変わらずに持ち続けていたのですか?
その思いは持っていました。ただ、実際に復帰してからは、もともとできていたはずのトリプルジャンプがダブルですらできなくなってしまったので、「本当に戻れるのかな」という不安はすごくありました。
――その時期を乗り越えたことで、自分の中で何か変化はありましたか?
負けたくないという気持ちが強かったのですが、病気になってからそれが少しやわらいだと思いますし、性格も変わったと思います。いい捉え方をしたら柔軟になったと言えるのかもしれないですけど、勝負強さはちょっと弱まってしまったかなと。
――それでも復帰後、本格的に競技復帰してからは2013年と2014年の全日本選手権で入賞、浅田真央選手や宮原知子選手と一緒に出場した2015年GPシリーズNHK杯では10位と結果を残されていますね。当時はどのようなことを目標にしていたのですか?
今振り返れば「自分頑張ったな」と思えるのですが、16歳、17歳、18歳あたりは精神的にかなりきつい時期だったので正直「毎日やめたい」と思いながら取り組んでいました。高校に入ると勉強が厳しくなって、競技で成績も残さなきゃいけないプレッシャーやストレスから、反動がきてしまったんです。体重管理も厳しく、スケートのコーチも厳しく、学校に行けば友達はいるのですが、早退や遅刻をしながら通っていたので、自分の居場所がなくなってしまった感じで。学校でスケートのことを理解してもらえるわけではないし、スケートのチームにも同年代の選手がすごく少なくなっていた時期だったので、自分の居場所がない辛さがありました。
――それだけ重なるとすごくキツかったですよね……。どんなことが心の支えになっていたのでしょうか。
「競技をやめたい」「所属していたチームをやめたい」という気持ちが強かったのですが、両親が「高校まで頑張れば海外に行くことを考えてもいいから、高校までは頑張りなさい」と言ってくれたので、自分の中で「高校までは今の環境で頑張ろう」という思いになれました。それで、大学に進学してから、休学してカナダに拠点を移しました。
――カナダで生活しながらスケートをされていたんですよね。海外での競技生活ではどのような変化がありましたか?
すべてが変わりましたね。当時はスケートの練習をして陸上トレーニングに行ってダンスして、というスケート中心の生活を2年間送りました。それまでにも毎年、2週間から1カ月ぐらいは夏休みに海外に練習に行くことがあったので海外生活に不安はなかったですし、とにかく環境を変えられた喜びが大きかったです。
――新しい環境で、出会いや心境の変化はありましたか?
そうですね。サブのコーチも含めて5人ほどいたんですけど、私が精神的にダウンしている時に行ったので、その姿を見てコーチ全員が常に励ましてくれるという環境にガラッと変わりました。「あなたは上手なんだから大丈夫。こんなにできるんだから!」という感じでコーチたちがいつも励ましてくれたんです。それまで、褒められるということがほぼなかったので、褒められ慣れていなくて、毎日驚いていました。カナダで過ごした2年間で、フィギュアスケートだけではなく自分自身も変われたかなと思います。
――2017年12月の全日本フィギュアスケート選手権で15位に入り、翌年4月に引退されました。引退後のお仕事については決めていたんですか?
もともと先のことを決めておきたい性格なので、高校の途中から「大学に行ったら2年間でやめよう」と決めて、その最後の1年は、「フィギュアスケートをやめたら大学に復学して、振り付けがしたい」と考えていました。それができるかできないか、どうなるかは分からないかもしれないですけど、ある程度先のことを決めてから前に進みたいので、不安はなかったですね。
――振付師になりたいと思うきっかけはどんなことだったのですか?
小学生の頃から、家で曲をかけて自分で振り付けをして踊っていたんです。振付がもともと好きで、練習中に友達のプログラムの練習を見ていて、「私やったらこうやって振り付けするのに」とか(笑)。そういうことを小学校の時から無意識的に思っていたんです。ただ、高校の時にスケートをやめたいという気持ちになっていたので、引退したらスケートに関わることはないと思っていたのですが、「振付師になりたい」と思ったきっかけは、カナダで振り付けをしてくれていたジュリー・マルコットコーチでした。彼女の指導は情熱的で、教えてもらいながら「私は昔、振り付けするのが好きだったな」と思い出させてもらったんです。それで、引退すると決めたラスト1年の時に「引退したら振り付けがしたい」と思い、勉強するようになりました。
――他の仕事に興味はなかったのですか?
振り付けをしたり、踊ることが本当に好きだったので迷いはなかったですね。両親から「自分の好きなことを仕事にできるような人は少ないよ」と言ってもらえたので、それも決断のきっかけになりました。
――実際に振り付けの仕事をやり始めて大変だったことはありますか?
「力不足だな」と思ったり、「もっと勉強しないといけないな」と思うことはもちろんありますが、仕事が大変だと感じたことは一度もないですね。今後は他のことに挑戦することもあるかもしれませんが、振り付けの仕事は好きなので、ずっと続けていきたいと思っています。
――同志社大学大学院では女性アスリートの三主徴(利用可能エネルギー不足、運動性無月経、骨粗鬆症)について研究しているそうですね。研究が振り付けに生きることはありますか?
直接的に振り付けに生きることはあまりないのですが、女子のスケーターの選手から相談されることがあって、月経の問題だったり、選手のお母様からも「最近思春期で太っちゃって、どうしたらいいですか?」と相談をされることがあるので、そういった時に的確なアドバイスができているかなと思っています。
――振精神面などでも、選手の相談に乗ることはあるのですか?
そうですね。やっぱり私も体型の変化だったり、月経の問題だったり、メンタルがやられてしまったり、という経験が現役時代にあったので、そういう気持ちに共感してあげて、少しでもアドバイスできるようになれたらなと思っています。
――木原さんのように、興味があることや自分が夢中になれることを仕事にするためのアドバイスをいただけますか?
好きなことを探すってすごく難しいと思いますし、私もスケート以外であるかと言われたら悩んでしまいます。ただ、振付師の世界に入る時には「失敗してもいいから、とにかくやってみよう」という感じで始めたんです。だから、まずは何でもやってみてから考えたらいいんじゃないかな?と思っています。向いていないと思えばそこから悩めばいいし、とにかくやってみないと始まらないですから。私も、今後は「新しいことにもチャレンジしてみたいな」と思っています。
――新しいことを始めるのには時間もエネルギーも必要ですが、それでも新しいことをやろうと木原さんが思えるのは、どんなことが原動力になっていますか?
もともとすごくネガティブだったんですけど、最近、ポジティブ思考に変わってきたんです。何かにチャレンジして失敗したとしても、「私に合わなかったものは合わないんだからしょうがないな」って思えるようになったというか。その中で、自分の中でやる気が出たり、やりたいと思うことに出会えた時がいいタイミングなんじゃないかなと。大人になってから大学に入り直したという方もいますし、何歳になってもチャレンジはできると思っています。
――最後に、振付師としての目標を教えてください。
今は選手を支える立場なのであまり自分自身の目標というのはないのですが、どんな選手であっても、その選手にとっていいプログラムを作りたいですし、「万莉子先生に頼んで良かった」と思ってもらえるプログラムを作りたいと思っています。
――ありがとうございました。今後も木原さんが手がけた素敵なプログラムを見られるのを楽しみにしています!
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この記事を編集した人
ナカジマ ケイ
スポーツや文化人を中心に、国内外で取材をしてコラムなどを執筆。趣味は映画鑑賞とハーレーと盆栽。旅を通じて地域文化に触れるのが好きです。
生活・趣味
2023.12.14
エサさん
1989年生まれ。岐阜県羽島市出身。名前の由来は、エキサイティングの略。会社員をしながら日本全国の珍しい建築や喫茶店、寺院、日常の“珍百景”などをSNSやブログで紹介。年間400以上の珍スポ巡りを行い、これまで行った珍スポットは2000を超える。2023年9月には、長野県松本市の「実家カフェ」にて自身初となる県外での個展「珍トピア」を開催。
X(旧Twitter):@meat_stew
HP:エサトピア
撮影協力:実家カフェ
――エサさんの珍スポットを紹介しているSNS、とても面白いですね!今日は珍スポ巡りの魅力や、エサさんの「やる気」の源などについて伺えたらと思っています。
ありがとうございます!こんな怪しいアカウントが取材を受けるのも大変恐縮ですが、ぜひ協力させていただけると幸いです(笑)。
――では、まずは「珍スポトラベラー」としての活動について教えてください。
日本各地の珍スポットを旅して、特に印象に残った場所を紹介する活動をしています。珍スポットと一言でいっても、ちょっと不思議な資料館や博物館だったり、喫茶店や温泉、変わったものを祀っている神社、あと路上にある変なものだったり、いろんな種類があります。
珍スポットというと熱海秘宝館のような昭和のテーマパークみたいなものをイメージされる方が多いと思うんですけど、私は「ちょっと普通とは違う面白い場所」は全部珍スポットだと思っていて「面白い」「変わっている」と感じたら、とにかくすべて回っています。
基本的な活動は、珍スポ巡りで撮った写真や記録をSNSに投稿しているだけですが、地元の岐阜県内のギャラリーカフェで展示をしたり、今年9月には長野家松本市の実家カフェというお店で「珍トピア」という個展を開いて、トークイベントなどもやらせていただきました。
ちなみに「珍トピア」というのは、珍スポットとユートピアを掛け合わせた思いつきで作った造語になります。個人的にはとっても気に入っています(笑)。
――「珍トピア」もとても楽しかったです!珍スポ巡りはいつから始めたのでしょうか?
2016年くらいから始めて、2020年から自分の記録としてSNSに投稿するようになりました。2021年には、より詳しく紹介するために「エサマニア」というHPもつくりました。
最近はちゃんと数えられてないんですけど、訪れた珍スポットは7年間で2000を超えました。北は北海道から南は九州まで46都道府県に行っていて、残るは沖縄だけです(笑)。
――それはすごいですね!特に印象に残っている珍スポットは?
たくさんありますが、1つは「天空の村・かかしの里」ですね。徳島県三好市にある名頃地区は、標高800mにある住民が40名ほどしかいない限界集落です。そんな小さな村ですが、なんと住民より多い300体のカカシが至るところにいるんですよ。
すごい山の中にあるので行くのも大変だったんですけど、誰もいない田舎道を車で走っていると、畑に人が見えたり、リアカーを引いている人がいたりして、「急に人が多くなってきたな」と思ったら、よく見ると全部カカシでした(笑)。
ここは四国を旅しているときに地域の方から教えていただいたのですが、この集落出身の人形作家の方が今でも新しいカカシを作り続けているそうです。珍スポットでもあるし、限界集落であることを活用した観光資源にもなっていて、素敵な村おこしだと思いました。
――面白いだけでなく、ちゃんと意味もあるのですね。他には?
「大迫牛乳店」も忘れられません。私はかわいい建物が大好きなので、いろいろ調べている中でたまたま見つけて、この建物を見るために広島まで行きました。
――でかっ(笑)!これは観光スポットなのでしょうか?
観光スポットではなくて、普通の牛乳屋さんなんです。牛乳パックの形をした建物がかわいいですよね。遠くから眺めると、より異様さが引き立ちます(笑)。
あと、静岡県の浜松市に行ったときに、こんな青看板があったんです。
――月まで3km? 宇宙センターでもあるんですか?
「月」というのは地名なんです。矢印が上を向いているので、何も知らずにこの看板だけを見ると、このまま月まで行けちゃいそうな気がしますよね(笑)。
――本当にいろんな種類の珍スポットがあるんですね。
そうなんです。珍スポ巡りをするときは、ある程度調べて行くんですけど、実際に目にすると「うわっ本当にあったー!」って嬉しさがあるんです。普通の観光では得られないような発見があることや、人との触れ合いが珍スポ巡りの楽しさですね。
ただ、働きながら行っているので、限られた休日でいかに効率よく回るかを考えたり、できるだけ費用を安く抑えたりする工夫も必要です。雪深いところだったり、山深いところに行ったときは、それぞれの土地土地の大変さの洗礼を受けたりすることもあります(笑)。
――珍スポ巡りを始めたのは、どんなきっかけだったのですか?
友人と熱海・伊豆を旅行した際、「熱海秘宝館」と「まぼろし博覧会」に出会ったことでした。熱海秘宝館は、“秘宝”を見て楽しむ、ちょっとレトロな大人のためのテーマパークです。熱海の観光地で回れるところはないかなと調べて、本当にたまたま行ったのですが、今はないような昭和の雰囲気とかユーモア、ギラギラした世界観に衝撃を受けました(笑)。
そして、伊豆を通ったときにバスからたまたま見えたのが「まぼろし博覧会」です。「あれは何だろう」と気になって後日改めて訪れたことが珍スポにハマるきっかけになりました。
まぼろし博覧会は、“キモカワイイ パラダイス”をコンセプトにした私設テーマパークです。広大な敷地には昭和レトロな品々や巨大なオブジェ、マネキン、動物の剥製など、館長のセーラちゃんが自ら収集した骨董品やアンダーグラウンドな芸術作品、今は亡きテーマパークから譲り受けたものなどがひしめきあい、カオスな空間が創り上げられていました(笑)。
――どんなところに惹かれたのでしょう?
何があるのかわからなくて怖いかんじがして、入るのをためらうんですけど、それでもちょっと見てみたくなる。そういう冒険心をくすぐられる雰囲気にすごく惹かれました。
館長のセーラちゃんも、見た目は変わっていますが、実は出版社の社長さんで、お話しするとすごく真面目な方なんです。皆さんを楽しませたいという想いで、懐かしの品々を収集していた方の遺品や閉館した珍スポットの展示物を引き受けて、こういう場所をつくったそうです。
「こんな場所にもっと行ってみたい!」と思って、いろいろ調べていくうちに珍スポットというものの存在を知りました。そこからですね、本格的に珍スポットにハマったのは。
私はもともとGoogleマップを見るのが好きだったので、珍スポットを探しては手当たり次第にピンを立て、まずはモチベーションを高めることから始めました(笑)。
――珍スポ巡りをするために、車も購入したとか?
最初は近場の珍スポットから行くようになったんですけど、珍スポットは駅から遠かったり、山奥にあったりするので、教習所に通って、2018年には車も買って。最初は通勤のためにとも思っていたのですが、車を購入したら圧倒的に効率よく珍スポ巡りができるようになって、気づけば年間400以上の珍スポットに行くようになっていました(笑)。
――SNSを始めたのは?
珍スポ巡りを始めてから、たくさん写真を撮ったり、記録をするようになったので、自分の中だけだと貯めちゃうだけなので、4年目くらいからメモ帳代わりに投稿を始めました。
最初は見てくれる人がすごく少なかったのですが、毎日続けているうちに少しずつ増えてきて。たまにバズった投稿があるとボンと増えたりして。去年投稿した爆速で回る理容室のサインポールの動画はすごくバズって、ニュースとかでも紹介していただきました(笑)。
――速っ(笑)! 今ではフォロワーが1万人近くまで増えていますね。
こんなにいろいろな人にフォローしてもらえるとは思わなかったので、びっくりです(笑)。
結構いろんな方から私の投稿を見て「ここに行きました」「旅行に参考にしています」とか、そういう話やリプライを貰えるようになって、すごく嬉しいです。
――これまでの歩みも聞かせてください。珍スポにハマる前は、何が好きだったのですか?
それが特になかったんです。中学・高校では部活に入ったこともなくて。子どもの頃はゲームとかマンガが好きで、将来はそういう仕事に就いてみたいとも思っていましたが、好きなことを仕事にする勇気が持てないまま、普通に会社に入って、普通に大人になって。
――今はどんなお仕事を?
製造業で生産管理の仕事をしています。この職業を選んだのも、正直に言うと、そこまで深い理由はなくて…。珍スポ巡りを始めるまでは、普通に仕事をして、それなりに楽しみを見つけて、うまく息抜きをしてやれたらいいな、みたいなかんじで暮らしていました。
でもやっぱり仕事に対して「しんどいな」と思うことはあって…。いろんな珍スポットに行くようになったのは、普通に「楽しみたい」という気持ちもあったんですけど、最初の1年間くらいは「日常生活から逃げられる」みたいな逃避行感覚が強かったです。
――珍スポットに行けば、日常を忘れられる?
そうですね。なので最初は友だちを誘って一緒に行ったりしていたのですが、「ここにも行きたい」「あそこにも行きたい」という気持ちがどんどん高まってきて。1人なら「今週行きたい」と思ったときでもすぐに行けるし、自分の好きなように計画できます。
だんだん1人で行くようになって、今はほとんど毎週1人で日本各地の珍スポ巡りをしています。全国のいろんな場所を旅するので、その土地の名物を食べたりすることもありますが、食事も珍スポットでしていることが多いです(笑)。
――人生で初めて夢中になったものが珍スポットだった?
そうなんです(笑)。それまでも、ちょこちょこいろんなものに手を出したりはしていたのですが、ここまで深くハマって、長続きしたものはなかったです。
――それほど深く珍スポットに魅了された理由は、何だったのでしょう?
珍スポットに行くだけでも楽しいのですが、話を聞くと、どうしてそれが珍スポットになったのか、その種明かしが聞けたりするので、そういう謎解きの過程もすごく楽しくて。ウケを狙ってやっている方もいれば、地元を元気づけるために面白いものをつくっている方もいます。
たとえば、福島県にある「原田楽園」は、招き猫や金の卵、神社、お地蔵様などがごちゃまぜになっていて、よくわからない世界観の超個性的な公園です(笑)。
でも実は、丸や運送という会社の社長さんが震災からの復興を祈願してつくられたそうです。
そういう話を聞くと「すごいな」って思うんですよね。
珍スポットをつくっている方も、実はいろんな想いでつくられていることが多いんです。最初は「ただ変なおじさんがつくっているのかな」と思っていたのですが、それだけではない理由を知ることができるのが、珍スポ巡りの魅力の1つですね。
珍スポットってちょっと荒削りなところもあったりするんですけど、そういうところも含めて、その人の想いが伝わってくるようなかんじがするのが、すごく好きです。
――7年間で2000以上もの珍スポットに行くのは、ものすごい情熱だと思います。SNSの反響が少なかったりして、モチベーションが下がったりすることはありませんでした?
それはなかったです。SNSに投稿しても反響が少ないことはたくさんありますが、私はもともと自分のためだけにやっていたので、あまり反響がなくても気にせず、ただただ毎日、淡々と続けていました(笑)。
ただ、やる気をもらったという意味では、展示は大きかったです。今回、長野で開催した「珍トピア」は、私にとって4回目の個展で、それまでの3回は地元の岐阜でやっていたんです。地元なら知り合いが来てきてくれる可能性がありますが、長野にはあまり知り合いもいません。
初めて県外でやった個展だったので「誰も来てくれなかったら悲しすぎる…」とドキドキしていましたが、いろんな方に来ていただけて。「いつも見ています」とか「旅行の参考にしています」と声をかけていただいたりして、わざわざ長野まで来てくださった方もいました。
トークイベントにも、いろんな方に来ていただけて。いろんなジャンルの珍スポットを紹介したら「珍スポットの概念が変わりました」とか「街歩きの新しい視点をもらいました」というお声をいただけたりして、すごく嬉しかったです。
今までずっと自分のためだけにやっていたのですが、いろんなところに見てくださっている方がいることを実感できて、やっぱりモチベーションが上がりました。
――この個展のために『ニッポン珍紀行 珍トピア』という本も作られたんですよね。
はい。日本には、まだまだ面白いところがたくさんあるので、それを知ってほしいという想いでつくりました。この本では約30の珍スポットを紹介していて、好奇心がかきたてられるような場所を中心に選びました。
――夢を見るための宿泊施設とか、空気を御神体にしている神社とか、不気味な目みたいな駅とか、どれもインパクトがありました(笑)。
どれもすごいですよね(笑)。私の推しは「ピラミッド元氣温泉」です。ここの館長さんは長年ピラミッドを研究されていて、ここはピラミッドパワーと那須の温泉の効能を融合させた夢の施設なのだそうです。泉質もピカイチですが、怪しさも満点で大好きです!
この本は、今は展示会で売っているだけですが、これからネット通販やコミケみたいな即売会に出たりして、いろいろな人に見てもらえる機会を増やしていきたいです。
――仕事以外の趣味に打ち込むことで、生活がどのように変わりました?
毎日が楽しくなったのはもちろんですが、珍スポ巡りで得たスキルが意外と役に立っていて、仕事も上手くいくようになりました。
珍スポ巡りは、珍スポットを楽しむのと同時に、行き先のリサーチやプラン立てなど、すべて自分の責任でやらないといけません。「ここはなんでこうなったんだろう」と疑問に思っても、普通の観光地と違ってガイドの人が教えてくれるわけでもありません。
行きたい場所がたくさんあるので、効率よく回れるように計画を立てたり、せっかく遠くまで来たのに何も知らずに帰ってくるのはちょっと悔しいので、自分から人に話しかけて、積極的に話を聞くようになって。こういうスキルって、今の仕事にもすごく活かせるんですよ。
どんな職業もそうだと思いますけど、段取り力や計画力、行動力、コミュニケーション力って大事ですよね。生産管理の仕事は、受注から出荷まですべての工程を見ないといけません。珍スポ巡りで得たスキルを活かして、効率よく段取りを組んだり、いろんな工程の方に積極的に声をかけて最後まで見届けることがしっかりできるようになりました。
最初は仕事や日常生活からの逃避行的なかんじで珍スポ巡りを始めたのですが、今では仕事とプライベートのメリハリをつけて、どちらも楽しく打ち込めています(笑)。
――素晴らしいですね。仕事やプライベートが充実するように自分の生活を変えるためには、どんなことが必要だと思いますか?
日常生活から逃避できるような趣味とかきっかけがあるといいんじゃないかなと思います。私は、珍スポットに行くために定時に終われるように仕事を効率よくこなしたり、有給をとって珍スポ巡りに行きたいので、それまで以上に毎日の仕事を頑張るようになりました。
私は子どもの頃からインドア派で、もともと全然行動的ではなかったし、人に話しかけることも極力したくないタイプでしたが、珍スポ巡りを始めたらそういう性格も変わってきました。
今の時代、自分から知らない人に話しかけると怪しまれたり、避けられたりするんじゃないかと常に思うんですけど、珍スポットに行って実際に話しかけてみると、意外とそんなことはなくて、逆に親切にされたり、その土地の歴史をいろいろ教えてもらえたりするんです。
人の優しさに触れるような、そういう経験を少しずつ積み重ねていくことで、自分の殻がどんどん破られていったような気がしています。今では「人って意外と自分から歩み寄ったら助けてくれるんだな」と考えるようになりました。
――珍スポットに出会って、行動も考え方も変わってきたのですね。
自分が楽しいものを見つけて続けていくと、どんどん面白くなって、世界が広がって、自分も変わってきます。最初は逃避でもいいので、そういう何かが見つかるといいですよね。
――今後の夢や目標は?
いろいろあります(笑)。とりあえずは沖縄に行って47都道府県を全部制覇したいです。それから珍スポットの地図をまとめて、また展示の機会などがあれば、いろんな方に見てもらって、日本の面白さみたいなものを知ってもらえるきっかけがつくれたらいいなと思っています。
また「自分が大好きな珍スポットを残したい」という想いが強くなってきているので、本を出せたらいいなと思っています。今回つくった自費出版の同人誌的なものではなくて、出版社から出して、もっと多くの人に読んでもらえるようにしたいです。
あとはやっぱり行きたい珍スポットを全部回りたいですね。これを見てください!
今もGoogleマップにピンをさしているのですが、めちゃめちゃすごいことになっています。行きたい珍スポットが4000以上もあるんですよ(笑)。
――4000以上ですか!(笑)
最初はちょこっと珍スポットに行って飽きたらやめようと思っていたのですが、そう思っていたのは最初の1年くらいで、いろいろ調べていくと、今ではなくなりつつある昭和のテーマパーク以外にも、いろんな種類の珍スポットがあるので、逆にどんどん行きたい場所が増えてしまって。今では「生きているうちに何とか全部回らなきゃ」みたいな感じになっています。
――日常からの逃避行から始まった趣味がライフワークになったのですね。
そうですね。少しずつ、少しずつ、遠くに行くたびに、どんどん楽しさが増していって、自分の世界が広がっていく喜びがあります。いつも新しい場所に行くたびに「今度はどんなワクワクが待っているんだろう」みたいな気持ちになるんです。
今の数で、今のペースで回り続けたら、たぶん40代半ばくらいでいったん4000ヶ所は全部回れるんじゃないかなと思うんですけど、その間にもまた行きたい珍スポットが増えていくと思うので、たぶん一生終わらないです(笑)。
――今後のご活躍も楽しみにしています。本日はありがとうございました!
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この記事を編集した人
タニタ・シュンタロウ
求人メディアの編集者を経て、フリーランスとして活動中。著書に『スローワーク、はじめました。』(主婦と生活社)など。
仕事・働き方
2023.12.8
本柳寛子(もとやなぎ・ひろこ)さん
1986年生まれ。静岡県浜松市出身。京都の大学を卒業後、大阪の服飾専門学校を経て東京で就職。衣裳の仕事やアート・カルチャーイベントの企画・運営を行い、2015年にドイツ・ベルリンに移住。ヨーロッパ各地を旅して2019年に帰国。長野県松本市で結婚し、2021年に出産。2022年より産前産後のママ向け食事宅配サービス『mama eats』をスタート。「Alps gohan(アルプスごはん)」や「atelier C(アトリエ・シー)」などの旬の地野菜を中心としたお弁当、グルテンフリーのお菓子や喫茶を営む「そればな」のお菓子なども配達。料理教室やワークショップなど食にまつわるイベントも開催。
note:mama eats
Instagram:mama eats
――『ママ・イーツ』は、信濃毎日新聞をはじめ、さまざまな地元メディアで話題になっていますね。ニュース番組でも大きく特集されていて、素晴らしいサービスだと思いました。
ありがとうございます。いつもお弁当をつくってくれている料理家さんや届けてくれるデリバリー・ママさん、産後から利用してくださるママさん、それぞれの目線から丁寧に取り上げていただけて嬉しかったです。画面にこそ映っていませんでしたが、これまで本当にたくさんのサポートがあって、このサービスがつくられていることを改めて実感する機会となりました。
長野朝日放送『abnステーション』2023年8月30日の放送『ママ・イーツ』特集
――どのようなサービスなのか、全国の方々に向けて教えていただけますか?
“ママによるママのためのお弁当デリバリー”というコンセプトで、長野県松本市を中心として産前産後のママや働いているお母さんに向けてお弁当を届ける宅配サービスをしています。
届けているのは、無農薬野菜を中心とした料理を提供する地元の食堂「Alpsgohan(アルプスごはん)」さんや「atelierC(アトリエ・シー)」さんのお弁当。この夏からは『おやつ便』として、グルテンフリーのお菓子や喫茶を営む「そればな」さんのお菓子の取扱いも始めました。容器には、電子レンジや食洗機対応の環境配慮型の容器を使っています。
産後のママは体の回復や赤ちゃんの母乳のためにもバランスのとれた食事をとることが大切ですが、家事もままならない体で家族の食事の用意をするのは大変ですよね。少しでも食事のサポートをしてママが幸せになれば、家族みんなが幸せになれる。そんな想いで立ち上げたサービスです。
――玄関先でのデリバリー・ママさんとの子育てトークも人気の理由だそうですね。
そうですね。デリバリーをしているのも子育て中のママなので、お届け先のママとちょっとお喋りをするのが『ママ・イーツ』の特徴の1つになっています。お弁当を届けるだけでなく、ママたちの心のケアをしたり、ゆるい繋がりをつくって、まずはママに元気になってもらえたらと思いまして。
私は5年前に松本に移住してきて、初めての妊娠・出産がちょうどコロナ禍だったんです。私の実家は静岡で、夫は和歌山。どちらの親も離れて暮らしていて、知り合いも少ない。外出自粛で母親学級みたいな横のつながりも一切ない状態だったので、すごく孤独や不安を感じました。
ましてや妊娠中は、お医者さんと自宅の往復だけ。出産したら、さらに外出は難しくなります。もともと私はアウトドアなタイプで、人と会ってお喋りするのが大好きだったので、そういう繋がりがごっそりなくなって、小さな息子とふたり、繭の中の生活みたいになってしまったことが、とっても苦しくて。産後うつになってしまう女性もいますし、産前産後のママはみなさん、そういうシーズンだと思うんですよ。
なので、ドア越しにちょっとお喋りするだけでも、ママたちの心の支えになるのかなと思って、お弁当をお届けする際は、できるだけお話をするようにしています。
――ママたちの反響はいかがですか?
ありがたいことにお客様には恵まれていて、お弁当を届けるたびに感謝の気持ちを伝えてくださるんですよね。赤ちゃんが生まれてすぐにメールや写真を送ってくれたり、その後にお弁当をお届けしたときに、自分の宝物のような赤ちゃんを見せてくださる方もいます。そういう瞬間は本当に幸せで、このサービスを始めて良かったなって実感します。
――ママ向けのデリバリーサービスというのは、今までなかった?
私も妊娠中に調べてみたのですが、一般的なフードサービスしかなくて、当事者の1人として「こういうのがあってもいいんじゃないかな」と思ったんですよね。なので「なかったから、つくった」というのが、このサービスを始めた一番の動機ですね。
子育て支援が『ママ・イーツ』の大きな目標なので、ドア越しにお喋りするだけでなく、ご希望があれば助産師さんやヘルスケアラーさんを紹介したりもしています。また、料理家さんと協力しながら、食育ワークショップや親子料理教室など食にまつわるイベントも開催しています。心身をケアして、ママたちに元気を届けたい。まだまだ発展途上ですが、そんな想いを持って活動しています。
――本柳さんは、もともとは東京で衣裳関係の仕事をしていたそうですね。
はい。子どもの頃から絵を描いたり歌を唄ったり、お勉強よりも身体を動かすことが好きで(笑)。服飾というものにも学生時代から興味があったので、京都の大学に通いながらWスクールで大阪の夜間の専門学校にも通って、東京の松竹衣裳という会社に就職しました。
そこでは衣裳部として映画やテレビ、CM、雑誌などの衣裳関係の仕事を3年くらいしていたのですが、その後はフリーランスになって、裏原宿にあった「VACANT」というコミュニティスペースで、アート・カルチャーイベントの企画・運営などもやっていました。
私は音楽がすごい好きなので、音楽イベントを企画したり、ダンスやトークショー、寄席もやったり、もう何でもやっていました。すごく刺激的な場所でしたね。
――その後、ドイツに移住されたのですよね。
はい。ただ、それはイベントをやりたいと思ったわけではなくて、単純に「ベルリン」に興味があったのと、海外の暮らしをずっとやってみたかったんです(笑)。ドイツはワーキングホリデーのリミットが30歳だったので、このタイミングで行くしかないと思って、30になる手前にドイツに飛びました。
まずは服飾の専門学生のときから大ファンだったアパレルブランド「BLESS」がベルリンにスタジオを持っていたので、そこでインターンをさせてもらって。その後はコレクションの度にフリーランス契約で仕事をしながら、音楽関係のイベントを計画したり、日本のクラフト作家さんを呼んでエキシビションを開いたり、お店と繋げるプロジェクトにも関わっていました。
1年間ワーホリで過ごした後、フリーランスビザに切り替えて、ヨーロッパを旅したりして3年半くらい住んでいたんですけど、結構自由に暮らしていましたね。
――当時はその後、どんなキャリアビジョンやライフビジョンを考えていたのですか?
ノープランです(笑)。今もそうなんですけど、私は基本的に「何年後にこうしていこう」と決めるタイプじゃなくて、そのときに興味があることに対して、まずやってみる、行ってみるという感じなんですよね。今思えば、本当に怖いもの知らずというか、何も考えず海外に行くのは無茶だったと思うんですけど、興味があったから行ったし、得たものも大きかったと思います。
――ドイツで得たのは、どんなことでした?
ヨーロッパ自体が日本とまったく違う文化圏なので、良いところも悪いところもありましたが、今までずっと島国で同じような価値観や言語の人たちの中で暮らしてきて、それこそ専門学生のときは自分の作品をアピールするようなことは練習してきましたが、そうではなく、自分自身のことや自分のルーツとかを改めて聞かれることで、自分の輪郭がはっきりしてきたなって思いました。
当時のベルリンは、昔のニューヨークのような雰囲気があったので本当にいろんな方がいましたし、アーティストやスタートアップ事業者もたくさん住んでいて。お金がなくても工夫して、クリエイティブに暮らしている人がいっぱいいました。そういう意味では東京と真逆というか、「お金がなくてもこんなに豊かに暮らせるんだ」という可能性や、生き方の本質みたいなものを感じることができました。
「生活をより楽しんで、豊かにして、家族を大事にして」というヨーロッパの文化に興味があったのも移住した理由の1つだったので、実際に触れてみることで、自分の中でしっくりきたというか、そういう人間関係のつくり方にとても惹かれましたね。
――今の『ママ・イーツ』の発想にも繋がるようなお話ですね。
そうなんです。今のサービスを始めた直接のきっかけは、自分が初めて妊娠・出産を経験したことでしたが、発想の原点は、実はドイツでの経験だったんですよね。
ドイツは少子化対策が進んでいて、日本と比べると補助もかなり手厚くて、移民でもちゃんと手厚く保護をかけてくれていました。当時の私は結婚なんて全然考えていなかったのですが、そういう様子も見てきましたし、日本人の友人夫妻が双子の赤ちゃんを生んだときに、友人の繋がりということで、その家庭にごはんをつくりに行ったりしていたんです。
私自身は調理師免許を持っていたわけでも、そういう仕事をしていたわけでもなかったのですが、2人の料理家さんとローテーションで産前産後のママにごはんをつくるということをしていまして。買い物に行って、キッチンに入って、ご家族みんなの食事をつくったり、ケータリングしたり。
ドイツから帰国して自分が妊娠したときに、そのことを思い出したんです。「出産後はキッチンに立てないし、安静にしていなくてはいけない。でも食事はちゃんと摂らなくちゃいけない」。そう聞いていたので、ドイツでやっていたようなサービスはないかなって調べてみたのですが、もちろんなくて。「どうしよう」と考えたときに「ないなら自分でつくろう」と思ったんですよね。
――ドイツから帰国して松本に移住したのは、どんな理由があったのでしょうか?
京都、大阪、東京、ベルリン、今までいろんなところを放浪してきたので、そろそろ自分の巣をつくっていくシーズンかな、という感覚があったんです。生活をより楽しんで、豊かにして、家族を大事にしたい。そんな気持ちがドイツでむくむくと湧いてきまして。
東京は、人や情報があまりにも多すぎて疲れてしまうので、もう戻る気はなくて。当時お付き合いしていた今の夫が松本で開業していたので、そこにジョインする形になりました。松本は、以前に旅行に来たときに「水が綺麗で、自然も豊か。ここなら嫁いでもいいかな」と(笑)。
多様なバックグラウンドや価値観を持つ人やモノが交流できるコミュニティスペースをつくりたい。それもドイツから帰国しようと考えた理由の1つでした。この街に自分の居場所みたいなものをつくって、旅行者だったり、近所のおじいちゃん・おばあちゃん、お母さん、いろんな人たちが交流できる場所をつくりたい。そこに追随して、カフェやギャラリー、ゲストハウスとかもやってみたいなって。
そこでまずはカフェを併設したリトルプレス専門書店でイベントの企画などをしていたのですが、子どもができて、コロナ禍にもなって、イベントどころか自分が外出することさえ難しくなってしまいました。そのときにドイツでの経験を思い出して、自らトライアルしてみたんです。
――『ママ・イーツ』のようなサービスを自分自身で試してみた?
はい。以前から繋がりのあった料理家さんに協力していただいて、知り合いの男の子にデリバリーをお願いして。コロナ渦中、学生だった彼も自分でデリバリーサービスを立ち上げていたので、3ヶ月間お弁当を届けてもらいました。すると、お弁当だけでなく、ちょっとした手紙やお花を添えてくださったり、料理家さんからは手作りのクッキー、私が興味を持ちそうなイベントのフライヤー、忙しい間にもさくっと読める雑誌コラムのコピーなど、いろんなものを一緒に届けてくださったんです。そういう暖かい心遣いが、とっても心に染みまして。
また、食事の大切さも改めて実感しました。産前産後に必要な栄養素をとることや、食事がすごく癒しになって、生活のベースになること。どんなに毎日大変でも食事の時間だけは幸せで、ちょっとした息抜きになること…。届けていただいたお弁当は、自分にとってのプレゼントみたいに感じました。
同時期に出産した友人もトライアルをしていたのですが、「やっぱりこういうのがあったらいいよね」と同じ想いを共有することができました。それで「あったらいいよね」を本当にやってみようと『ママ・イーツ』の活動をスタートさせることにしたんです。トライアル後、彼女は松本を離れてしまったので、私ひとりでサービス実現へと動き出すことになりました。
――まずは、どんなことから始めたのでしょうか?
「信州スタートアップステーション」という長野県が設置する創業支援拠点の戸を叩いたのが最初の行動でした。「こういうことを考えています」「産後にこういうトライアルをしました」「こういうアイデアがあるんですけど、どういう風に形にしていけばいいでしょうか」と相談したら、そこのコーディネーターの方が伴走してくださる期間があったんですよ。
それは市役所で紹介してもらったのですが、0歳の息子を背負って、そこに通って相談しながら、だんだん具体的な形になっていって。開業届を出したのは、ちょうど息子が1歳の誕生日でした。
産後1年も経たない主婦が1人で起業しようとしても、頭も回らないし、何からやればいいのかもわからない。そういうサポートをしていただけて、本当に助かりました。開業にあたって免許的なものも特に必要なかったので、車両を用意したり、あとは料理家さんとお話を重ねながら「こういうお弁当をつくっていただきたいです」と伝えていって、今のサービスの形ができてきて。
そこから半年間、友人や知人を相手にトライアルを重ねて、ブラッシュアップし、本格始動となりました。
――料理家さんやデリバリー・ママさんは、どのように声をかけたのですか?
料理家さんは、今もお願いしている「アルプスごはん」さんは産前からお世話になっていましたし、「アトリエ・シー」さんは知人から紹介していただいて、実際に食べてみたら、すごく美味しくて。私の想いにも賛同してくださったので、「ぜひお願いします」と、すんなり決まりました。
デリバリー・ママは、最初はそんなに注文もなかったので、息子をチャイルドシートに乗せて私が1人で配達していました。だんだん注文が増えて月に100食くらいオーダーが入るようになってきた頃から、友人にヘルプで入ってもらったり、お客さんの中から『ママイーツ』の想いに賛同してくださって「自分もやりたい」という方も出てきてくださいました。
今はデリバリー・ママを募集しながら、彼女たちからサービスについてのアドバイスなどももらっています。自分ひとりでは限界があることも、たくさんの手と眼があれば、もっと良いサービスになると思っています。
――起業にあたって大変だったことは?
広報ですね。この活動を知って「いいね」と応援してくださる方はいっぱいいるのですが、それをどうオーダーに繋げていくかってことは今も課題です。正直まだボランティアの粋を超えていないので、もっと認知を広げて、ビジネスとして軌道に乗せていきたいので考えなくちゃいけないですね。
そして、自分が当事者になって気づいたことですが、日本全体の「母親とはこうあるべき」という一種の呪いみたいなものが存在していて、社会に対してはもちろん、女性の意識改革みたいなことも必要なのかなと思っています。
『ママ・イーツ』のお弁当は1000円前後、配達料は一律500円。やっぱり安いものではないので、ママたちが自分にお金をかけることを許すかどうかがポイントになってくるのかなって。産前産後はいろんなことにお金がかかりますし、旦那さんのご意見もあると思います。
食事はいちばん家計を削れるところなので、あまりものやコンビニのおにぎり1個を立ちながらささっと食べたり、赤ちゃんのお世話にいっぱいいっぱいになってしまうママもたくさんいます。私もそうでしたが、そういう時期に自分に対してお金を使うことに罪悪感を持つ人も多いでしょう。
でもやっぱり、毎日の食事はもちろん、自分を癒すことも大切だと思うんですよ。食べないと余計に精神的に病んできますから、心と体の栄養になるものをちゃんと摂ってほしい。それが『ママ・イーツ』のいちばんのコンセプトなので、「自分を大切にする時間を設けてもいいんだよ」「癒しも大事なんだよ」という想いも伝えていきたいです。
――お弁当を届けるだけでなく、ママたちの心身のサポートも大切にしているのですね。
はい。ただ、これは簡単な問題じゃないとも思っていて。社会全体のムードが「女性は家で育児をするのが当たり前」となっているので、女性の自立にも繋がってくるのかなって。精神的な自立、経済的な自立ですね。
それまでバリバリ働いていた女性も、結婚して家庭に入って子どもを産んだりすると、社会的な繋がりがなくなってしまったり、自分でお金を稼ぐことができなくなったりして、養ってもらっていることに負い目を感じてしまう。「ごはんにそこまでお金をかけていいのか」「自分にそこまでの贅沢を許していいのか」って。……何より私自身がそうだったんですよね。
だけど、ママたちには胸を張って、自分は「母親」という大事なシーズンを迎えていることを自分自身に認めてあげてほしい。そういうところまで伝えられたらいいなって。
伝えるなんておこがましいんですけど、慣れない育児に孤立せず、子育て家庭を地域で支え合う仕組みづくりを通して、多様性を認め、従来の育児や家事に対する価値観のアップデートを図りたい。
そんな想いを持って、このサービスを始めたので、ママたちが元気になって自立できるところまで、一緒に併走できたらいいなと思っています。
――食にまつわるイベントやワークショップも、その一環でしょうか?
そうですね。外に出る機会を増やすことも大事だと思うので、お母さんたちの「私はコレが好き」という想いや「ちょっと表現したい」って気持ちも応援できるように、今後はママたちの作品を扱ったギャラリーみたいなこともしていきたいです。そういう意味では、これまで私がやってきたイベントの企画・運営や、地域のコミュニティスペースをつくりたかった夢も、今の自分の形でできるのかなって思います。
今の日本でこういう活動をしているのは、まだNPOのようなボランティア事業として運営している団体くらいしかないので、ちゃんとビジネスとして確立できるように頑張りたい。まずは松本でビジネスモデルを確立させて、横展開ができればいいなと考えています。それは私がしなくても、それぞれの地域のママたちがやればいいと思いますし、女性の自立や意識改革、産前産後のママをサポートする地域コミュニティが当たり前になる世の中にしていきたいですね。
――突然ドイツに移住したり、産後すぐに起業したり、本柳さんの行動力はすごいと思います。どうしてそんなにいろんなことにチャレンジできるのでしょうか?
あんまり考えないからだと思います(笑)。今の活動も突然ドイツに行ったときと同じで「こういうものがあったらいいな」「ないならやってみよう」と、それくらいの気持ちで始めましたし、それほど投資が先にあるビジネスでもなかったので「子育てしながら、できる範囲でやろう」と。石橋を叩くというタイプではなく、まず行動してみる。もともとそういう性格なんだと思います。
「子どもがいるから外に出られない」「母親になったからあきらなきゃいけない」とうつうつと思うよりは、「子どもを抱えて自分が外に出ればいいじゃないか」という気持ちが原動力になっていて、それが結果的にいろんな人に喜んでもらえただけなので、そもそもは自分のため…というか(笑)。
――本柳さんのように「自分も何かやってみたい」「新しい活動をしてみたい」という人たちに何かアドバイスをいただけますか?
え〜っ、私の場合は「やらないで後悔するより、まずやっちゃう」タイプなので、アドバイスは難しいですね…。やらないで悶々としている時間が嫌というか、とにかく我慢が苦手というか、やらないと自分に嘘をついているような気持ちになっちゃうんですよね。うーん、「人生」という言葉を出しちゃってもいいですか(笑)。
私は「自分の人生をどう切り開いていくか」みたいなことは昔からよく考えていて、父の死もあり余計に「自分もいつどうなるかわからない」「いつまでも生きていけるわけでもない」と考えるようになりましたね。
そういう中で、自分がご機嫌に楽しく、周りの人と今を幸せに生きていくためには、やりたいことがあるのなら、まずやってみることが大切なのかなって。やらないと、その気持ちをずっと持ち続けてしまうじゃないですか。想いは消えず抱え込むだけですから、フレッシュなうちに動く。
自分の経験上、あまり考えずにやったほうがいい感じに進んだので、やっぱりタイミングは大事だと思います。考えれば考えるほど腰が重くなってきますし、「やらない理由」を考えて自分を言いくるめちゃったりしますよね。やっちゃうと大変なことも出てきますけど、楽しいですよ!(笑)
――今後の夢や目標は?
まずは『ママ・イーツ』でギャラリーをやりたいです。東京やベルリンでイベントをやっていたときもそうだったのですが、人と人を繋げたり、自分の表現したいことをみんなと分かち合って、そのインスピレーションが人を鼓舞できたらいいな、という想いは今も変わらずあるので、そういうことが私にとっての「人生」なんだと思います。
ママ・イーツのコンセプトを表現してもらったイラストは、松本市内に暮らす2児のママでもある小林萌さんが手掛けてくれました。コミュニティスペースをつくることは一回流れましたが、今の活動を続けていけば、ママたちのギャラリーだって全然できますし、自分らしく、楽しみながら、地域と子育てシェアをして、いろんなイベントもやっていきたい。
やっぱり人生って悪くないよね。そういう想いをみんなで分かち合いたいし、お喋りしたり、いろんな人たちと触れ合える、そういう場所をつくっていけたらいいなと思っています、自分の暮らす街で。リノベーションも興味があるので自分で壁を塗ったりもしたいですし、子育て支援は行政とも連携を取って、お母さんケアを拡張させていきたい。やりたいことはいっぱいありますね。
松本に来て5年。京都、大阪、東京、ベルリン、いろいろな場所で暮らして、自由に好きなことをやらせてもらってきましたが、興味や関心など、これまでバラバラだった点が繋がってきました。まだまだその渦中にありますが、今後もいろいろやっていきたいです(笑)。
――今後のご活躍も楽しみにしています。本日はありがとうございました!
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タニタ・シュンタロウ
求人メディアの編集者を経て、フリーランスとして活動中。著書に『スローワーク、はじめました。』(主婦と生活社)など。
仕事・働き方
2023.12.4
島根県出身、松江市在住。立体切り絵作家。小学生の頃から切り絵を始め、美術やデザイン関係の学校で学んだ経験はなく、作品は設計図や下絵なしで作ることも。1枚の紙から自身の感性で即興で作り上げる独創的な作風が特徴で、中には7メートルを超える大型の立体切り絵作品もある。広告やコラボ作品等も手がけるほか、個展、実演パフォーマンスや教室、講演などを行い、島根県松江市の松江観光大使も務める。
公式サイト:SouMa
公式X:SouMa 立体切り絵作家
Instagram:souma.kirie
YouTube:KIRIE SouMa
――SouMaさんの作品は、すごく繊細で、1枚の紙からできているとは思えない立体表現も、ほかの切り絵とは明らかに一線を画していますね。作品は、どのような場所で見られるのですか?
個展や実演のほかに、依頼をいただいて制作しています。ホームページに掲載しているような額に入るサイズの作品だけではなく、企業様からのご依頼があれば、空間演出で何メートルもあるようなものも作らせていただいています。海外でも個展の巡回展があって、地域はアジアが多いです。
――海外でもご活動されているのですね。作品は、構想から完成までどのぐらいの期間がかかりますか?
簡単なものだと1日に10個ぐらいは作りますよ。ぼんやりと「こういうものを作ろう」と思って切り始めるのですが、テーマが決まれば、作るのは早いです。いつも大体10個、20個の作品を同時に作っているので、一つに集中するというわけではないんですけれどね。
――空間演出の作品は、かなり大型のものもありますよね。一番大きいものはどのぐらいですか?
Cartier(カルティエ)伊勢丹新宿店様で掲示された大型壁面が7メートル×2メートルで、パンテール(豹)は高さ2メートルのサイズでした。空間演出などの作品は必ず現地に行って製作しているのですが、制作期間は1カ月ぐらいでした。
――氷と水の入ったグラスは紙とは思えないほどの陰影や立体感がありますね。よりリアルに見せるために、実物や写真などを見ながら作るのですか?
グラスなどは実物モデルを目の前に置いて、写真を何枚も撮ってみて、光の表現方法や角度を観察したりもしています。ただ、ほかの作品も含めて本物に見せようとして作っているわけではないので、「本物に見える」とか「写真みたい」って言われたときに、ああ、そうなんだと新鮮な発見があります。
――設計図や下絵なしで作ることもあるそうですが、即興で作ることも多いのですか?
最初に下絵があるとゴールが見えてしまうというか、それだったら機械が作ってしまった方が早いと思うので、せっかく人間が作るなら、その時の気持ちで作りたいなと思うんです。ただ、緻密に設計図を準備する作業も楽しみの一つではあるので、そういう作り方をすることもありますよ。
企業様から依頼をいただく時は、最初に企画書を見せていただき、簡単なデザインと言葉でイメージをお伝えして「あとは任せてもらえたら嬉しいです」と。その点は実績を積んで信頼関係を築いた上で、お仕事をいただけるようになりました。
――作りながらイメージが変化していくこともあるのですか?
それはありますよ。毎日「ああしよう」「こうしよう」と、イメージを変えながら作っています。それが楽しいんです。
――アイデアによって、柔軟に切り方も変えられるんですね。
こういう作品を作っていると、すごく繊細でこだわりが強いと思われがちなんですが、そんなことないんですよ(笑)。むしろ、お客さんやクライアントに「こんな感じがいいです」と要望を言ってもらえた方が私自身の発想が広がりますし、「できるか分からないけどやってみよう!」とチャレンジできるので面白いですから。
――繊細な部分が切れてしまったり、予想外のアクシデントが起きた時はどうしているのですか?
私の作品は一枚の紙でつながってはいますが、網のような形になっているのでどこかが切れたら全部が離れてしまうというような作り方ではないんです。だから、切れたり破けたりしても、それが「味」になります。私自身が綺麗な線を残すことがあまり好きではないので、削るような表現にしたり、荒っぽく見えるけど全体見た時にまとまって見えるような作品作りをしているんですよ。
――それで、独特の陰影や立体感が出るのですね。人物や建築物、風景や生き物などさまざまな作品がありますが、モチーフはどのように決めているのですか?
オーダーを受けたり、「これを作ってみてもらえないか」とイメージを伝えてもらって作るパターンが多いのですが、私自身は抽象的なデザインをずっと作りたいと思っていたので、最近はそういうタイプの作品が多くなってきました。
――抽象的なデザインの方が、作るのも大変そうです。
そうですね。たとえば目で見て「細かい」と分かる作品は簡単なんですけど、淡い表現をしたり、何をどう切っているのか分からないものは技術的にも難しくて集中力が必要ですし、自分の中で湧き上がる感情を目に見える形に落とし込むので、作品を見るお客さんからすれば「これはなんだろう?」と思われるところが作り手としては不安な部分があるんです。その「なんだろう?」という部分がいい方向に働くこともあれば、「よくわからない」と言われてしまう可能性もありますから。だからなかなか踏み出せなかったんですが、最近は自分の中で整理できるようになりました。今は、見る人によって違った解釈をしてもらえることは、むしろ嬉しいですよ。
――SouMaさんが最初に素材としての紙の面白さに気づいたのはいつ頃だったのですか?
子どもの頃、身の回りにあるもので、工作で一番楽しめるものといえばやっぱり紙じゃないですか。ペラペラしたような広告紙とか厚紙とか、いろいろありますよね。ナイフやカッターを使ってそれを削ったりして、立体的な造形物を考えて作ることが好きでした。
――子供の頃から手先が器用だったんですね。当時からいろいろな発想が浮かんでくる感じだったのですか?
小さい頃から平面ではなく、立体的な切り絵を作っていました。ただ、当時はそんな手法があることも知らず、物心ついてから世の中に「切り絵」というジャンルがあることを知りました。昔は切り絵は黒い紙を使うのが一般的だったようですが、私はそれも知らなかったので(笑)、小さい頃から白い紙を使って作っていました。
――知らないからこそ、技術や表現も、自分だけのオリジナルのものになっていったのですね。
そうだと思います。最初は紙が破けてしまったり、水をこぼしてしまったり、いろんなハプニングが起こりました。でも、遊んでいる中で紙が持っている性質とか面白さを見つけていったんです。たとえば、火を使って炙ると焦げ目がつくので、その自然な表現がいいと思って、今も絵の具を使った色付けはしていないんですよ。
それと、「パーツを組み合わせれば立体的な作品を作れるのに、なんでわざわざ一枚の紙から立体を作るんですか?」と言われることがあるんです。でも、そうすることにこだわっているわけではなく、子供の頃に折り紙などで「紙をどんどん足す」という贅沢な遊び方をせず、一枚の紙から作ることを続けてきたので、その方がアイデアが浮かびやすいんですよね。子供の頃ってそれほどいろんな道具を使えるわけでもないですし、自分の頭の中で想像を膨らませるのはタダじゃないですか。
――身近な素材を最大限に活かしたんですね。見本にしていたものや、何か刺激を受けたものはありましたか?
小さい頃はアートに触れる機会もあまりなかったですし、影響を受けたものは特にないです。どちらかというとスポーツで体を動かすのが大好きで、機械体操と水泳とバレーホールと陸上をやっていました。自然の中で動物を観察するとか、そういうことも好きでした。
――すごくアクティブですね! 今も、創作活動につながるように続けていることはあるのですか?
運動は今も好きで、パワーリフティングやジョギングなどをやっていますが、「仕事に生きるだろう」と思って何かをしたり、人に会ったり、本を読んだり、ということは昔からまったくしないんですよ。
最近は茶道も始めました。ただ、それも仕事を意識してやっているわけではないのですが、そういうことの精神が自然と作品作りにも生きてくる部分はありますね。
――ご自身の趣味や好きなことにアンテナを向ける中で、新しい世界観を自然と取り入れてきたのですね。
気になることがあったら、まずはじっくり考えます。物理とか数学とか、そういう話も結構好きなので、物理の講演会を見て、その後に本を買っていろいろ書き出して勉強したり。もともと医大で目の研究をしていたので、卒業後は病院に就職して3年間ぐらい働いていたんです。
――目について研究しようと思ったきっかけはなんだったのですか?
小さい頃、近所に失明したおじいさんがいたんです。そのおじいさんから点字の本を見せてもらった時に、「なぜ自分はこんな風にものが見えるのか」と考えました。それで、「人間は目に頼らない感覚もいっぱい持っている」ということを知って、目に興味を持ったんです。
私自身、作品を作るために紙で作業をしていて「目が疲れませんか?」と言われるんですが、実際には目以外の感覚の方を主に使っているので疲れないんです。手触りで紙の陰影を表現したり、技術を磨いたり、子どもの頃からそういう感覚的なことへの興味がありました。それで、家族や親族にも医療関係者が多かったので医療の方向に進みたいという目標があって、医大に進学しました。
――大学卒業後に医療関係のお仕事をされていた中で、今の仕事をメインになさった転機は何だったのですか?
働きながら作品作りはずっと続けていて、出来上がったものをブログで発表するなど、趣味でやっていたら、そちらでお仕事をいただけるようになって、そちらの方が忙しくなってきて。ただ、「この仕事で一本で生きていこう」とか、そんなに意気込んだわけではなく、「人が喜んでくれるならやってみよう」という気持ちで、2012年に起業して今の仕事を始めました。
その時期は、いろいろなタイミングが重なったんですよ。一つは、今のエージェントが「仕事にしないか?」と声をかけてくださったことです。島根県を拠点にしている中で、仕事で活動を広げるなら「都会に住んでいたほうが便利でしょう?」と言われることもあったんですが、エージェントが「これからの時代は、むしろ島根にいることが強みになると思う」とアドバイスをくださったんです。
――地元で活動を続けられることも、モチベーションになったのですね。
そうですね。やっぱり好きな環境だと、気持ちが入って自由に好きな作品が作れますから。ちょうどその時期に親の介護が始まったのですが、アートの仕事は家でできることも大きいです。そういう、いくつかのタイミングが重なったことで始めましたが、今振り返っても良い決断だったと思います。
――松江市の松江観光大使としてもご活動されていますよね? 作品作りが地域貢献にもつながっているのですね。
最初は市の方から「観光大使をしていただけませんか」と連絡をいただいたんです。ただ、展覧会で転々としているので、地元にどんなふうに愛着を持っていいのかが当時はよくわからなくて。ただ、私が好きなことを続ける中で、「プロフィールに島根県出身ということが出ることがいいことなんです」と市の方から言ってもらえました。私が好きなことで輪を広げていくことで、地元の方たちや家族にも喜んでもらえるのなら頑張っていこうと思いました。
――作品作りをされている中で、喜びを感じるのはどのような時ですか?
お客さん同士が私の作品について、作品の前で楽しそうに喋っているのをこっそり見るのが一番の喜びです(笑)。私の作品はアートの王道からは少し外れていると思うのですが、アートにそれまで関心がなかった方や子どもたちなど、幅広い年齢層の方が見にきてくれるのは嬉しいです。たくさんのメッセージやお手紙もいただいだくのでが、最近、人生経験豊富な年配の方から「久しぶりに感動しました」という言葉をいただいたんです。とてもシンプルな言葉でしたけど、それはすごく心に残りました。
――まっすぐで重みのある言葉ですね。今後、SouMaさんがチャレンジしたいと思っていることはありますか?
私は紙という素材が好きですけれど、それ以上に考えることが好きなので、違った素材にも興味があります。例えば鉄を使ったオブジェなどを作ってみるとか、あまり枠を決めずに取り組みたいですね。私という人間を使って「何か面白いことができるかもしれない」と思って声をかけていただけたら嬉しいですし、いろいろな方との出会いや機会を増やして、自分では思いつかなかったようなアイデアや表現にチャレンジしてみたいと思っています。
――SouMaさんのように、ご自身の強みや好きなことを生かして道を切り開いていくためには、どんなことが大切ですか?
私は甥っ子がいるのですが、そういう小さな子どもたちを見ていて、「人は小さな選択を含めて、すべてにおいて好きなことをやっているんだろうな」と思うんです。例えば「今日は仕事が嫌だな」とか「やる気が出ないな」と思ったとしても、その仕事を選んだ時点で、わざわざ嫌いなことはしていないですよね。そういう小さな選択の積み重ねの中で「自分はなぜこれを選んだんだろう」「何に興味を持ったんだろう」と、考えて深掘りをしていったら、きっと周りには好きなことだらけだと気づくと思うんです。
それと、「興味がない」のと「嫌い」の間にはすごく大きな差があると思っていて。「嫌い」は、そこに関心があるからこそ、そこまでの強い感情になると思うので、何かのきっかけがあれば、好きなことになる可能性もあると思います。
――「嫌い」は「好き」の裏返しかもしれない、ということですね。
ええ。甥っ子たちと話しするときに、「何でそれが気になったんだろうね」と話していると、子どもたちも自分の頭で一生懸命考えて、「こうかもしれない」と気づくことがあるんです。「一つ一つの選択は自分が興味のあることだからこそ体が動く」という気づきが増えてくると、人生も変わるのではないかと思いますし、気持ちに素直に動いてみることで、新しい景色が見えると思います。
「好きなことで生きていく」というと壮大に聞こえますけれど、私も今の仕事は「好き」という言葉で括れるものではなくて、ずっと一緒に過ごしてきたものだから、「愛着」の方がしっくりきます。教室をしていると、「アートの道に進んで、それ一本で食べていきたい」という相談を受けることもありますが、別にそれ一本じゃなくてもいいのに、と。今の時代はいろいろな肩書きを持っている方が面白かったりもするし、いろいろなことをやって「最終的に残ったものがこれだった」っていう風になれば、それでいいんじゃないかなって思います。
――今後も新しい表現へのチャレンジを楽しみにしています。ありがとうございました!
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この記事を編集した人
ナカジマ ケイ
スポーツや文化人を中心に、国内外で取材をしてコラムなどを執筆。趣味は映画鑑賞とハーレーと盆栽。旅を通じて地域文化に触れるのが好きです。
仕事・働き方
2023.11.16
1961年生まれ、東京都出身。THINKフィットネス勤務・ゴールドジム所属。2012年に一人娘のアメリカ留学をきっかけに本格的に体を鍛え始め、2014年に当時のボディビルの大会でデビューし、初優勝。その後はアジア選手権でも優勝、世界選手権でも3位に輝くなど、60歳を越えても日本の女性フィジークのトップランカーとして活躍している。ゴールドジムのトレーナーとして、初心者から上級者まで、幅広い層を対象に指導を行っている。
公式サイト:GOLD’S GYM
公式X:ゴールドジムジャパン(公式)
――澤田さんは日本一筋肉質な女性を決める「日本女子フィジーク選手権」で2021年から2連覇、過去4度の日本一に輝いています。どんなところに筋肉やボディメイクの魅力を感じますか?
筋肉っていうと、私の中ではどうしても男性的で「かっこいい」っていうイメージがあるので、それは大事にしながらも女性らしさを忘れたくないっていう思いがあるので、そのギャップは魅力の一つだと思います。
体が男性化していくと、身のこなしも男性っぽくなることもあるのですが、そこでしなやかな女性らしさを出せたら、ボディビルとか筋肉に対して女性の方も入りやすいんじゃないかなって。「こんな筋肉要らないよね」とか、「そんなに筋肉つけて何になるの」?という別世界のイメージじゃなくて、普通の女性たちがいっぱいいるんだなって身近に感じていただきたいなと思っています。
――無駄のない筋肉と爽やかな笑顔、しなやかなポージングはギャップがありますね! どのような筋肉が「美しい」と評価されるんでしょうか?
2015年にそれまで筋肉の大きさや脂肪の少なさを競っていた女子のボディビルがアメリカでなくなって、全体的な筋肉のバランスや女性らしい筋肉美を競う「女子フィジーク」という形に変わったんです。ボディビルの時代は筋量や大きさ重視で一言で言えば「かっこよく見せる」っていうのが評価の基準だったと思います。でも、今は女子フィジークになってからポージングも変わったので、女性らしさも含めたトータルの美が求められています。
――澤田さんは背中の広背筋もそうですけど、きれいに割れた腹筋も圧巻ですね。
ありがとうございます。腹筋やウエスト周りを「ミッドセクション」っていうんですけど、そこは自分の強みだと思っていて、さらに強化することが常に目標なんです。「正面もいいけどバック(背中)もいいね」って言われるような、隙のない体を作っていくことが一番だと思っています。
――体脂肪率はどのぐらいなんですか?
大会の時は5パーセントから10パーセントの間ぐらいで、平均は10パーセント前後です。ただ、大会の時はその1日のために何日もかけて頑張っていくので、その日しか楽しめない体なんですよ。
――それだけ大会前の追い込みがすごいんですね。10月8日に行われた「日本女子フィジーク選手権」では、しなやかな動きと、ポーズによって変化する筋肉のギャップが素晴らしかったです。結果は準優勝でしたが、振り返っていかがですか?
フリーポーズの審査の最後、人を惹きつけなければいけない場面でちょっとバランスを崩してしまったんです。それまでの1分間が台無しになってしまったことが、終わってからもずっと悔しくて…。チャンピオンとしては絶対にやっちゃいけないことだよなって…機転をきかせて上手く終わらせられなかった自分にまだまだだなって…反省しました。
――ただ、初優勝した荻島順子さんとの勝負は見応えがありました。よく知る間柄だったんですね。
はい。荻島さんは私が教えているクライアント様なんですけど、最初から実力のある方で、3年かけてどんどん良くなっていって。私自身も良い意味での刺激をもらいながら、これまでやってこられました。
――澤田さんの教え子もライバルなんですね! 今、新たな目標はありますか?
大会の日は気持ちも盛り上がっていたので、先のことは考えられなかったんですけど、終わった次の日はいろんなことが蘇って不安になったり、いろいろな気持ちが押し寄せてきて。ただ、今は世界にリベンジしたいなっていう気持ちがあります。
――澤田さんが3位という日本人最高成績を残したIFBB世界選手権ですよね。
はい。例年は「日本女子フィジーク選手権」のオーバーオール(階級分けなし無差別)で優勝して、世界選手権の出場権を獲得する流れだったんですが、今年はそれができませんでした。でも、日本クラス別(163cm以下級)で優勝したので、出場の権利はいただいているんです。ここから大会に向けて、自分の体をしっかり仕上げて世界1位を目指したいと思っています。
――毎日、トレーニングはどのぐらいされているんですか?
普段はゴールドジムのトレーナーとして、午後から夜まで働いています。平日は早起きしてジムで仕事前にトレーニングをするのですが、最低3時間はやっています。休日にトレーナーと一緒にトレーニングをする日は、5時間ぐらいはやりますね。
――お仕事でも筋肉と向き合っているんですね。トレーニングは、辛さや苦しさよりも楽しさが勝るんですか?
そうですね。私はトレーニングが楽しくて、大好きだから続けられているんだと思います。大会で優勝したいから毎日体を鍛える、というのではなくて、「トレーニングを楽しみながら、こういう体を作って大会で結果を出すぞ!」と楽しみながら頑張ることが、継続できる一番のポイントじゃないかなと思います。トレーニングが義務のようになってしまう方も中にはいるんですけど、トレーナーとして教える際もそうはならないようにしたいなと思っています。
私自身は自分が競技をやって結果を出しながら、「トレーニングをすることでこれだけアンチエイジングになる」「こんなに肌がツルツルになれる」とか、いろいろなメッセージを伝えていきたいと思っています。体の中から変えていかないと、筋肉も肌も管理できないですから。
――お食事のアドバイスもされるのですか?
そうですね。「体を変えたい」という方にとって、もちろん運動とトレーニングは大事なんですけど、食事の管理は体づくりの6〜7割を占めています。ですから、指導は厳しいですよ(笑)。やる方も真剣だったら、こちらも真剣に結果を出そうと頑張りますから。楽しんでやっている方はその方針で続けられるように、クライアント様に合わせた指導をしています。
――小さい頃や学生時代は、どんなことが得意だったんですか?
私は東京で生まれて、父の仕事の関係で2歳ぐらいから10年間ぐらい北海道で育ったんですけど、体を動かしたりスポーツをするのが大好きで。本当にいろいろなスポーツをやりました。学生時代は部活でバスケットボールやバレーボールをやりましたし、趣味でスキーもしていました。あとは、長距離を走ることにはまってしまって。記録というよりも楽しむ感じで、フルマラソンにも出場しました。
――夢中になると、とことん追求する性格だったんですね。
そういう性格でしたね。「これ」と決めたら集中して、部活なら絶対にレギュラーを取るとか、高い目標を設定して、それに向かって集中してコツコツやっていくタイプでした。期間限定になっちゃうこともあるんですけどね(苦笑)。
――何が一番の原動力になっていたんですか?
自分の満足感だと思います。達成感というよりは、コツコツ努力して作り上げていく過程が好きですね。マラソンでも、「最初は1キロから」という感じで走り始めて、毎日距離を増やしていって。だんだん走れるようになったら先生の教えを聞いて「1カ月に何キロ走るといいよ」と教えていただいて、それをこなしていくんです。
――数値的な目標があると、それに向かって焦ってしまうこともあると思いますが、澤田さんは少しずつ習慣にしながら、着実にゴールに近づいていったんですね。今もそうですか?
今は特にそうですね。やっぱり、年齢のギャップはすごくありますから。周りは自分よりも若い方が多いので、そういう方と同じステージに立つためには、同じことをやっていたら絶対に勝ることはできないので、自分なりの見えない何かを持っていかないといけないというのはいつも思っています。それは、トレーナーをしている時にもいつも話しますね。
――澤田さんが本格的に体を鍛え始めたのは何歳の時だったのですか?
始めたのは51歳の頃で、大会でのデビューが53歳です。それまでもちょこちょこジムには通っていたんですけど、やっぱり私の中でボディビルダーは違う世界の人だと思っていたので、「筋トレはしない」という思いが頑なにあったんですよね。元々、身体的に男性っぽいところがあると感じていたので、ボディビルをやったらすごい体になっちゃうのかも…?という素人的な意識があったので、ジムに通っていてもスタジオで楽しむようなタイプだったんです。
――そこから、ここまでのめり込むまでにはどんなきっかけがあったのですか?
娘が3歳の頃からダンスをしていて「海外に行きたい」という夢があったので、ダンスチームでレギュラーにさせるために私も頑張ったり、世界大会に一緒についていったり、ステージママでした。すべてを娘に注いでいた感じで、自分が50代に入るまで、娘にべったりだったんです。
私はそれまでの人生で、自分のやりたかったこととか、夢も持たないままきてしまって、「なんでもっと勉強しなかったんだろう」とか、「なんで目標を持って人生を楽しもうとしなかったんだろう?」と考えることもあったので、自分のできなかった夢を娘に託そうとしていたんだろうと思うんです。娘のダンスチームは世界大会で優勝したり、すごく頑張っていたんですが、高校2年生の時にアメリカに1年間留学することになって。一人っ子なので、いなくなったら私がどうなるんだろう?と周りがすごく心配してくれて。娘に注いでいた時間を自分のために使おうと考えて…まぁ、それがきっかけで本格的に体を鍛え始めました。娘はその後、大学でも海外に行くことになって、長く離れてしまうことになったんですけれど、私にも目標ができました。
――最初はどんなことが目標だったんですか。
娘がいつも好きなことをやっているので、すごく輝いていたんですよ。それで、海外から帰ってきた時にキラキラの姿で英語もペラペラになっているんじゃないかと思ったら、再会した時に私が疲れたおばさんじゃいけないなと思ったんです。彼女に負けたくないという気持ちとか、「ママどうしたの?すごいね!」って言われたいという気持ちがあったから頑張れたと思います。
――大会に初めて出場したきっかけはなんだったんですか?
2013年に、ベストボディ・ジャパンという大会に知人の誘いで出場したんです。今では大きな大会になっているんですが、当時はできたばかりの小さな大会だったので、20人ぐらいの中で優勝させていただきました。
――デビュー戦で優勝とはすごいですね! その時に、気持ちの変化はありましたか?
その時はゴールドジムのトレーナーの方にメニューを作ってもらい、そのトレーニングを1年間くらい毎日続けることで優勝できたんですが、目標を持つことって楽しいなと改めて思いました。
――それで、続けていこうと。
ええ。「東京で大きな大会をやるから出ないか?」って誘われたんですよ。その時に、自分一人でやるトレーニングではこれ以上体を変えるのは限界だなと思ったんです。それで、知り合いのボディビルダーの方にトレーナーの方をつけてみたいんです、と相談して、紹介していただいたのが今のトレーナーで、本野卓士さんでした。
――「筋肥大職人」という肩書を持っているすごい方なんですよね。
そうです。大会に出る上ではトレーナーの存在がすごく大事ですし、相性もあると思います。本野さんは、「自分のトレーニングをするんだったら、自分だけを信じて他のトレーナーのトレーニングを入れずに頑張ってほしい」というはっきりした方針だったので、まだひよこ状態だった私は、トレーナーが親鶏だと思って一途についていきました。
――それで、次々とタイトルを獲得されていったんですね。頂点を目指そうという確信が芽生えたのは、どのタイミングだったのですか?
それが、本野トレーナーに出会って2回目に出たベストボディの東京大会では、まったく順位をいただけなかったんです。割と絞ってバキバキの体で行ったんですけど、大会によって評価基準は違うので、その大会で求められる筋肉や体ではなかったんです。ただ、そこまで体を作ったから、本野トレーナーが「その体を生かせる大会に出た方がいいよ」と言ってくださって。自分でもその道もいいかなと、思い始めていました。
ちょうどその頃に、山野内里子さんという、その時の女子フィジークのチャンピオンの方にお会いする機会がありまして。本野トレーナーが育てていて、大会のためにポージングの練習をしに来られていて、「ぜひ見て行った方がいい」と言われて見せていただいたんですよ。
そうしたら、洋服を着ていると小柄な女性なのに、脱ぐとこんなにすごいの?っていうギャップが素敵で、ポージングをとった時にはさらにすごい体になって、本当に格好良かったんですよ。その時に、ボディビルって特別なものじゃないんだ、と感じたんです。「私はこれをやりたいんだ!」って、その時に素直に思いました。
――明確な目標ができたんですね。毎日トレーニングを続ける中で迷いが生まれたり、スランプに陥ったりする時はありませんでしたか?
「今日は疲れてトレーニングをやりたくないな」という日が続くようなことはありませんでした。いろんな大会に出るためにひたすらトレーニングに打ち込むことが楽しくて、あまり大きな挫折はなかった気がします。「自分の体がどれぐらい大きくなった」とか「逆に何が足りていないのか」ということも、あまり意識していなかったんです。それを見ていたトレーナーは、「腕が太くならないな」とか、悩んでいたと後から知ったのですが、私自身はただひたすらトレーニング…でした(笑)。
――それだけ本野トレーナーとの相性も良かったんですね! 日々のトレーニングの中で幸せを感じるのはどんな時ですか?
最近、チャンピオンになってから「自分の体を毎年変えていかなきゃいけない」という意識が強くなりました。それで、トレーナー業と並行して体の勉強をするようになってからはさらに意識が変わってきたので、新しく教えられたメニューやトレーニングの種目が自分のものになったときはすごく嬉しいですね。
トレーニングは単純なようで、自分のものにするのはすごく難しいですね。例えば肩のトレーニングをするときには、肩に負荷をかけながらしっかり重さを感じて、終わったら「パンプアップした!」っていう実感を楽しむんですけど、その感覚は一回じゃなかなか得られないものです。それを重ねて、「このトレーニングは、この軌道だ!(体が)大きくなれる」って、自分の感覚にできる瞬間があるんです。
――それはトレーナーとして、教える側でも生きているんですね。
そうですね。「このメニューをやってください」と伝える時に、それができない場合は、自分でも実践しているから理由がわかります。「肩甲骨を下げて体を引く」と言葉で覚えるのとは違って、「これだと筋肉に負荷が入ってないな」ということが一目見てわかるので、それはトレーナーとして面白いところです。だからこそ、自分のものにしてくれた時は一緒になって喜び合っています(笑)。
――大会で勝った時に、娘さんはどんなふうに声をかけてくれるんですか?
「おめでとう」の一言だけとか、割とクールです(笑)。「今回は残念な結果だったんだ」って言った時も「ふーん、そうなんだ」という感じなので(笑)。いろいろ言われないので逆にいいですね。彼女は彼女で今は、ダンスを教える側に回っていて、自分でもチームを組んでたまに大会に出たりもしています。
――それぞれに道を極めていて、素敵な二人ですよね。世界大会でのタイトル以外に、今後澤田さんが新たにチャレンジされたいことはありますか?
始めた時から目標が世界だったので、「世界で結果を出せる体を作る」ことが大きな目標です。「優勝したい」じゃなくて、「優勝できる体を作る」ことです。ステージに出てきた瞬間に「この人1位だな」と確信してもらえるような“隙のない”体を作ることが、本当の「優勝」ということなだと思いますから。今回は優勝できませんでしたけれど、その前の結果が割れてしまった時点で、「自分の思ってた通りの体にはなってないんだな」と思いました。
――さすがに目標が高いですね。年齢とともに体を進化させているのはすごいです。
ありがとうございます。自分が続けていられる限り、何歳からでも始められるし、何歳まででもできるよ、っていうメッセージを皆さんに伝えていけると思うので、頑張りたいと思います。
――澤田さんのように打ち込めることを見つけて、それを続けていくためのアドバイスをお願いできますか?
夢中になれることを探すよりも、いろいろなことに対して目標を作ってコツコツ取り組んでみることで、楽しいことに出会えるんじゃないかなって思います。若いうちは何度失敗しても、私のように50代になってからこんなに好きなことを見つけて、第二の人生を楽しめることもありますから。「人生は一つじゃないよ」っていうことを伝えたいですし、「一回失敗してもまだまだ大丈夫。まだ何十年もあるんだから」って言えるぐらいの気持ちになったので。前向きに目標を探していけば、自分の「好き」が見つかるんじゃないかなと思います。
――世界大会での活躍を期待しています! 本日はありがとうございました。
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ナカジマ ケイ
スポーツや文化人を中心に、国内外で取材をしてコラムなどを執筆。趣味は映画鑑賞とハーレーと盆栽。旅を通じて地域文化に触れるのが好きです。
生活・趣味
2023.11.2
この記事を書いた人
牧野 篤
東京大学大学院・教育学研究科 教授。1960年、愛知県生まれ。08年から現職。中国近代教育思想などの専門に加え、日本のまちづくりや過疎化問題にも取り組む。著書に「生きることとしての学び」「シニア世代の学びと社会」などがある。やる気スイッチグループ「志望校合格のための三日坊主ダイアリー 3days diary」の監修にも携わっている。
第28回記事で紹介した、Iターン者で組織された「ユタラボ」(一般社団法人豊かな暮らしラボラトリー)の活動の結果、たとえば「viva! あそびば」の利用者は、2020年度、中高生143名が延べ1142名、翌21年度は2月の時点ですでに中高生255名、延べ1275名となっています。
また「ミライツクルプログラム」では、2021年度に高校生が活動主体となる事業が41生まれ、総計85回の地域活動が行われています。さらに、これらの活動を活かして、いわゆるAO入試に臨んで、大学進学を勝ち取った生徒が2020年には2名、21年には12名に上っています。
また、「オモイをカタチにプロジェクト」には、2020年度に39名、21年度は1月までの時点で35名の参加があり、そのうちの52.8パーセントが20歳代、58.3パーセントが女性でした。このうち、86.2パーセントの参加者が地域自治組織に関心を持ったと答えています。
そして、この取り組みから、鎌手地区で20歳から40歳代の若者たちが「かまて地域づくり協議会 魅力づくり部会(通称鎌手チャームラボ)」を立ち上げ、それをユタラボが支援する関係ができています。これはまた、ユタラボの取り組みが、地域自治組織内に若者たちのグループを生み、それが地域づくりに積極的に取り組み、次の世代を育成するという、ある種のひとの代謝関係の形成につながっていることを示しています。
このことはさらに、UJIターン者を受け入れることにつながり、ユタラボができてからすでに8名がユタラボの支援で中山間地区に「空き家」を借りて暮らし、地域自治組織をはじめとする地域の団体に積極的に参加しています。この背景には、「豊かな暮らしトークセッション」や「益田暮らし体験ツアー」などの取り組みがあり、さらにその背景には、「MASUDA no Hito」ウェブサイトのブログ執筆や「ライフキャリアをデザインできるまち益田」のプロモーションなど、より広域的な発信が存在しています。
この他、ユタラボは伝統文化の石見神楽の伝承事業にも取り組み、「IWAMIカグラボ」を運営し、かつ行政へも積極的な提言活動を進めています(※)。
※以上のユタラボの成果については、一般社団法人豊かな暮らしラボラトリー『益田市役所とユタラボの協働による成果の抜粋と今後の展望—令和2-3年度(2021-2022年度)事業の総括—』による
益田市ではさらに、ここまで述べてきたような「ひとが育つまち」の取り組みの総括として「ひとが育つまち益田フォーラム」を毎年開催しています。これはまた「益田びとの“ライフキャリア”実践発表会」と呼ばれます。
2021年度のフォーラムは、「ふるさとに“旗(志・Mission)”を立てる!〜集い、躍動する大人達〜」をテーマに、2つの分科会ステージ「旗(志・Mission)を立てるひとたち」「旗(志・Mission)を立てたひとたち」が設けられ、10の分科会が開かれました。
それぞれが「益田版カタリ場」の様相を呈するような語りあいの場となり、一年間の取り組みの成果が熱く語られ、それに触発された若者たちが自分の未来への思いを語る場面があちらこちらに見られました。
このフォーラムはまた、中学生たちが躍動する場でもあります。ユタラボの若者たちに混じって、中学生たちがスタッフとしてかかわり、彼らが企画と運営にもかかわるとともに、当日の全体司会をも担当するのです。
益田市の「ひとが育つまち」の営みが映し出しているのは、ひとが社会の目的となると、ひとは自ら育ち、社会を育てるのだ、ということではないでしょうか。
ひとは、経済や社会の道具や手段とされるとき、他者を配慮したり、誰にとっても「よきこと」に気づいて、それを実践しようしたりしなくなります。
なぜなら、道具や手段としての自分は、他者からそのように仕向けられ、評価され、価値化されて、誰とでも、そして何とでも交換可能な商品のようにして、この社会に組み込まれ、動かされますが、その動かされている自分は他者にとっての使用価値でしかない、つまり自分の悦びに還ってくるものではない存在のあり方を強いられてしまうからです。
しかし、これまで見てきたような益田の子どもたちやおとなたちは、皆が、それぞれに目的として、誰かにかかわり、誰かにかかわることで自分に自分が還ってくるあり方として、そこに存在しています。
そのような自分は、常に誰かのことを気にかけ、配慮し、「よきこと」に気づいて、それを実現することで、自分が「よきこと」へと変わっていく、その変化を楽しみ、うれしく思い、そうすることで社会つまり人とのかかわりのあり方がよりよいものになっていくことを実感して、さらに自分という「よきこと」を実現しようとする、そういう自分を目的としながら、社会をよりよくしていこうとする、際限のないやりとりの関係へと自分をつくりあげていくことになります。
そこに私たちは、人間の基本的で本質的なあり方を見ることになるのではないでしょうか。ひとは自ら目的となることで、自ら育ち、社会を育てる。益田市の「ひとが育つまち」とは、また「ひとによって育てられるまち」のありようでもあるのです。
そして、この「ひとが育つまち」は、子どもたちのやりたいことがあふれ出てやむことのないまちでもあるのです。益田の高校生の言葉です。「やりたいことが次から次へと出てきて、人生100年なんて、とても短い気がする! 生まれてきてよかった。」
*****
いかがでしたでしょうか。「ひとが育つまち」、こんな「まち」があるのです。
この「まち」に魅せられて、多くの若者たちが訪い、活動に参加し、また定住を始めています。私の学生や知人の中にも、一年間休学や休職をして、ユタラボのインターンとして滞在し、その後、新たな人生の方向を見出した者がいます。
ユタラボはインターンを常時募集しています、関心をもたれたら、一度、連絡を取ってみてはいかがでしょうか。
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仕事・働き方
2023.10.26
遠山敦子(とおやま・あつこ)
1996年生まれ。大阪府出身。虫、鳥、カメ、ウサギなど動物に親しむ子ども時代を過ごす。10代からバンド活動に打ち込みメジャーデビューを目指すが、20代に入り動物に関わる道を志す。2020年、『情熱大陸』(TBS)で紹介されたペット探偵・藤原博史氏に衝撃を受け、ペットレスキューに入社。
Instagram:petrescue1997
――ペット探偵というのは動物相手の特殊なお仕事だと思いますが、やはり遠山さんは動物が好きなのですか?
大好きです。物心ついたときから動物とともに暮らしてきて、今も、猫4匹、大きめの亀3匹、うさぎ、ハムスター、インコ、カメレオン、魚(ハリセンボン、ドジョウ、金魚)と、たくさんの子たちに囲まれて生活しています(笑)。
――めちゃくちゃ多いですね(笑)。お世話が大変ではありませんか?
もう慣れました(笑)。家にいる間は何かしら動物のお世話をしているんですけれど、幼い頃からずっとそうした生活をしてきたので、もはや大変と思うことはないです。
――どんな子ども時代だったのですか?
父と兄と3人でよく山へ遊びに行って、動物を捕まえていました。父が根っからの動物好きだったんです。
山では、「このヘビだけはさわるなよ」と危険な動物だけ父に教えられて、あとはそれぞれ好きに、鳥や昆虫、トカゲなどを捕っていましたね。
――女の子は虫が苦手だったりしますが、遠山さんは怖くなかったんですか?
全然怖くなかったです。それは父の背中を見ていたからかな、と思います。
山遊びのとき、誰がいちばん楽しんでいるかっていうと、父なんです(笑)。「これだ」と獲物を定めたら、そっと静かに歩み寄って、パッとすばやく虫取り網を振りかざして。夢中になってそういうことをやっているんですよ(笑)。その姿に影響されて、私も動物に興味を持つようになったんです。
ただ、家族のなかで母だけは動物が大の苦手で、何か捕まえて連れ帰ってくるたびに、「いい加減にしてー!」と怒っていましたけどね(笑)。
――お母さんは大変でしたね(笑)。遠山さんが初めて自分でお世話した動物は何でしたか?
スズメです。弱って飛べなくなっていたのを保護したのがきっかけでした。鳥用のエサをストローで少しずつ与えたり、鳥かごから出して運動させたりして、飛べるようになるまで飼育していました。最終的に回復したので放鳥しましたが、そのときはすごく寂しかったですね…。
――愛情込めてお世話していたんですね。
お世話することを目的としなくても、ただ捕まえて、体をさわったりにおいを嗅いだりするのも好きで、よくやっていました。
小学生時代は、給食で出たパンを持って公園へ行って、ハトたちにちょっとずつ与えては、目の前に来た一羽をばっと手早く捕まえて、裏返してお腹を観たりしていました。横にいる友だちはびっくりしていましたけどね(笑)。
――そのまま中学に上がっても動物をよく捕まえていたんですか?
中学ではちょっと生活が変わりまして…実は中2で島留学をすることになったんです。当時暮らしていた大阪を離れて鹿児島の離島へ1人で行き、全然知らない人のお宅で暮らし始めました。
――え!どうしてそういうことになったのですか?
親に突然「島へ行ってこい!」と言われて…。というのも親は、「中学に上がったらこの子は落ち着いて勉強するようになるだろう」と思っていたみたいなんですが、私は遊んでばかりいたんですね(笑)。それで「勉強してこい」ということで島留学の話を持ち出してきたんです。
――それをすんなり受け入れたんですか?
いえ、イヤでしたよ(笑)。でも、自分でもわけがわからないうちに話が進んでしまって。今はいい経験をさせてもらったと思っていますが、当初は乗り気じゃなかったです。
――そうですよね、13歳で親元を離れるなんて。
家族よりも一緒に遊んでいた友だちと離れたことのほうがつらかったですね。環境もがらりと変わって。でも、そんな心細く感じている私を明るくさせてくれたのはやっぱり動物だったんですよ。
島には、大阪では見たことがない動物がたくさんいてワクワクしました! 島ゴキブリという草履くらいの大きさのゴキブリがいたり、サソリもどきというサソリっぽい虫がいたり。「なんだこれ!」と興味津々で観察していましたね(笑)。見るだけじゃ飽き足らず、あるとき森にいた野生のヤギを捕まえて、ホームステイ先へ連れ帰って勝手に飼い始めたこともあります(笑)。
――また捕まえていたんですね(笑)。
でも、そういうことをしても島の人は全然怒らなくて。何も言わずにやりたいことを自由にさせてくれました。
――楽しく過ごせたんですね。
そうですね、なんとか(笑)。おかげで精神的に強くなれた気がしています。始めは、信号もない、人口も70人くらいしかない、とんでもないところに来てしまったと思ったんですけれど、それなりに楽しく過ごせるようになって、「何事もなんとかなる」と思えるようになって。いろんなことに挑戦できるようになりました。ペット探偵という特殊な仕事に飛び込めたのもこうした精神性を培っていたからかもしれないですね。
――プロフィールによると、その後バンド活動に打ち込んでいたそうですね?
ええ。高校時代に出会った友人がソロで音楽活動をしていて、その子が「本当はバンドをやりたいんだよね」と言ったことから私もやることになりました。音楽って全然興味がなかったんですけど、その子の表現にはすごく惹かれるものがあって、自分もやってみたいと心動かされたんです。
――プロを目指すようにもなったとか?
その友人とは別にもう1つ組んだバンドがあって、そっちの活動がだんだん大きくなってきたんです。鹿児島のテレビ番組に出演させてもらったり、CM曲を作らせてもらったり。それで「東京へ出て、メジャーデビューしよう!」となって。
――その頃は動物への思いというのは?
動物はずっと好きでした。バンド活動をしている間も何かしら飼育していて。ただ、自分の道として進みたいのは、その頃は音楽でした。動物への思いは、売れて有名になったら、SNSなどで発信しようと考えていました。
じつは、バンド活動をしている間に思い立って、鹿児島県内の動物愛護センターを訪れたことがあったんです。そこで見た光景が衝撃で…。居場所のない犬や猫たちが狭い檻の中に入れられていたんです。しかもその檻は通路の端から端までずらりと並んでいて。「こんなにたくさん生活する場所を失った子たちがいるんだ」とショックを受けました。だからどんな形でも、動物を救える活動ができればと思っていたんですよね。
――芸能人で保護犬・保護猫に携わる活動をされている方もいますよね。
まさにそういった活動をイメージしていました。でもプロを目指すために上京して1年後、バンド活動に区切りをつけて、本格的に動物に関わる道に進むことを決めました。
――何か心境の変化があったのですか?
特別なきっかけがあったわけではないのですが、5年間バンドをやってきてふと将来のことを考えたとき、「やっぱり動物に関わることがしたい」と思ったんです。
音楽もたしかに好きで、毎日そのことばかり考えてきたんですが、私が心の底から本当に好きだったのは動物でした。好きのエネルギーが、動物のほうが大きかったんです。
――そう気づいてからはどうされたのでしょうか?
バンド仲間に話をしてやめさせてもらい、「愛玩動物飼養管理士」(※)という資格の勉強を始めました。動物が好きでも専門的なことは何も知らなかったので、まず知識を得ようと考えたんです。
※愛玩動物飼養管理士
ペット(愛玩動物)の習性や正しい飼い方、動物関係法令の知識などを評価する資格。
――「ペット探偵」の仕事はどのタイミングで知ったのですか?
ちょうど「愛玩動物飼養管理士」の勉強をしているときでした。たまたまテレビで『情熱大陸』を見て、弊社の代表である藤原博史が出演していたんです。
番組を見てすぐに「ペット探偵の仕事がしたい!」と思いました。自分が迷子になったペットを見つけ出すことができたら、動物愛護センターで見たような子たちを少しでも減らすことができないかもしれないと考えて。
その後は、『情熱大陸』を何度も見返して、藤原さんの著書も熟読して、YouTubeに上がっていた関連動画も見まくって、ペット探偵の仕事がどういうものなのか自分なりに理解しようとしました。そのうえで、「大変な仕事だろうけど、やろう!」と覚悟を決め、藤原さんにメールで連絡を取りました。
――求人募集への応募などではなく突然連絡されたんですよね?メールにはどういったことを綴られたのですか?
「動物が好きで、困っている動物を助けたいんです!」という思いをそのまま書きました。とくに自己アピールになるようなことは書いていなくて、なんだったら履歴書も添付していません。でも、かといって長文を書いたわけでもなく。シンプルに自分がどんな人間であるかを綴り、あとは「とにかく会ってほしい」とお願いしました。経験もスキルも何もないけれど、とにかくずっと動物にふれあってきた私を知ってもらって、そこから具体的な話をさせてもらいたかったんです。
そしたら本当にお会いできることになって、会ってお話しさせてもらったその日にペット探偵の仕事をすることが決まりました。
――急展開ですね…!
後から聞いた話ですが、『情熱大陸』を見て藤原さんに連絡した方は他にもたくさんいたそうです。でも驚いたことに、実際に会ったのは私だけだそうで。
――すごい!
決して特別なメールを送ったわけではないんですが…ただ幼い頃からの自分を文章に表しただけで。ただそれが、藤原さん曰く、「伝わるものがあった」そうです。何件か連絡があったなかで、1人だけ印象が違ったと。
――飾り気なく自分を出したのがよかったのかもしれませんね。
――いざペット探偵の仕事をするようになっていかがですか?
本当にこの仕事は自分に合っていると思います。というのも、やっていることが子どもの頃とほとんど変わらないんです。動物を見つけ出して捕まえて、と。しかも今は、捕まえた動物をご家族のもとへと帰すというところまでやっているので、喜びが昔より何倍も大きいですね。
――迷子になったペットを捜すのは、遊びの虫捕りよりはるかに難しいと思うのですが、どのようにアプローチしているのでしょうか?
私は猫の捜索が多いのですが、まず飼い主様にその子の生育環境や性格をうかがいます。これは捜索方針を決めるうえでとても大事なことなんです。
例えば、何年も室内で過ごしてきた子だったら、大きな車が通る外の世界にとても驚くはずです。だからどこか落ち着ける場所に移動すると思うんですよね。ただ、どこに向かうかはその子の性格次第。臆病だったら狭いところに隠れて縮こまっている可能性がありますが、大胆で人が好きな子だったら人通りの多いところへ行くかもしれません。
逆に、最近まで野良だったという子なら、外歩きに慣れているので一定の場所に留まっていないと思います。ある程度広く動き回っていることが考えられます。
――どういう行動をするか、そのペットの目線で考えるんですね。
そうですね。実際に見つけたときも、すぐ捕まえずに、その子の視線や足の向きをよく観察して、「あ、こっちに進みたいんだな」などと考えていますね。
――そういった動物目線はやはり小さい頃から培ってきたのでしょうか?
だと思います。父と兄と虫捕りをした日々や、島留学で動物にふれあった日々が、動物をよく観る目を養ったんでしょうね。おかげで仕事始めの日から動物の行動や気持ちを考えるのがスムーズにできました。
――ほかにこの仕事をやってよかったことはありますか?
動物のためなら苦手なことも乗り越えられたことですね。私は人とのコミュニケーションが苦手だったんですが、迷子のペットを見つけ出すには飼い主様だけじゃなくご近所の方に協力してもらわないといけない場面もあるので、自分からきちんと話していけるようになりました。あと夜中に捜索していると不審者と疑われることもあるので、ちゃんと説明できるようにと会話能力が磨かれた部分もあります(笑)。
こうやって振り返ってみると「好き」からもらえるパワーってすごいですね。好きが強いとそれだけ壁も乗り越えられます。
――「好き」から道を拓いてさらに自分が磨かれたんですね。今後もご活躍ください!ありがとうございました!
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この記事を編集した人
ほんのまともみ
やる気ラボライター。様々な活躍をする人の「物語」や哲学を書き起こすことにやりがいを感じながら励みます。JPIC読書アドバイザー27期。
仕事・働き方
2023.10.19
山部茜(やまべ・あかね)さん
ガイドネーム:さくら 1987年、東京都生まれ。東京環境工科専門学校で学んだ後、2007年4月に長野県松本市上高地に移住。五千尺ホテル上高地のネイチャーガイド部門「ファイブセンス」で上高地の自然・文化を伝えるプロのガイドに。2011年、ナショナルパークガイドディレクターに就任。2020年、ファイブセンスが第15回エコツーリズム大賞「特別賞」受賞。2021年「優秀賞」受賞。同年、著書『ネイチャーガイドさくらの上高地フィールドノート』(信毎書籍出版センター)を上梓。
上高地ネイチャーガイドFIVESENSE
X(旧Twitter):ネイチャーガイド ファイブセンス@上高地
Instagram:NATUREGUIDE FIVESENSE
YouTube:上高地ネイチャーガイド ファイブセンス
公式サイト:上高地ネイチャーガイド FIVESENSE
――上高地は、古くから“神の降り立つ地(神降地)”とも称され、急峻な山岳景観が残る“聖域”として外界からの立ち入りが厳しく制限されているそうですね。
そうなんです。上高地は松本の市街地から車で1時間半くらいかかるのですが、マイカーを持ち込むことはできず、バスやタクシーが入れるのも上高地バスターミナルまで。そこから先は徒歩でしか移動できませんし、冬は立入禁止になります。厳しく保護されたエリアで、来るためのハードルはちょっと高めですが、だからこそ美しい風景を見ることできて、年間120万人くらいの方が訪れています。
――120万人はすごいですね。上高地には、どんな魅力があるのでしょうか?
上高地は、長野県松本市にある標高1500mの山岳リゾートです。穂高連峰という3000m級の山々が連なり、主峰の奥穂高岳は標高3190mで国内第3位の高さがあります。けれども上高地自体は非常に平らで、歩くのが得意じゃない方でも、山や梓川の清流を眺めながら、のんびり歩いて散策することができるんですね。山に降った雨や雪解け水が集まってくる水の豊富なエリアでもあります。
山と湧水の風景、この2つを楽しみに来られる方がほとんどで、県外からのお客様が9割くらいを占めています。上高地を玄関口にして、山に登る方も1割くらいいらっしゃいます。
ただ、上高地といえば、穂高連峰と梓川の風景があまりにも有名すぎて、他の魅力が注目されにくい面がありました。上高地の魅力はそれだけじゃないぞと伝えたい、そんな地域の要望を受けて2005年に設立されたのが、私が所属している「ファイブセンス」というネイチャーガイドの団体です。
私たちは、上高地に常駐している唯一の民間ネイチャーガイドでして、上高地の中心と呼ばれる河童橋のたもとにある五千尺ホテル上高地を拠点に活動しています。
――ネイチャーガイドというのは、どのようなお仕事なのですか?
人と自然を結びつける仕事ですね。上高地に生息する動植物や、ありのままの自然をゆったりと、 より身近に感じていただけるようわかりやすくガイドしています。
一般的に観光で訪れる場合は、大正池・河童橋・明神・徳沢という4つのエリアを散策することが多いのですが、私たちがやっているガイドウォークは、短いものでは1時間、長ければ6時間のコースがあって、通常散策の2倍の時間をかけて、上高地の様々な魅力をご案内します。
お客さんと一緒にゆっくり歩いて、ただ歩いているだけでは見逃してしまう、地形、歴史、風景から、花、鳥、動物、昆虫なども含めた自然についてご紹介する、そういう仕事ですね。
――楽しそうですね!お仕事のやりがいや魅力は?
ネイチャーガイドの立ち位置って難しくて、ガイドが主役になるのか、お客さんが主役になるのか、それとも上高地が主役になるのか、人によるんですね。どれが正解というのはなくて、お客さんにもよりますし、団体さんごとの理念によっても違います。
たとえば、環境省さんのボランティアだと、環境省さん側の「これを伝えてほしい」という啓発の目的が強かったりしますし、定年退職された方が社会貢献としてガイドをする場合は、自分の知識を伝えることが大事な目的になっていて、以前はそうしたボランティアのガイドが主流でした。
私たちはホテルやレストランなどの運営会社の一部門ですから「上高地の魅力」と「お客様の興味」をマッチングさせて、お客さんに上高地体験を満足していただくことを第一に考えています。お客さんの「好き」に合わせて、上高地の見どころをご紹介していく、黒子的な役割ですね。
――自分が伝えたいことではなく、お客さんのニーズに応える?
はい。なので、いろんなお客さんの目線で上高地の楽しみ方を追体験できるんですよ。鳥が好きな方、花が好きな方、苔が好きな方、それぞれの「好き」によって上高地の見え方も変わります。お客さんのニーズは本当に千差万別で、自然に興味があるわけじゃなくて「上高地を散策する同行者がほしかった」という方もたくさんいます。そういう場合は、その方の人生経験を聞かせていただいたりもします。
こちらが楽しみを提供する側ではあるのですが、たくさんの「好き」に出会え、その方の「好き」を共有させていただける。それが、この仕事の楽しさの1つかなと思います。
――これまで何人くらいのガイドをされてきたのでしょう?
1年間で1000人くらい、私は今年で17年目ですから、単純計算すると1万7000人ですかね。
――1万7000人!それはすごい人数ですね。
結構、膨大な数ですよね(笑)。1万7000人の「好き」を共有させていただいて、自分の世界も広がりました。これはやっぱり大きな魅力ですね。
――ネイチャーガイドになりたいと思ったのは、いつ頃からですか?
それが「ネイチャーガイドになりたい」と思ったことは、実は一度もなくて(笑)。今の私はバリバリの接客業ですが、もともとは接客業に就くつもりは一切なかったんです。
子どもの頃は、絵を描くのが好きだったので漫画家になりたいと思っていましたが、そういうのって実現しようとしないまま忘れていくじゃないですか。私もそういうかんじでホワッと忘れていって。
将来どうしようと初めて考えたのは、たぶん高校進学のときで、自然を相手にしたいと思って農業高校を選びました。その後は、自然環境保全学という学科がある専門学校に行って、ずっとそういう方向で勉強していました。
――自然が好きだったのですか?
それがそうではなくて(笑)。東京都の八王子で生まれ育ったので、小さい頃から高尾山に行っていましたし、通っていた保育園も野生児っぽい育て方をするところだったので、自然を身近に感じてはいたんですけど、特別好きというわけでもなくて。
私は小さい頃から人とのコミュニケーションが苦手だったので、農業高校に行って自然相手の仕事に就けば、人間関係もあまりないだろうし、人と関わらなくて済むかなと。
――「人と関わらない仕事」をしたかった?
そう、まさにそうなんです。そういう浅はかというか、ちょっと後ろ向きな動機だったんです。若者あるあるですよね(笑)。
子どもの頃は、学校に行ってから帰ってくるまで、一言も喋らないことはざらでした。クラスでも浮いていて、打っても響かない子どもというか、周りが何を話しかけても無言だし、ずれた答えしか返ってこないから、話しかけるのも面倒くさい。たぶんクラスに1人くらいそういう子がいたと思うんですけど、そういう子どもだったんですね。
――人と話したくなかった?
話したくないわけではなくて、話す能力がなかったんです。言葉のレパートリーがないとか、返事のバリエーションがないとか、何を言われているのかわからないとか、そういう能力の問題ですね。だからといって悩んでいたわけでもなくて。
悩むって「今とは違う自分になりたい」とか「なんで自分はこうなんだろう」と考えるものじゃないですか。そういう発想すらなくて、そうじゃない自分が想像できなかった。
このままじゃいけない、何とかしなきゃ。初めてそう思ったのは、就職するときでした。専門学校にはインターンシップ制度があったので、職場体験に行った結果、「人との関わりを避けると何も仕事がない」ということに、ようやく気がつきまして。
こんなにも人と接することが苦手なら、社会人になる第一歩として、あえて苦手なことに挑戦して、接客業をみっちりやるのもありかもしれない。そう考えて、ガイドという仕事を選んだんです。
――「人と関わらない仕事」から「多くの人と関わる仕事」に。180度の転換ですね。
専門学校2年生のときに、軽井沢でツキノワグマの保全や獣害対策をしているNPO法人でインターンシップに参加したことがあったんです。当時は「人と関わる仕事」をしたくないから「自然を相手にする仕事」に就きたいと考えていたのですが、獣害対策には「人」が大きく関わります。
その土地で人間と野生動物がどういうふうに暮らしていて、それがどんな問題を起こしているのか。それを知るためには、人とのコミュニケーションが不可欠です。そのときに気づいたんですよね。
自然を相手にするということは、人を相手にすることなんだ。人の社会の中で仕事をする以上、人と関わり、向き合っていくことを避けては通れない。そのためには、コミュニケーションのスキルが絶対に必要になる。それがなければ、他にどんな仕事もすることはできないと。
ネイチャーガイドを選んだのは、「山や自然なら馴染みがある」くらいの消極的な動機だったのですが、とにかくコミュニケーション能力を身につけたくて、それを第一に考えていました。
――実際にガイドの仕事をやってみて、どうでした?
やっぱり最初は大変でした。もともとがコミュニケーションを取らないタイプの人間だったので、お客さんに合わせて常にテンションを高く保っておかなくてはいけない…というところから、もうすでにしんどいんですよ(笑)。
もちろん接客業としてのノウハウは、いろいろあるんです。お客さんの方を向いて話すと声が遠くまで飛ぶとか、複数人のお客さんがいるときの目線の順番とか、細かいノウハウはたくさんあるんですけど、私の場合はそれ以前の問題というか。そもそも人とのコミュニーションが苦手だったので、人と普通に接することができるようになるまで時間がかかりました。
――どのようにしてコミュニケーション能力を身につけたのでしょうか?
うーん…慣れ、ですかね、やっぱり。どんなにノウハウを覚えても、場数を踏まないことにはどうすることもできません。たくさんのお客さんをご案内した経験、これに尽きるような気がします。
先ほどもお話したように、私たちガイドはそれぞれ年間1000人くらいのお客さんをご案内します。ガイドウォークは2時間のコースが多いのですが、6時間のコースもあります。毎日何時間も何人ものお客さんとご一緒させていただいて、上高地の楽しみ方や自然の魅力をお伝えする。この経験が大きかったのだと思います。
――ネイチャーガイドは、話すだけでなく、草花、鳥、動物、昆虫、季節ごとの変化など、多岐にわたる、ものすごい量の知識が必要になると思います。それを覚えることも相当大変だったのではないでしょうか?
そういうガイド特有の大変さは、私はあまり感じなかったんです。もちろん1年目はわからないことだらけでしたが、最初に覚えるきっかけって、お客さんに聞かれてわからないことなんですね。
たとえば、お客さんが珍しい鳥を見つけたら、まずはその鳥を一緒に見て楽しむ。その鳥を見つけたことを「すごいですね」と伝える。わからないことは、あとで調べて覚える、その繰り返しです。
「わからない」と焦って、ガイドがネガティブな反応をしてしまうと、お客さんが「悪いこと聞いちゃったかな」と罪悪感を覚えてしまいます。わからないことがあっても「聞いて良かった」と思ってもらわないといけない。それが何より大切なので、まずはお客さんと一緒に楽しむ。
ガイドという職業は「教える」イメージがありますが、上高地という地域には、たくさんのファンがいて、ガイド1年生の私なんかより上高地に詳しい方もたくさんいらっしゃいました。自分にできることは「好き」を共有することだけ。そう思っていたのが良かったのかもしれないです。
――知識よりも「好き」に共感することが大事なのですね。
ガイドを17年やってきた今でも、わからないことはいっぱいあります。自然に関しては、どんなに学んでも本当にキリがないんですよね。
ただ、自分が強い興味を持っている「芯」となるものが1個あると強いです。花はわからないけど、鳥が好きで、鳥のことなら情熱を持って話せるとか。そういうものが1つあると、ガイド全体に芯が通って、お客さんに楽しんでいただけるようになります。
私は花が専門で、農業高校で3年間みっちり学びましたし、専門学校でも植物をメインに生き物全般について学んできました。その基礎知識には、ずいぶん助けられました。
ガイド1年目は、自分がまだ見たことのない風景や季節のことも喋らないといけないのでハードルが格段に高いのですが、1年過ごした経験があれば自信になるので、2年目に入れば、すっと楽になります。
ある程度やっていると質問のパターンみたいなものもわかってきますから、コミュニケーションが苦手だった私でも、3年目になったら、そんなに怖がらずに話せるようになりました。
――東京から地方に移住して、人里離れた山の中で暮らすことはいかがでした?
これは人によって合う合わないがはっきり出るんですけど、私はむしろ楽でした。夏は涼しいし、水も美味しい。住み込みで、ごはんも作ってもらえるし、Amazonだって普通に届きます(笑)。
寮生活で、相部屋で、職場と寮がすごく近くて、プライベートもあるのかないのかわからない生活になるので、合わない人は本当に合わないと思いますが、私には合っていたのだと思います。
上高地は、どの季節も美しいので、ずっと見ていられます。仕事上勉強にもなります。住むことによって、いろんな時間帯や、いろんな日の表情を見られるのは、すごく楽しいですね。
――山岳リゾートのネイチャーガイドという職業が、本当に合っていたのですね。人との関わりやコミュニケーションなど、辛いときはどうやって乗り越えましたか?
ここで踏み止まれなかったら後がない、他のどこにも行くことはできない。そういう危機感が強かったから乗り越えられたのだと思います。
上高地という地域の面白さや、よそからやって来た自分を受け入れてくれた地域の方々に恩返しをしたい。そんな思いもありました。
それからもちろん、お客さんに喜んでいただける嬉しさですね。ガイドは基本的に同じコースを歩くので「一度参加すればもういいや」が十分あり得るレジャーなのですが、「他の季節もいいですよ」とお伝えたしたことに応えて、もう一回、ご参加いただけるリピーターの方も多いんですよ。
小学校に上がるか上がらないかの小さなお子さんが参加してくださって、中学生か高校生ぐらいになったときに、また来てくれたこともあって、すごく嬉しかったです。
最初はリピーターの方からご指名いただいても「せっかく期待してくれているのにガッカリさせてしまったらどうしよう」とプレッシャーのほうが大きかったのですが、「今回も楽しかったです」と言っていただける経験を重ねて、ガイドとしての喜びを感じるようになってきたのだと思います。
――ネイチャーガイドは、以前は「無料のボランティア」というイメージが強かったと思います。プロのガイドが定着するまで、ずいぶんご苦労されたそうですね。
これは全国のプロのガイド事業者さんたちに共通していることだと思いますが、それこそ私が働き始めた2007年当時は、まだ無料のボランティアガイドが主流だったので「えっ、お金をとるの?」「そんなに高いの?」と言われることが普通だったんですね。
なので「すいません、お金かかるんですよ」と説明しながらガイドをしていた時代が長かったのですが、10年くらい経ったら、それを言われなくなりました。
これは私たちだけでなく、プロのガイドの第一人者、富士山・沖縄・福島・新潟の全国4地域で活動しているホールアース自然学校さん、清里のキープ協会さん、軽井沢のピッキオさん、あるいは屋久島や知床など、いろんな場所でプロのガイドさんが増えてきて、お客さん側もそれらに参加する人が増えてきたことで、お金を払うプロのガイドが一般的になったんだろうなと思っています。
ガイドをする側の意識も変わってきて、上高地にもいろんなガイド団体さんがあって、それぞれ理念は異なりますが、私たちは利益を必要とする株式会社の一部門ですから、お客様のニーズに応え、上高地に来てくださるお客様を増やすことを第一に考えてきたことが良かったのかなと思います。
――山部さんの所属する「ファイブセンス」は、2019年には環境省の「エコツーリズム大賞」特別賞、2020年には優秀賞を受賞しました。社会的な評価も高まっていますね。
エコツーリズムという概念自体が、最近は地域振興、サステナブルな観光形態を主眼にしています。昔の観光客がわーっとたくさん来て、消費され尽くしてしまうようなものではなく、地元の魅力、自然、歴史、文化をちゃんと活かして、それを後世に伝えるような観光業としてエコツーリズムというものがあります。
それを体現している団体さんに授与している賞で、私たちも上高地にお客さんが引き続き来ていただけることを究極の目的としていますので、そこを評価していただけたのかなと思います。
ただ、私たちにとっては、お客様さんの評価がすべてです。来たお客さんに喜んでいただいて、さらにたくさんの方にご参加いただけることが本当の評価だと思っていますので、賞をもらったことを広く知っていただいて、もっとたくさんのお客さんに来ていただけたらなと思っています。
――2021年には『ネイチャーガイド さくらの 上高地フィールドノート』という本も出版されました。山部さんの活動の幅もどんどん広がっていますね。
コロナ禍で厳しい時期もありましたし、上高地は11月から4月までは入れなくなるので、営業できない期間の事業として、私は松本市内で市民講座をやっていまして。その内容が結構たまってきたのと、お客さんからも「この内容で本を作ってくれたら買います」と言っていただいたので、ガイドブックを出そうということになりました。
――文章だけでなくMAPイラストも描かれていて、子どもの頃に好きだったことを活かせましたね。
そうですね。小さい事業部なので、いろいろと自分でやらなきゃいけないことが多くて、お客さんに渡す参加特典のカードの絵も自分で描いていますし、やろうと思えば意外と何でもできて、何でも活かせる、みたいなところもこの仕事の面白さですが、そのぶん大変です(笑)。
――ネイチャーガイドになるために必要なのは、どんなことでしょうか?
基本的にすごいスキルが必要なわけではなくて、やる気さえあれば、というかんじではあるのですが、大切なのは、その団体の理念と自分の働き方がマッチするかどうか。そこが重要で「イメージと違った」という場合に、この住み込みで働く完全に閉ざされた状況は、結構致命的になります。
うちに限らずどこで働くにしても、まずはちょっと飛び込んで試してみる。短めのチャレンジを繰り返して、そこから考える。そういう「まずやってみる精神」がいちばん大事かなと思います。
――ネイチャーガイドに限らず、地方への移住や転職も同じかもしれませんね。
と思います。がっつり地域に関わるようなことは、関わり始めるとどっぷり浸かることが必要になってきます。最初に包み隠さず、「自分はこれをしたい」と伝えて、すり合わせをすることが大事ですね。
――山部さんが、上高地やネイチャーガイドに合っていたと思うのは、どんなことでした?
私はたぶん「そんなにガイドをしたいわけじゃなかった」が肝になっていたのかなと思います。要はこだわりがなかったんです。「これが仕事なんだな」と思ったら、それを普通に仕事としてできた。それがうちの「お客様に楽しんでもらうのが第一」というスタイルと合っていたのだと思います。
私たちの仕事は、お客さんと一緒に歩くことがメインではありますが、それだけではなく、それを下支えする業務もあるんですね。予約をとったり、売上や人員の管理、メンバーの研修など、普通の仕事と同じように、いろんな業務があります。
「ガイドをしたい」という気持ちが強すぎると「そんなこともするの?」となりがちなのですが、私はそもそもガイドをしたいわけではなかったので、バックヤードの作業をわりと嫌がらずにまめにできたんですね。そういう意味では、消極的な動機が逆に強みになったのかもしれません。
――ガイドになって17年。これまでの歩みを振り返って、いかがですか?
良かったのは、長く続けられる職業を選べたこと。内容云々というよりも、長く続けると長く続けたぶん、できることが増えていく。本の出版などもそうですし、長くやっているからこそ、地域の方たちと顔馴染みになれて、いろんな話もできるようになりました。
最初は「人とのコミュニケーション能力をつけたい」という目標だけでしたので、それを身につけたら転職しようと思っていたのですが、3年くらいやってみたら、1年目にできることと、3年目にできることは全然違うんだなと気づきました。
転職したら、それまで積み上げていたものを一回全部捨てて、また1から始めなくちゃいけない。だったら、この積み上げたものを使って長く続けていくほうが、より新しいチャレンジができるんじゃないか、そう思ったんですよね。結果的に「住みやすく、過ごしやすく、自分なりに楽しみを見出せる仕事」を見つけることができました。
――仕事選びにはいろいろな考え方がありますが、山部さんの「あえて苦手なことに挑戦する」という発想には驚きました。職業選択について何かアドバイスをいただけますか?
苦手なことにあえて、というのは良し悪しがあって、自分の限界を見極めないと潰れてしまいます。私の場合は「これくらいならできそうだな」と判断したからではあったと思うんですよね。
結局、どんな仕事もやってみないとわかりませんから、最初は何でもいいと思うんです。あえて苦手なことにチャレンジするでも、これが好きかもしれないからやってみようでも。その飛び込んだところで、そこのものをちゃんと吸収できれば。
入ってみたら、思っていたのと違うことも、思っていたよりもしんどいこともいっぱいあると思います。だけど、それをある程度までは拒否しないで受け入れると、また新しいところに行けます。
もちろん今は「合わなかったらすぐやめろ」の時代ですから、いまどきの考えとは違うとは思うんですけどね(笑)。それはそれで自分を守るためには必要な考え方なので、本当にケースバイケースだと思うんですよ。何でも受け入れろとは絶対に言えないですし。
ただ、私の経験として、とりあえず始めてみて、その職場のやり方でやってみたら、意外と大丈夫で、どんどん面白くなってきた。そういう一例もあるよ、というだけだと思います。
――でも、その結果、苦手だったコミュニケーションも克服できたわけですよね。こうして話していても、話すのが苦手な人だったとはとても思えないです。
好きか嫌いかでいったら、今もそんなに変わってはいないんですけど、大丈夫にはなりました(笑)。コミュニケーションのためのスキルを手に入れることができたことは、私にとってすごく大きかったです。
やっぱり、それができないことが辛かったんですよ。苦手でいることが負い目でしたし、そういうしんどさがなくなったからこそ「苦手です」と気軽にいえるようにもなりました。
――人と話すことが苦手だったのに、1万7000人もの人々のガイドをされて、自分を変えることができた。素晴らしいことだと思います。
ただ、苦手ではなくなったのは確かなのですが、技術を使って話しているという感覚はずっとあるので、それはまた今後の課題かもしれませんね(笑)。
――今後の夢や目標は?
これまでは後進を育成して「ネイチャーガイドを普通の仕事にしたい」を目標にしていました。普通に就職先の選択肢に入って、普通に研修があって、普通にお金がもらえて、誰でもなれる仕事にしたい。そう思ってずっとやってきて、それはある程度達成できました。
次のステップとしては、上高地という地域にとってちゃんと価値のあるガイドになりたい、ガイドの団体として運営していきたい。これが今の仕事上の目標であり、個人的な目標でもあります。
ネイチャーガイドを長く続けてきましたので、ありがたいことに地域の行政だったり、旅館組合さんだったりからもお声がけいただいて、いろんな協力もできるようになってきました。ガイドとして上高地に来るお客様を増やすためのアプローチをもっと増やしていきたい。それが今の目標です。
――それでは最後に、読者の方々にメッセージをお願いします。
上高地は、穂高連峰の雄大な景色を見てもらえれば、素晴らしさがわかっていただける場所ですから、まずは1回来てみてください。風景の鮮やかさ、梓川や新緑、黄葉など見どころは多いですが、一番のおすすめは夜。雪をかぶった穂高連峰が満月に照らされている風景は、驚くほど美しいです。
ただ、遠くて来るのが大変というネックもありますので、今は無料でオンラインガイドもやっています。SNSを使った発信も増やしていますので、まずは「上高地ってどんなところなんだろう」と興味を持っていただいて、写真や動画からでも、触れてみてもらえたら嬉しいです。
――今後のご活躍も楽しみにしています。本日はありがとうございました!
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この記事を編集した人
タニタ・シュンタロウ
求人メディアの編集者を経て、フリーランスとして活動中。著書に『スローワーク、はじめました。』(主婦と生活社)など。